東京木材問屋協同組合


文苑 随想

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No.49 「夏の椿山荘」と歴史

青木行雄

 東京都の西北部に位置する椿山荘周辺一帯の高台は,昔から椿の自生する景勝の地で,南北朝時代の頃から「つばきやま」と呼ばれていたと記されている。
 江戸初期,伊賀上野の藤堂家の家臣として神田上水の改修に携わった松尾芭蕉は,この地の風光を愛し,深川芭蕉庵に移るまでの4年間の一時期を現在の椿山荘に隣接する竜隠庵(現・関口芭蕉庵)に住んでいたと言う。
 江戸中期には大名の下屋敷などが配され,明治維新の頃には細川家,黒田家,柳生家などの別邸地であったとも記されている。
 明治の元勲山県有朋公爵はしばしばこのつばきやまを訪れて大変気に入り,明治11年(1878)に私財を投じてここを入手すると「つばきやま(椿山)」の名にちなんで「椿山荘」と名付けた。

山県有朋(1838〜1922)
 長州藩出身,明治・大正期の軍人,政治家,松下村塾に学び,奇兵隊軍監,総督として幕末の動乱期に活躍した。
 総理大臣として第一次(1889〜1891),第二次(1898〜1900)山県内閣を組織。枢密院議長,元老筆頭。政治家として伊藤博文と共に明治政府の最高指導者であった,また軍人として陸軍大将,参謀総長,元帥,明治憲法の時代で最高の地位。爵位は公爵。

 公爵が築庭に優れていたことは,後の京都の無隣庵,小田原の古稀庵でも広く知られていると言うが,この椿山荘についても約2万坪の起伏豊かな地形を巧みに生かして,今日に見る名園に造りあげたのである。
 そして明治天皇をはじめ,当時の政財官界の第一人者たちがしばしばこの椿山荘を訪れ,重要会議が開かれたと記されている。
 山県公爵の本邸は鞘の間をめぐらせた広書院に狩野永徳筆と伝わる松に鶴を描いた襖などが配され,雅趣に富んだものだったが,不幸にも今次大戦末の戦災で焼失したのである。
 その後,関西財界で主導的地位を占めていた藤田組の二代目当主・藤田平太郎男爵が(ゼネコンの藤田組とは関係ない),名園をありのままに保存したいという山県有朋公爵の意志を受け継ぎ,大正7年(1918)に椿山荘を譲り受けた。
 藤田男爵は山県公爵の本邸を荘内東側の丘に移築し,記念館として保存した。そして大正7年から5年の歳月を費やして広大な庭園にふさわしい邸宅を造り,また三重塔をはじめ旧い歴史を偲ばせる文化財の数々を随所に配して,その風情を一段と高めていった。
 しかし昭和20年(1945)5月25日の空襲で発生した早稲田の町の火災が,折りからの強風で椿山荘に飛火し,数々の歴史に彩られた山県公爵の記念館とおよそ一千坪の大邸宅,並びに樹木の大半は,わずかに三重塔,白玉稲荷神社,倉1棟を残して無惨にも灰塵に帰してしまったのである。
 不幸中の幸,椿山荘の白眉三重塔は独立する丘に木立に囲まれていたため焼失をまぬがれ,現在も妙なる曲線を中空に描き出していた。
 戦後の荒廃のなかで逸早くこの名園椿山荘の復旧に立ち上がったのが藤田観光創業者・小川栄一氏であった。
 小川栄一氏は昭和23年(1948)から5ヶ年計画で復旧に着手し,1万余りの樹木の移植を実行し「東京に緑のオアシスを」をモットーに,昭和28年(1953)その完成をみたと言われる。
 昭和39年(1964)には東京オリンピックを迎え,それに対応する国際ホール等を設備,そして46年(1971)に時代の流れに順応し結婚会館を完成した。繁盛期には年間3600組の結婚式を,若いカップルを送り出した。この時代の要請に応えながら,往時をしのぐ名園椿山荘を見事によみがえらせている。
 コマーシャル的な文面も多くなったが,このように椿山荘は公爵山県有朋,男爵藤田平太郎そして,小川栄一と三代にわたって慈しみ育まれて来たのである。
 昭和58年(1983)に最新の設備と豪華な雰囲気を兼ね備えた新館,62年(1987)には本格的数寄屋造りの料亭「錦水」63年(1988)新チャペル,そして平成4年(1992)1月にはヨーロピアンクラシックの最高級ホテル5星の「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」がオープンした。
 私のごく親しい人が当時総支配人であり,藤田観光の副社長を勤めていた関係上,よく利用させてもらった。特に初夏のシーズンに開催する「ホタルの夕べ」は椿山荘ならではのイベントであった。7日程で生がつきる「ホタル」を全国から集める苦労は聞いてみなければわからない技である。1ヶ月あまりのシーズンだけで,集める「ホタル」の数,10万匹,地方の温度や気温によって発生が違う場所を追って交渉が始まる,環境問題や,地方のヤーさんの介入等,苦労の連続であったらしい。そして,この問題からさける為,一時レーザーによる光の模造ホタルの夕べとなった事があったが人気がわるく,3年ばかりで止めてしまった。
 そして現在は,以前何年も続けたホタルの幼虫が自生したのと養殖とで「ホタルの夕べ」を開いている。やはり自然にはかなわない良さである。又屋外で芝生の上の結婚式や披露宴は椿山荘ならではの風景であった。
 前に記したが景気の良さとブームの時は年間の結婚式が3600組あったと言うが,現在では2000組と言っていた。繁盛期の一日の結婚式多い時で40組,早朝から夜おそくまで,嫁さんを取違えた話もあった程である。今考えて見ると夢みたいな現実である。

椿山荘の三重塔
 椿山荘に行ってどこからでも見え,庭を一層引き立たせているこの三重塔,戦災もまぬがれて残保され,貴重な存在である。
 この塔は広島県賀郡河内町入野の山上伽藍,篁山竹林寺にあったものだが,長い間修理の手が行き届かず,上層部が大破したまま放置されていた。大正14年(1925),藤田平太郎男爵がこれを譲り受け,解体し椿山荘に移築したと言う。
 創建の年代は明らかでないらしいが,細部の様式や繰形の特徴などから室町時代末期の作と推定されているようである。
 東京都区内に現存する古塔は上野動物園の旧寛永寺五重塔(江戸時代)と池上の本門寺五重塔(江戸時代)とこの椿山荘の三重塔の3塔だけであり,貴重な文化財であると言うことであった。
 この三重塔があった広島県の篁山竹林寺を調べて見ると,天平2年(730)僧行基の開創と伝えられる。この年を日本史年表で見ると薬師寺と東塔の建立,興福寺の五重塔を建立とあるが,この時代,寺の創建や塔の建立が地方でもさかんであったのだろうか。
 平安時代の漢学者で歌人として名高い小野篁の奏上により嵯峨天皇が七堂伽藍を建立,勅願寺にしたという古刹らしい。他説では,この地は篁の生誕地とも伝えられていると言う。
 篁を生んだ小野一族は,聖徳太子の命で遣隋使として渡海した小野妹子,また平安中期の漢学者で書家の小野道風など多くの逸材を輩出したが,この小野篁は天満天神として祭られている菅原道真に優るとも劣らない逸材として尊敬を集めたと言う。
 こんな時代に関係する椿山荘の三重塔である。椿山荘に行った時は興味があれば,是非一度見ておきたい遺物・遺品の一つであるが。
 荘内には他に神社や移築した歴史上の建築物が数点ある。
 無茶庵・木春堂・五慶庵・長松亭・残月・白玉稲荷神社等々である。
 椿山荘は宴会で行くだけではなく,ゆっくり見て廻わるのもこれも興味があれば楽しい一日コースになる場所である。
 無茶庵・もと文京区林町にあった紅葉旅館の離れだった旧・某氏邸を譲り受け,昭和29年(1954)に移築した。
 入口から南側の部分には手斧やくさびを使用していた痕跡が見られることから,室町期,大田道灌の活躍していた時代に造られたものではないかと言われていると言う。
 木春堂・五島慶太翁所有の神奈川県足柄上郡の中津川渓谷沿いにあった田舎家を譲り受け,昭和28年(1953)に移築した。
 五慶庵・京都二条城前にあった,三井邸を譲り受け,昭和29年(1954)に移築している。
 長松亭・電力業界の長老松永安左衛門翁に設計を依頼して完成した,松永翁好みの四畳枡床向切逆勝手の茶室である。昭和29年(1954)建築した。
 茶室残月・箱根小涌谷の藤田男爵の別荘に男爵が表千家の茶室「残月亭」写して建築したものを,昭和22年(1947)に移築した。
 白玉稲荷神社・大正13年(1924)藤田平太郎男爵が京都下鴨神社にあった1間四方の社殿,拝殿を譲り受けて移築し,翌14年(1925)5月3日伏見稲荷明神から白玉稲荷を勧請して椿山荘の守護神とした。昭和20年(1945)5月25日の空襲による火災時にも炎をよせつけず,三重塔と共に奇跡的に類焼をまぬがれた。平成元年(1989),フォーシーズンズホテル椿山荘東京の建設工事着工に先立ち現在地に新社殿を新築し,遷座した。
 以上のような建築物の他に十三重の石塔や石灯籠,滝,御神木,庚申塔,吉香井等々が点在し,これも興味があれば楽しむことが出来る。
 この都心の一等地に約2万坪の土地を有し緑につつまれた椿山荘の森はおとずれた人々の心をいやし,一つ一つの史蹟が生きずいている。藤田観光と言う個人企業の用地ではあるが,東京都民の貴重な財産とも言えよう。
平成16年8月1日

椿山荘5星のホテル,「フォーシーズンズホテル椿山荘」 歴史が語る椿山荘の3重塔,興味があれば一度は見ておきたい塔である。



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