東京木材問屋協同組合


文苑 随想

昔日閑話(第28話)

木場好人

深川木場(16)
(堀の利用,効用)

 堀の利用に付いては,先月,先々月号で述べた「桟取り」,「浮き桟」,「当り桟」と御紹介しましたが,外に「鍋」と云うのがありました。「鍋」と云っても煮物をする鍋を云うのでは無く鍋の「蓋」の様な格好をした様なもの。通常原木問屋の堀は貯木と丸太の陳列をする様相を兼ねて居たので,見栄する様に配列して客が来て「歩び板」,通称「歩び」と云って陸から堀へ降る一枚板で潮の上げ,下げに応じて堀への傾斜が自然に違って来る。潮廻りに依って水面の高さが満潮時と干潮時の高低差で1m50cmにもなる時も有る。「大潮廻り」「小潮廻り」と云って区別して居たが,大潮廻りになると潮の流れが早くなり,筏,或いはお客が急ぐ時などは丸太の「一本乗り」で回漕する時もあった。小型トラックなど各店に有る現在から見ると陸送でなく,原木類は殆ど「海送」木場では「川送」になるが「大」は東京湾から月島に這入った。横浜からの海送による「回漕筏」から,隅田駅に着いた東北材,秋田材の丸太が多かったが,隅田川を上,下する筏,回漕専門にやって居た筏屋の「豊組」外など,又時に依っては木場から「隅田駅」まで地方造りの丸太の筏は木場の川並が扱ったりしたが,何れも潮時が大切な要素であって,落語の「刻そば」程,「今,何刻だ氏vの「台詞」の様に昔は「刻」と使ったかも知れないが明治以降,時計と共に「何時」と云う様になってからは「気象台」の予報は「東京湾の潮時」が公表されて居たが,木場ではそれから遅れての「潮時」になる。専ら「旧暦」の日取り,乃ちカレンダーに記載されて居る「旧○月○○日」を参考にして木場,我々の仕事をして居た「下木場」を例に取れば「潮更り」の日は「旧の11日と26日」が潮の更る大潮廻りと小潮廻りの更る日で,大体「潮更り」の日は午前9時30分,前後に上げ潮に成る。尤も天象の事なので「春夏秋冬」又「風向き」などに依り変る。木場の川の水面の表面は「潮止り」と云って「下げ汐」が終り,これから「上げ汐」になる頃,川面は止って居ても底流はすでに上げている,と云う現象。これらは何れも永年川並をやっていた川並の組の頭が古い川並の智慧であって,それこそ川並の言葉で「伊達に年を取って居るんぢゃ無え」と云う所だ。
 潮の話になって終ったが,「鍋」に戻ります。通常丸太は堀の中では「横押し」と云って一本宛横に並べてその木口の並んだ所へはお客の歩き良い様に足場と云って角材,又は大き目の平角材を大体3本組んで,その上を歩き乍ら丸太の良さそうなのを物色する。この足場だが二本だと如何しても段が付いて歩き難い,三本締にすると平行になってスムーズに歩ける。“三本締め”とは良い言葉だ。「鍋」の「蓋」の説明ですが,その横に並べた丸太の中心部に「縦」に2本か3本乗せて下の丸太を安定させる。但し,一本売りの丸太の場合は,上に乗せると下の丸太を返す(回転して裏を見る)場合に都合が悪いので上へは乗せない。裏を見る場合「返す」と云う。入札場などで丸太の単価を付ける時には必ずこの丸太を返す。乃ち称して「返し方」と云って,これを熟練しないと旨く行かない。唯裏を返すだけでなく,返す途中で節でもないのに凸部があると途中で止める。通常「返し鉤」と云って長さの短かい“長鉤”を使う。当然,自分に合った鉤,そして,地下足袋で足の指先を有効に使う。“癖”の有る丸太や“曲った丸太”“元木の張った”丸太など色々あるので仲々慣れないと難かしい。
 それと堀の効用だが,杉丸太,特に色の良し悪しで単価が大きく異なる杉の色,秋田杉は殆ど官材なので,伐採したあとで,末の方の葉を付けたまま数カ月,葉枯しをしてから,主として4Mに玉切りするので比較的色が良くなってから市場に出て来るが,民材の場合は根倒ししてから完全に葉枯をしないで玉切って市場に出て来るので水分を含んで居る為に色の上りが悪く,赤黒くなって年輪,節がなくて良くっても,色が悪いと半値近くになって終う。官材の様にユックリ寝かせて,水を吸い上げた樹は玉切りして木口を見れば良否がすぐ解る。樹の育った環境,空気と水の良い所と云うと,南面した斜面で,沢の水の近い所の木は比較的に色が良くなる様だ。同じ官材でも西の方,四国の土佐杉,秋田杉と同様に営林署の材なので根倒ししたのち“葉枯し”をして玉切って市場に出て来るが,矢張り生まれが違うと木質が異って来る。南の方なので年輪の目は“太く”そして色が濃い。赤味が強過ぎて赤黒くなる,同じ四国の営林局管内でも“田野営林署”材は比較的色が良く,“名張営林署”材になると色が悪い。所謂育ちが違う理で色々癖が有る。四国の手前,奈良県の吉野材は色と云い,目と云い正に杉としては最高の材質だった。“吉野神宮”の附近“上市”“下市”から出て来る丸太,又吉野神宮の貯木場に這入った川の中の丸太も浮きが良く,色も照りがあり,目は立って居て杉としては最高であった。この吉野材は民有林で営林署材は無かったが,吉野の山持ちは資産家で,代表的な“北村家”北村又左ヱ門と云う名の世襲で丸太の木口に“北又”の刻印が這入って居て,山での葉枯らしも充分,急いで金にするよりも“北又”材の真価を世に問うと云う姿勢で,自信があって市場に出す。北又専属の山の世話人,常に“林”の中での下苅りが充分行き届き,杉の木立が延び延びと空に向って生き生きとして,所謂木の“延び”が良く,枝打ちも充分に行き届いて環境は正に最高。外にも山主が有って,筆者が昔,吉野に行って北又の山の説明を受けたが,杉林の中でなく見晴しの良い所から説明して貰った時に,前方の山を見て“あの谷から,こっちの深い谷まで北又の山です”と云われて成る程と思った。正に“山”の単位の杉の蓄積,奈良県一の多額納税者の資産家,専属の“山守”の数も大変だったらしい。何と云っても杉は人間で例えれば,感受性の強い繊細な植物なので手入れを怠ったらすぐ悪い性になる。その点檜の方が単価は高いが育て方は楽だったとの事だ。“北又”の外にも中野利右ヱ門,又岡橋さんなどと山主が居たが何と云っても南斜面,沢の良い水の近く,と云う環境が必須条件,それにプラス手入れ,とそれなりの苦労があった。細かくなるが,杉の挽き肌の年輪の夏目と夏目の間の冬目に“鱗”の銀目が出れば最高。そこまで見る人,解る人は材木屋でも余り居ないと思う。皇居の修理に使われた“杉”は岡橋の材,松は山陰の本赤松と静岡の“千頭”の本赤松と実際,叙勲で宮中へ伺候した時に確に見たので,矢張り本物は違うと感心しました。それと最後に“杉”丸太の“アク”が木場の稍塩分を含んだ堀の水がアク抜きに効用が有ったのには“化学方程式”は解らないが先人の智慧とは云え感心させられた。

 以上一寸解り難い事項で誠に恐縮でしたが,“年金,拉致”と難かしい世の中,我々としては少々インフレ傾向が商売には良い様ですが?古い話許りで恐縮です。




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