東京木材問屋協同組合


文苑 随想

昔日閑話(第27話)

木場好人

深川木場(15)
(桟取り)

 前月号,末尾に掲載しました故浅野氏の「桟取りの画」の上部余白に書いてあった「木遣り」に就いて,2,3お訊ねがありましたので,若干注釈を致します。冒頭

(音頭)乗ッタラヱー
(受) イヱー乗ッテ乗ッテ乗ラレテー
    乗ッタラヱーグイートヨー
    シャクリヨーン
    並ラベヱーテヱー
    イヱー並ラベヱッテヱー
    シャクリヨーン

と有りますが,一寸解り難いのが,“シャクリヨーンゥ”と云う言葉,これは“持ち上げてー”と云えば解り易いと思います。丸太を堀の水中から上げるので,「酌り上げる」と云う形容です。“シャクリヨーン”と余韻を付けて“木遣り”の節に合わせるので“ヨーウンー”と延ばして次の文句に這入る理で,先ず乗せる,画の様に木口(末口の先,元木口が先の場合もある)が上ったら真ん中の川並が素早く“手鉤”を木口の下に打ち込んで,丸太の下るのを止める。そして両脇の者が長鉤を左右に打ち込んで,引張る動作に移る。その時の文句が次の“乗ッタラヱーイ”“グゥートヨー シャクリヨーン氏hと音頭を取る。それを受けて外の者が,“シャクリヨーンー”と云って丸太を前に引張る“シャクる”と云うのは,丸太の木口を浮かせて,下の棚の丸太に当てぬ様にする為,又丸太の大きさに依って前進させる速度が異がってくるので当然木遣りの節廻し,リズムが違って来る。太目のユックリ進める,稍遅いリズムの木遣りを,“大間木遣り”と云い,その反対に早目に曳く小丸太の場合は速い“早間木遣”と云って軽快なリズムの節となる。川並の「兄い」株の色好みの兄貴が音頭を取ると

(音)ヱー,乗ったかヱー
(受)乗ったヱー
   乗せたかヱー
   乗せたヱー
   行ったヱー
   未だヾヨー

なんて戯ざけた事を云って,仕事を楽しくする光景も有った。
 又“桟取り”にはその時の状況に依って,「浮き桟」と「当り桟」と二様あって,「浮き桟」は堀に浮いて居て移動が出来る。潮の干満に依り外の丸太と同じく上ったり,下ったりするが,「当り桟」となると堀の底に桟取りの底辺,一番下の棚,通常「根辺」と云って高く積んで,潮が上げても,下げても重味で堀の底に着いて居るので常に固定居る。棚数が多いので稍,細目の丸太の桟取りなる,常に固定しているので,堀の隅の方,邪魔にならない所に敷かれるが,それとても,堀の底の状態を見極めて,沈木,通常,「シモリ」(沈木のこと)と云って堀の底の沈んで居て底の状態が水平で無い所へは設置できない,堀の底を長鉤で探ぐって水平か如何かを確かめる。鉤の先に目が有る様に調らべる,これも永年やって居る経験の賜物である。「シモリ」の上へ桟取りを敷いて,傾むいて崩したら大事になる。丸太を桟取りの棚に上げる時の「掛け声」だが,解り易いのは“一,二の三”が通常だが素人臭い。重い時は大体「ヨイ,ヨイのヨイ」の三拍子で上げる。筆者が大戦に這入ってすぐ昭和17年3月1日未明に,インドネシアのジャワ島西部に敵前上陸。一線の歩兵が船から上り前進,我々「重砲兵」はそのあと夜明けの早い赤道直下の島の西端,ジャワの「パンタム湾」に上陸,糧秣,砲弾などトラックに積み込む時,当時の「インドネシア」はオランダの植民地として白人支配で苦しめられて居たので,我々有色人種の東洋人日本がインドネシア独立の為に上陸して呉れたと喜んで手傅いを申し出たので積込みを手傅わせたら,その時,重いのを2,3人で積み込む時の掛け声が「サトー,ドア,テガ」(一,二の三)と声を合わせて居た。輸送船の中で中隊から数名宛,上陸してから役に立つ様にと,マレー語の会話を教育されたので,一,二の三のマレー語とすぐ解った。中国では「イー,アール,サン」欧米では「ワン,ツー,スリー」と万国共通の一,二,三の掛声,マレー語を教えられたのですぐ解った。
 さて,戦闘は,オランダ,米国,英国,豪洲の連合軍で,我々日本軍と戦闘意識が全然違って,怪我をしたら大変と退却又退却で僅か一週間で降伏調印,南方16軍,今村中將の指揮の下,殆ど無血勝利。あとは進駐軍として各主要都市に駐屯,米は三毛作,果物は,マンゴー,マンゴスチン,パパイヤ,ドリアンETC。英軍の輸送船を占據して,ウイスキーは,ジョニ黒,赤,煙草は,「スリーキャスル」,「Wヱース」「ネイビイカット」ほか毎日高級煙草,ジャワビールは飲み放題,正に極楽,昭和14年の「ノモンハン」の敗戦を体験して居るので,正に「地獄のノモンハン」「極楽のジャワ」で約半年間官費旅行で大満悦,お陰で駐屯した「ボイテンゾルグ市」の兵舎(元オランダ兵舎)で隣地に駐屯した戦車隊と野球の試合をして,筆者が中学時代投手をやって居たので「ピッチャー」をやり,勝って,横浜出身の古参軍曹が大喜び,ビールを炊事から10打(ダース)許り持って来て,一生に一度の「ビール掛け」,熱帯なので薄着だが褌から勿論頭もビールだらけ,4,5回振って手の栓で加減をして飛ばすと3米位は楽に狙った所へ当る。左右前後からのビールで大騒ぎであったが熱帯地なので「シャワー」は完備,全身裸で自分の班へ帰った経験がある。果物の「バナナ」は腹がすぐ一杯になるので敬遠,マンゴー,又,木で熟したパパイヤ,それと初めての経験だが椰子の木の上の方に赤く熟した椰子の実を住民に上へ登って腰刀で下へ落とさせて,皮の上から傾に切って中の固い殻を腰刀で切って果汁を飲んだが,炎天下でも外側と内側の間に厚い毛細様なセンイに覆われて中身は冷たく,思い掛けぬ旨さに吃驚したのも60年前の話。
 進軍中,拾った“カメラ”で村の娘さんを撮った写真があったので後掲。休日の外出では「ニッポン―ニッポン」と呼ばれて,大きな“オッパイ”のインドネシアの女性に追っ掛けられて逃げるのに大変だった。
 古い想い出で,桟取りが崩れて終った。いずれ又。




前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2004