東京木材問屋協同組合


文苑 随想

紀 行 文


セーヌ河の船旅
― 印象派の水辺へ ―

酒井利勝


 『印象派の絵には,絵画の行き着く最終地点があり,同時に絵を描こうという気持の原点がある。
 そのふたつが無垢の形で結合していて,ほとんど永遠の気持よさが光っているのだ。(中略)それまで観念の世界にしっかりと縛られていた画家たちの絵筆が,見たままに描きたいという欲望に目覚めて,アトリエから外に出てきた。人類初のめくるめくような体験である。(中略)
 昼間の光の微細な位相が次々に見えてくる。
 風景はすべて太陽に照らされている。建物の壁も屋根も,地面も,森も,太陽の光を受けてさまざまに変化している。それがいちばんはっきり感じられるのが池や川の水面で,だから印象派の画家たちは水辺に吸いよせられて,その風景を好んで描いた。』
         ― 印象派の水辺 ― 赤瀬川原平著,講談社刊。

 ワールド航空サービス社が企画した『イル・ド・フランスからノルマンディへ,セーヌ河の船旅』(私は嬉々として参加した。パリ上流から乗船してセーヌ河を河口近くまで下り,再びパリへ戻って印象派絵画最大の展示場オルセー美術館を訪ねる10日間のリバークルーズである。ミレー,シスレー,マネ,ゴッホらの故地をつぶさに訪ねる。
 イル・ド・フランスはパリを中心に半径100粁の沃野,印象派の画家たちの故郷ともいうべき地域である。ノルマンディは,その画家たちがさらにルーアンから大西洋岸まで足を伸ばして光を追った地域であった。
 限りなく催された日本における印象派展の,もはや耳に染みついたそれら画題の地名のすべてが,旅の枠内にあった。正に「印象派の水辺」の旅であった。


ミレーとバルビゾン村

 甲府の山梨美術館は,フランソワ・ミレー(1814−75年)の「種蒔く人」をはじめ多くの作品を持つことで有名である。「晩鐘」「落穂拾い」等の名作をはじめ,深い情感を込めて田園の描写に専念したミレーは,日本では最も人気のある作家の一人だ。
 クールベ(1819−77年)と共に写実主義の先駆者といわれるが,一般的には親友テオドル・ルソーらと共にバルビゾン派の領袖と見なされるのは,ミレーが長くバルビゾン村に住んでいたからだろう。バルビゾン派の作品が印象派の先駆をなすものであったことは近代絵画史上の通念となっている。
 バルビゾン村はパリの東南,バスで1時間半程,セーヌ川に近くまた「フォンテーヌブローの森」に極めて近い。
 ミレー在住当時の住人は350人,その中の100人が若い画家だったという。一軒の宿屋があり,亭主が若い画家たちを親切に面倒見た。現在の人口は1700人,二車線くらいの細い道が1本,村の中央を通るだけの小さな村だが,バルビゾン派のあとを慕って車通り,人通りは結構賑かだ。絵画関連のみやげもの店,小さな教会,喫茶店などが並ぶその通りは,いわゆる観光街の趣きはなく昔の素朴な面影は充分に残っている。

 ミレーの住宅兼アトリエは,守っている人がいたが,そのひとが最近なくなって開いている日は不定という。晴れて爽かな午後,訪れたその日開いていたのは幸せだった。
 アトリエはミレーの在世当時のままという。
 極めて質素な建物である。住宅を兼ねた三部屋,ミレー作品のコピーが飾られ,絵葉書などがひっそりと売られているが,実作は八号くらいのものが二,三見られる程度である。
 当時,漸くフランスに及んできた産業革命の波は,近隣のフォンテーヌブローの森 ― それはフランス第一の広さを持つ森である ― をも開発しようとする動きを持った。ミレーはルソーと共に森の保全に全力を傾倒,ナポレオン三世にも,後には王妃にまで直訴してその保続に力を尽くした。バルビゾン村の入口にはその功績を讃えた村人により二人の胸像が立てられている。


 バルビゾンから私達の乗船するアナコリュート号が碇泊しているセーヌ河畔のサン・マメスまでは,名にし負う「フォンテーヌブローの森」を横切ってゆく。針葉樹は殆ど見られず,明るい広葉樹の森は折からの新緑に,それぞれの緑を輝かせながら殆ど平地の中を延々とセーヌの河畔まで続く。翌日,シスレー終焉の地,ロワン川を遡るモレ・シュル・ロワンを訪ねての帰り,サン・マメスを先に出航してパリへ向っている船との落合い地点シャンパーニュへ行くのに,バスはもう一度フォンテーヌブローの森を抜けたのだった。数えきれぬほど其の名を聞かされた森だった。滴たるばかりさまざまの新緑に輝いている広く明るい森がゆるやかな起伏を造ってどこまでも続く。ミレーとルソーが懸命に守り抜いた森である。

アルフレッド・シスレー

 「サン・マメス」という表題のついている54cm×75cmのシスレーの作品がひろしま美術館にある。サン・マメスはロワン川がセーヌ河に注ぐ地点の小村だ。アナコリュート号はそのサン・マメスに碇泊して私達の乗船を待っていた。夕食までは暫く時間があったので私達はロワン川畔を少し遡って歩いてみた。ささやかな港町である。
 驚いたのは広島美術館の絵画と寸分違わぬといってよいほどの景が眼の前に展開していたことだ。ゆるやかな川の流れ,遠くだが鮮明な白いアーチの橋,橋に連なる赤い屋根,白壁の家々,点在する緑の木立。1885年の作品だから120年前だ。船のサロンに置いてあった画集にも「サン・マメス」は載っていた。更めて眺めてみても網膜に焼きついている先程の川畔の風景は全く違わない。感動は静かに広がっていった。
 アルフレッド・シスレー(1839−99年)数多い印象派の作家の中,シスレーが一番好きだという人は,私の知人の中にも少くない。「サン・マメス六月の朝」と題する日本橋ブリッジストン美術館に常時展示されている作品を想起される方も多いだろう。
 ロワン川沿いのモレ・シュル・ロワンに生れたシスレーは生涯この地を離れなかった。
 サン・マメスからバスで15分くらい。ロワン川にま近いシスレーの晩年までの住居を訪れた。古い教会のすぐ近くに蔦に掩われた三階建ての石造の家がひっそりと立っていた。
 ロワン川にかかるモレ橋を渡ると古い教会があり,少し歩くと二つの小さい城門に挟まれた,木組の白壁が美しい住宅の並ぶ中世の街並が見えてくる。
 「驟雨の中のモレの橋」1887年の作,(ル・アーヴル美術館蔵)モレの橋と教会とロワン川が,どれも近景で描かれている。ロワン川沿いの小公園から眺めるその風景は,これまた私達が今,見ている景色そのままなのだ。
 橋上からは中洲の花々と柳が望まれ,水車も廻っている。美しくのどかな風景である。
 シスレーとピサロ(1830−1903年)は印象派作家の中の長老的な存在だった。ピサロと九歳年下のシスレーの絵とは殆ど見分けのつかぬくらい共に穏かで,暖かい作風だった。生家が豊かだったピサロと異なり,六十年の生涯,売れっ子でなかったシスレーは一生貧しい暮らしのようだった。然しその作品は歓びに溢れ,匠気などみじんも感じられない。
 ロワン川周辺の様々な風光が,些かの作為もなくのびやかに写され,観る者を暖かく包んでゆく。シスレーの絵が多くの人に愛される所以だろう。
 サン・マメス,ロワン川を遡ってのモレ・シュル・ロワン。シスレーの,殆ど生涯暮らしたその地に,ほぼ半日にわたって滞まるを得たのだった。
 日は曇って時にわづかな雨がロワン川の川面を叩いていた。

クロード・モネ

 まずは旅の初めに凱旋門の西,マルモッタン美術館を訪ねたのだった。モネ作品のコレクションを主体とする代表的印象派美術館である。マルモッタン公爵の別邸であった。今は芸術アカデミーの所管である。
 「印象派」という名称の動機となった1874年の第一回印象派展(当時は印象派という名は生れていない)に出品された。ル・アーヴル港の日の出を描いたモネの歴史的作品「印象・日の出」もこの館の展示品である。睡蓮の連作,霧の国会議事堂,雪の中の汽車,アイリス,柳,等々モネの代表的作品が集められている。
 クロード・モネ(1840−1926年)パリに生れ,一家と共にノルマンディの港市ル・アーヴルに移り,少年時代この地の風景画家ブーダンに手ほどきを受けた。72年パリ近郊のセーヌ河畔の町アルジャントゥイュに落ちつき,83年更に下流のジヴェルニーに移り,ここで生涯を終えた。
 早く最愛の妻カミーユをなくしたモネは,のちアリスと結ばれてジヴェルニーに長く暮らしたが彼が70歳になった1910年,アリスは死し,長男ヤンも病死した。彼自身も白内障に犯されて4年間絵筆をとらぬ空白期間が続いた。再び筆を執ったのは友人クレマンソーの注文による睡蓮の大作(パリ・オランジェリー美術館蔵)に取り組んでからのことだった。
 セーヌ河を下って船はジヴェルニーに泊し,名にし負うモネの庭園と邸宅を訪ねた。雨のパラつく終日だった。街道を挟んで一方に睡蓮の庭。一方に花の庭を持つ広いアトリエ・住宅があり,両者は地下道で連絡されている。
 モネは,ジヴェルニーに定着後,日本風庭園の造成に全力を注いだ。セーヌ河の支流エプト川の水をひきいれて造った池は周囲200メートル,日本から多数の柳,80本の藤を運んだ。太鼓橋は我々の概念と些か異るものの,緑に塗られてゆるい曲線を持つその橋は広い庭園内に三本もかかっている。
 『私の最高の傑作−それは庭園だ』−モネ−
 道路を隔てた住居側の花の庭園2800m2の,恐らく倍以上はあろう水の庭園を,時々傘をさして私達はゆっくりと回った。平日なのに見学者はひきも切らぬ程だった。

 『私は自分の庭の睡蓮のすばらしさに気づくのには時間がかかった。
 もともと楽しみで植えた睡蓮を,絵に描こうなど考えもしなかった。
 風景のよさはすぐにはわからない。
 或る日突然,私は自分の池のすばらしさを発見し,すぐにそれを描き,それ以来ほかの題材をあまり扱わなくなった。−モネ−』
 モネが,主として睡蓮の絵に集注したのは六十歳を過ぎてからだ。晩年のモネは視力を殆ど失っていた。左眼は0.1,右目は光を知覚する程度だった。最晩年に近づくほど,作品は,ものの形としての線が失われ,光の凝集,色の存在感だけが強調されてゆくのは,或はそれが一因だったかも知れない。然しそのことによって作品は些かも光彩を失っていない。水面と睡蓮の対照,柳の陰・藻の光の直線と,花の点との水平の交錯,それらは来るべき抽象画の世界に先駆してさえいるのである。
 そのアトリエと住居は,広い「花の庭園」を前にして宏壮なものだった。青と淡いピンクに彩られた三階建である。黄色く塗られた壁の,上から下まで幾層にもびっしりと浮世絵が飾られている部屋が三つも続いた。マネ,モネ,ゴッホ,ゴオギヤンらが強く浮世絵の影響を受けたことは衆知の事実である。だが,モネがこれほどまでに質量共に勝れた浮世絵の多くをアトリエ,居間に飾っていたのには驚嘆した。清長ら鳥居一門の作品が多く,次いで歌麿,北斎,広重等。写楽が三枚あった。

 生涯をかけてモネが見つめ続けた色と光。
 石造りの教会の塔はいつでも灰色のそれではない。1306年に着工されてフランス随一の高さを持つ古都ルーアンの大聖堂,その西側のファサードを描くべく,モネは1892年と93年の二回にわたりルーアンに滞在,広場の正面にある婦人服店の二階を借りた。
 三十三枚の大作を彼は描き上げた。何よりも彼が興味を持ったのは,時間や日光によって絶えず移ろう大気や光の変化を石造りのファサードの上に表現することだった。
 『…モネのもっともすばらしい感覚,それは石が震えているのを彼が見ると,それを我々に震えていると見せてくれることだ…』大聖堂の画の五つはルーヴル美術館に蔵され,六枚はオルセー美術館にある。最終の日,私達はオルセー美術館を訪ねた。六枚の画の,全部が並んでいた。何という幸運だったろう。

 モネは印象派作家中,最大量の作品を残している。八十六歳という長寿を保ち,最後まで絵筆を放さなかった画業の長さにも依ろう。
 だが晩年彼を次々に襲った肉親の死,殆ど失明にすら近い眼疾,それらを克服して生き抜いたモネの強靭な作家魂には感嘆せずにいられない。
 パリには,モネの画を中心に蒐集された前記マルモッタン美術館,さらには全長が90メートルにも及ぶ睡蓮の大連作をめぐらせた,ルーヴル美術館近くのオランジェリー美術館もある。オルセー美術館でもモネ作品は完全に二部屋を占めてその作品は圧倒的に多い。フランス人の,モネを愛し遇することは驚くばかり手厚いのである。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

 南仏アルルにおける同志との共同生活の夢は傷ましくも破れ,ゴーギャンとの確執に疲れ果てて自己の耳切事件まで惹き起したゴッホ(1853−90年)が,病める心を抱いてオーベル・シュル・オワーズへやってきたのは1890年5月21日だった。
 船はパリからほど遠からぬブージヴァルにつき,私達はバスでゴッホ終焉の地へ向った。
 小さなゴッホ公園の中には,ザッキン作1メートルほどのゴッホの立像が,私達の背丈ほどの台座の上に立っていた。ザッキン独得の鋭い切線で刻みこまれた金属像ではなく,沈痛な面持の写実的鋳像である。そこからほど遠からぬ,ゴッホの下宿先だったラヴー亭と,それに隣接する観光局に着く。道路を距ててホテルがあり,ピサロはそのホテルに泊っていたがゴッホは安いラヴー亭を選んだ。薄暗く,天井の低い屋根裏の部屋だった。5メートル平方位。そまつなベッドと黄色の小さな椅子が一脚あるだけだった。余りにも有名な,デフォルメされた部屋,黄の椅子の強い存在を示すあの絵のモデルが,この部屋だと思った。だが後日,オルセー美術館で其の絵に接した時,それは,ゴッホがここオーベルへ来るまで住んだ南仏アルルでの作品だった。
 ゴッホがピストル自殺をはかり,その二日後この部屋で息を引き取ったのは7月29日だった。享年37。その70日間に,彼は憑かれたように77枚の作品を描き上げた。
 同じくデフォルメの強い,有名な「オーベルの教会」は,下宿先のラヴー亭からほんの僅か坂を上った緩い丘の中腹にあった。作品から小さな村のそれを予想していた教会は,意外にもかなり大きなファサードを持つ,少し古いが立派なノートルダム寺院だった。坂の中ほどに立って私はいくたびもそのファサードを仰いだ。
 そこから更に200メートルほどゆるい坂を上ると,ゆるやかな起伏を持った広い丘が開け,麦畑が遥に広がっている。時季が同じ頃だった為か,その地形,景観は数年前に訪ねたウイーン郊外の麦畑にそっくりだった。ハイリゲンシュタットの森に隣りし,かの「ハイリゲンシュタットの遺書」を蔵するベートーヴェン記念館からほど遠からぬ麦生の丘である。
 その耳疾に絶望してベートーヴェンが悲痛な遺書を書いたのは1802年,二十八歳の時だった。そしてハイリゲンシュタットで田園交響曲が作曲されたのは1808年である。
 「カラスのいる麦畑」は,1890年ゴッホの死の数日前にここオーベルで描かれた。
 二人の偉大な芸術家の生涯に思いを到さぬ訳にはゆかなかった。複雑な思いで麦畑のほとりに暫し佇んでいた。
 その丘の一角に,かの教会の墓地があった。墓地の一番奥の方に,弟テオと並んでゴッホの墓は横たわっていた。献身的に兄ゴッホに尽くし,兄の為に生きたとさえ思える弟テオはゴッホのなきあと半年でなくなった。
 墓地は,その死のいきさつの故に難色を示す教会を説得してテオが十五年の契約で借り,テオ亡きあとテオ夫人が永久墓地として借り受けた。記念碑的なものは何もない。二つの墓は地に横たえられて区画されているだけであり,共に緑濃い蔦が墓石の表面を掩いつくしていた。
 ゴッホは多作の人だった。二十七の時職業画家となった彼は三十七歳で死んだ。この十年間に油彩画,デッサンをそれぞれ800点ずつ残している。終焉の地オーベル・シュル・オワーズの七十日間では驚くべき秀作を数多く残した。
 バルビゾン派の画家ドービニー,佐伯祐三,セザンヌもまたこの村を描いている。

 最後までゴッホの面倒を見た理解者,「ガシェ医師の肖像」,「オーベルの教会」,そして彼の「青の自画像」それら数々の作品を,最終日,オルセー美術館ゴッホの室で,私達はどれ程深い感慨をもって眺めたことだろう。

セーヌ河

 セーヌ河はパリの南南東ブルゴーニュ地方のモルヴァン山塊に源を発して,北へ流れ,大西洋岸まで七七六粁。蛇行を繰り返しながら,昔と変らぬ姿をとどめる小さな村々を進んでゆく。
 パリはモンマルトルの丘の中ほどにあるホテルに一夜を明かした翌朝,ほど遠からぬサクレ・クール寺院のテラスからパリの新旧市街を見渡し,ルノワールの名作「ムーラン・ド・ギャレット」の舞台であったそのカフェダンスホール,美術家たちの溜り場だった居酒屋「ラバン・アジル」に立ち寄ったあと,コンコルド広場などをかけ足で眺め,モネを主とする印象派作品の展示で知られるマルモッタン美術館を見学する。いよいよ印象派学校の開幕という思いである。
 広野の中を坦々と続くハイウェイ,一般道を小一時間走ってミレーのバルビゾン村に到着。ミレーの住居,アトリエ見学のあと暫し村内の散策を楽しみ,彼らが守り抜いた「フォンテーヌブローの森」を通り,セーヌ河岸のサン・マメス村に碇泊中の「アナコリュート号」に乗船する。セーヌ河リバークルーズ中の優船と聞くが定員五十人の可愛らしい船である。このあたり,僅か村を離れればセーヌ河の両岸には全くの田園風景が広がっている。

 翌日はサン・マメスからバス十五分,シスレーの生れ故郷で且つ終焉の地「モレ・シュル・ロワン」に向う。シスレー在世当時と全く変っていないであろう静かな村を時々雨が通り過ぎる。ゆっくりと時間の流れる中世紀的石畳の連なる街を往復してバスの待つロワン川畔の小公園に集合,船との合流点セーヌ河畔のシャンパーニュに向う。船は七つの水門を通過して夕刻パリ市内手前で碇泊する。夕食後暮れるのを待ってセーヌ河ナイトクルーズという趣向だ。
 余多の名橋をくぐりながら,ゆっくりとセーヌ河を下るとやがて逆光に浮び上がるエッフェル塔の印象的な光景が見え初め,暫くしてそれはライトアップされてくる。午後九時をまわる頃そのライトアップの表面,塔全面に大きな火花がきらびやかに点滅し初める。少し騒々しい感じだが,絢爛たる壮観だ。三十分ほどしてその火花が消えると半月が塔の頂き近くに掛かっている。
 船は塔近くの河岸に碇泊し,船内ではシャンソンコンサートが始まった。

 パリ下流の碇泊地ブージヴァルからゴッホ終焉の地オーベル・シュル・オワーズまではバス一時間半,帰途はシスレーの洪水を描いた作品「ポールマルリーの洪水」「洪水と小舟」の現場を通過。後日両作品を共にオルセー美術館で眺め得たのは幸運だった。洪水の不穏な緊張感は全くなく,水と建物の接する美しさだけが静かに描かれている。

 次の碇泊地へ着くまで半日近く,ゆったりした時間と,セーヌ河岸の美しい景色を楽しんでいられる時がある。
 六月末のセーヌ河は豊かな水量で見渡す限りの平野の中をゆったり流れている。時々現われる両岸の町は静かで工場の煙は殆ど見掛けない。両岸の草と潅木が水面を浸し,雑木の林は岸から奥深く続いている地点が時々現われる。地図上で見ると,パリの河口のル・アーヴルの間には二十二もの大きな蛇行があり,驚いたことに水門が十二もある。大きく立派な水門ばかりだ。だがセーヌ河はいつもまっすぐ流れているように見え,うっかり船室にでもいようものなら水門の存在さえ気がつかぬ程だ。
 たまたま碇泊したレザンドリー(パリとル・アーヴルの中間点くらい)が屈曲点だったので蛇行に気づいた程度である。レザンドリー附近は,石灰岩の白く,低い断崖が両岸に続き,それまで下ってきた両岸の景観と趣きを異にしている。左岸前方遥な丘の上にガイヤール古城が聳え立っていた。英仏百年戦争(1337−1453年)中,リチャード獅子心王がノルマンディの牙城として十四世紀に築いた城だが,今は廃墟でしかないことは,遠目にもさだかに分る。
 山と丘の間を流れ,至る所に古城の見えるライン河と異なり,平野のただ中を流れるセーヌ河沿岸の,唯一,百年戦争名残りの古城だが,つわものどもの夢のあと とも言い兼ねて何か侘しい。

 昼食後バスでルーアンへ向う。まずはルーアン大聖堂へ。塔はフランス第一の高さを
持つ151メートル,内部穹窿の高さ71メートル,ゴシック形式教会の最傑作といわれる。
 更めてモネの大聖堂描写に向けた情熱を偲び,聖堂広場をあとにして,城内代りになっている時計塔をくぐり,ヴューマルシェ(旧市場)広場へ出る。聖少女ジャンヌ・ダルクが1413年,火刑に処せれた所,今はその処刑場あとに大きな十字架と,彼女の名に因んだジャンヌ・ダルク教会(市場の魚の形を模した風変りな設計)が立っている。
 フリータイムのあと,夕刻近く船の待つポーズ村へ,セーヌ河最後の水門のある村でもある。河岸から草を踏んでひょいと甲板へ乗り移る感じである。

 翌朝は,バスで白い石灰岩の断崖,奇岩の景勝地エトルタへ。ところどころ牛が放牧され,緑豊かなノルマンディの田園地帯を通り抜けると小さな街へ到着。十分程歩いて土産物店の並ぶ坂を登ると目の前にあっと驚くような青い空,青い海が現われる。
 エトルタは,セーヌ河口から海岸伝いに東北へバス約一時間,全長1.5粁に及ぶ白い玉砂利の浜,そしてその両端にそびえ立つ断崖の奇勝は,クールベ,モネをはじめ多く有名画家たちの好個の画材となっており,その地名,その奇勝の形は既に私達に親しい。
 海に向って左側の,大きく穴のあいた方がファレーズ・ダヴァル,右側はファレーズ・ダモンと呼ばれる。多く画題となるのは前者である。ややきついが断崖の上へはどちらも歩いて登ることができる。折しもこの日は旅行中最高の日和,頂上からの景色は更に格別だった。海峡の空に刷毛ではいたような薄雲が,わずかに流れるほかは,海も空も輝くばかりのブルーである。
 ファレーズ・ダヴァルを,クールベが描いた「嵐のあとのエトルタの断崖」(オルセー美術館蔵)は迫真的な写実だ。モネは「エトルタのマンヌポルト」(メトロポリタン美術館蔵),「エトルタの夕日」(ノース・カロライナ美術館蔵)その他に描いている。前者は構図が凄い。恐龍の足の部分と思わせる。色彩がまた微妙で豪放だ。後者は夕日の中に静かに落ちついている逆光の岩の全景である。

 バスに乗り,セーヌ河にかかる橋の中で最長(2500メートル)のノルマンディ橋を渡り,河口近くの町,オンフルールへ。
 ルイ十四世の命で造られた軍港(旧港)やかつてはセーヌ河畔で最大級の漁港を持つ,戦略上も経済上でも重要な港町だった。現在ではその地位を,より河口のル・アーヴルに譲り,イギリスの保養地として人気のある静かな町だ。ノルマンディ様式の木造家屋が立ち並ぶ歴史のある町並が広がる。印象派をはじめ多くの画家たちがその美しい景色をキャンバスに描いてきた。三方を,古く美しい町並にかこまれて,余多のヨットを碇泊させている旧港は,コペンハーゲン旧港の風情をそのまま陽気に,小さくしたようで明るく,賑かである。
 この地で生まれた印象派の先駆者ウージェーヌ・ブーダン(1824−98年)の,こじんまりした美術館は,賑わう商店街の坂を上りつめたところにひっそりと立つ。ブーダンの作品を中心にクールベ,モネなど。帆船を描いて空を広くとったブーダンの二点が印象深い。
 フリータイムのあと,バスで船の待つルーアンへ戻る。
 時間があったので再びルーアン大聖堂を訪う。高い穹窿にかかるステンドグラスは,新旧独得のデザインを取り交ぜてほっそりと,華麗に輝いていた。出でてセーヌ河にかかるルーアン大橋を渡る。セーヌの左岸に立つと,間近くファサードだけを仰いだルーアン大聖堂の全貌が河を距ててくっきりと聳え立って見える。このあたりセーヌ河は川幅が広がり,中洲の島には新緑の樹々が鮮やかである。

 この日,アナコリュート号は最終とあってディナーはガラ・ディナー,いつもより多少豪華な料理が並び,ナポレオンがこよなく愛したというワインやチーズを披露するソムリエも少し得意気である。

パリ

 十日間の船旅で親しくなった船のクルー達に別れを告げて,翌朝,ルーアンで下船,セーヌ河を遡ってゆく感じでパリへ向う。バス三時間,三時間のところを船で六日をかけて下ってきた訳だ。
 昼過ぎにパリに入る。昼食後はフリータイム。初めてパリを訪う友人の為に何はともあれ,凱旋門とノートルダム寺院をということで,まずはメトロで凱旋門へ。オペラ駅で乗り換えと聞いてきたのだが,その乗換えルートが分らない。中年のマダムをつかまえて尋ねると「フォロー・ウイズ・ミー」,これは有難いとついてゆくと,何とマダムが間違えていてあと戻り,やっと別なホームへ出る。「二つ目だよ」とくどいほどマダムが念を押す。同方向へ行くのではなかったのだ。発車するまで見送っていてくれた。パリ人には珍しい親切さに感激した。広いシャンゼリゼー大通りを歩いて辿り着いた凱旋門は修理中でエレベーターは休止,四百段のらせん階段を上って頂きへ出ると放射状に出る十本のメインロードの新緑が鮮かだ。
 メトロはあきらめてノートルダムまではタクシー。パリの物価は平均して東京より10%くらい高い感じだが(消費税18%)タクシーは20%くらい安いのではなかろうか。ノートルダム寺院でも暫く行列して塔上へ。らせん階段360段,些か疲れる。降りてくると一階ではミサが行われており,黒人聖職者が唱うように朗誦する聖書の響きが何とも印象的だった。

オルセー美術館

 「セーヌ河の船旅」は,印象派の水辺への旅であった。さらにつづめて言えばそれはシスレー,モネ,ゴッホ讃頌の旅でもあった。
 何十回となく聞いた「アルジャントウィユ」がこれほどパリに近いとは夢にも思わなかったし,シスレーのサンマメスがその当時と全く変っていないなどとは思ってもみなかった。モネの日本式庭園は驚き呆れるほど広く,立派だったし,ゴッホ終焉の地の深刻な感銘も予想を絶した。
 それらすべての総括として最終日にパリのオルセー美術館を訪れた。印象派の絵画を中心に,1848−1914年の諸作品を収蔵している。
 「ルノアールは人物であり,モネは水である」とどこかで解説者が云った。モンマルトルの丘の「ムーラン・ド・ギャレット」,庶民の生きる歓びを謳いあげたルノワールの大作,1877年の印象派第三回展を飾った131cm×175cmのそれは,まさにオルセー・ルノワール室の大作の中の圧巻だった。
 シスレーとピサロ,虔ましい小品が,あの「ポールマルリーの洪水」二点と共に,室を充たして静かに輝いていた。
 セザンヌは初期から最晩年まで入っていた。
 サント・ビクトワール山の作品は意外に少なかったが,「静物りんご」はこぼれんばかりに数枚の作品が並んでいた。
 モネはすべてのジャンルにわたって作品が網羅されている感じだった。外光における人物の試み−「左向きの日傘の女」「右向きの日傘の女」・「積藁」の中の二点。そしてあのルーアン大聖堂の六点,睡蓮諸作は勿論である。
 スーラ,シニャックの輝やかしい点描派は全くかけ足になってしまった。
 半日間でもオルセー美術館へ寄れたのをよしとしなければならぬだろう。

 午後2時30分,ド・ゴール空港へのバスを待って一旦ホテル,ホームプラザ パスチーユに集合した。然し予定時刻をかなり過ぎてもバスが来ない。
 当日は,ブッシュ大統領がパリを訪ねていた。第二次大戦に連合軍反攻のきっかけとなったノルマンディ上陸作戦の成功を記念しての訪仏であった。予定されぬ(届け出でのない)反ブッシュの大デモが組織された。バスチーユ地区はデモの中心地帯になって,バスが寄りつけぬという。
 そもそもバスチーユなどというフランス大革命のきっかけになった地区(バスチーユ牢獄の破壊)に,然も7月14日が間近だという時,宿をとったのがうまくなかった。?
 バスへ積みこむ一行20人のトランクを積んだ手押車二台を,バスチーユ広場までのゆるい上り坂を一同(といっても男性だけ)で押してゆくしかなかった。大汗をかいてバスの入れる広場まで運びあげ,辛うじて出発に間に合った。
 フランスは,パリは,やはり生きて動いていたのである。




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