東京木材問屋協同組合


文苑 随想

原木(丸太)商売盛衰記(6)


白坂 鐘蔵



 かつて北海道産のタモと真樺はその樹の持つ斑(ふ)の美しさと模様の素晴らしさで欧米に盛んに丸太の儘,輸出されていたが,資源の枯渇を心配して加工品でなくては輸出が出来ない様になり,四ツ割りしてキヤンツとして輸出していたが,やがてスライスして単板の形で輸出する様になった。
 昭和30年代に,私共の会社も北海道,北見の合板工場を貸し切り,樺の単板をアメリカ・シャトル市のボーイング社の航空機の内部に貼る化粧板として1年間,製造して送った事もあった。
 その後,日本の合板製造技術も向上し,化粧樺合板として輸出する様になった。その様な形態の変化は,北海道材に限らず,南洋材等も同じ様な形で,現在は最盛期の何%かに丸太の輸入が減少している原因でもある。
 月報8月号(盛衰記4)で述べた如く,初めは旅役者の様に地方の駅を次から次へと列車を乗り継ぎ貨車により搬送をしていたが,次第に小型の木材専用船が出来て直接,地方の港に入る様になり,時代の流れで特別の物以外は注文も取れなくなった。
 又,高速道路も延長され,地方の道路も良くなって来たのと,注文を取ると手持ちをしなくても直ぐに欲しい物が手に入るので,スピード化が要求される様になった。

関八州へのトラック輸送
 地方でも支払日は大体10日が多いので,毎月10日に出発して群馬と埼玉を私が廻り,その他の茨城,栃木,神奈川の3県と静岡県は伊豆半島の先端の下田迄,弟が廻る様にしていた。
 丸太は米材の取り扱いが殆どで,積載するトラックは8トン積と長さが12メーター物が多いので,トレラーを2〜3台(写真添付)を使い,朝早く出発し,早朝に先方に到着する様にして,お長い間やっていたが,ひとつの事故も起こさないで来られたのは幸いである。

群馬県(上州)について
 前に述べた様に,私は群馬と埼玉県を廻っていて,特に群馬県については25年程,廻っており,相当詳しいので記述したいと思う。
 地方の材木屋では,全部ではないが,材木屋が儲かると思い,俄に店を出す非常識な者もいるので,良く調べて売らないと質(たち)の悪いのもいるので,販売だけは二人でする事にしていた。
 私の友達に群馬県,前橋市で建材関係の卸と小売りをしている者がいて,群馬県下を広く売り歩いていたので,その中より内容の良い(勿論,支払いの良い)店を40社程出して貰い,前橋に3泊して,行きと帰りがあるので中2日は1日に14〜5軒を廻る様になるため相当忙しく,地図が道路を良く分かっていなければ廻り切れなかった。
 群馬県は鶴の舞っている姿になっていると言われ,渋川市の四ツ辻が丁度,日本の中心になるとの事で年に一度「へそ祭り」が行なわれている。
 上州名物「かかあ天下にカラッ風」は有名であるが,確かに上毛三山「赤城山,榛名山,妙義山」に囲まれている盆地で,乾燥した強い風が横に吹くので雪も積らず,冬は車の運転にはハンドルを取られ気を使う。
 「かかあ天下」の方は昔より養蚕が盛んで,富岡市には日本で最初の製糸工場がある位で,子供を育て乍ら良く働くが,亭主の方は,全部ではないが,暇があるのと,殆どが幕府直轄の天領にて年に数度の関八州見廻り役が来る位で殆ど代官に任せていたので,賭博が公然と行なわれ,競馬,競輪を始め競艇迄あり,普段の日でも結構混んでいる。
 又,群馬の女性は働き者で確かりしており,外に向かっては強いが,家庭においては亭主を立てて柔順で,奥さんにするには最適である。
 社長が殆ど工場に入って仕事も多く良く働いていたので,米松を一台売った所,集金したお金を博打が好きで支払いを忘れ使ってしまい,仲々払ってくれないので,N町の駅前に奥さんが盛大に美容院をやっている事を聞いて,店に行くと,お客の女の人が相当待っており,その中に私は小さくなって座り,順番が来たので奥さんに事情を話し,やっと全額を現金で貰う事ができたが,「次は売つてもこちらでは絶対に払わない」と釘を刺されたが,女性の客の中に紅ならぬ黒一点で恥ずかしかった。相手は正しく髪結いの亭主である。
 現在の選挙区制度に変わる前は,群馬県の高崎市を始め北部は第三区になっており,衆議院選挙では定員4名の内,自民党3名と社会党1名の指定席で自民党は福田,中曽根,小淵の元総理が出ている珍しい所で,3名の内2名は材木屋に関係しているのには驚く。
 S市の得意先の息子の結婚式に呼ばれ,土地の有力者でもあったので招待客は180名程で社長と特別に懇意であったため主賓の席に座っていると,左側は中曽根前総理の兄で高崎の古久松木材社長の吉太郎氏で,右側は当時の群馬県知事(福田派)で有名人が多くいるのに,私は主賓の一番に挨拶をさせられ驚くが,福田,中曽根両派はいずれも選挙事務所が高崎市内の目の前にあり仲が悪く,何れの一方に先に挨拶させると大変な騒ぎになるから,私が先に挨拶をさせられた次第である。
 両派の仲の悪いのは上記の理由だけでなく,戦国時代に遡り,武田信玄が上州に攻め込み占領軍の司令官として残ったのが福田さんの先祖で,群馬には大曽根,中曽根,小曽根の姓が多く,当時の地侍の頭領が曽根を姓名に付けており,立場の違いから現在に至る。
 小淵さんは温厚な総理であったが,在任中,脳溢血で亡くなられたが,奥さんは得意先の材木屋の娘で社長の父親には特別,可愛がられた。
 現在は息子で兄が社長でやっていて,3人の元総理の中の二人が材木に関係しており,小淵さんの種々の事業の中に製材工場もあり丸太を買って貰った事もあった。
 毎月,行く前に出張案内を出してあるのと,定期的な出張であるので,25年も歩いていると親類以上の付き合いになり,親から子供,孫と成長して行く姿や家の中の事情にも詳しくなり,息子に嫁さんが何処の家から来たかも分かっているのと,殆どの店では主人が工場に入って経理と会計帳簿等は奥さんが受持ち,店によっては行く日が分かっているので,嫁さんが朝から化粧し頭をセットして待っており,東京の話や里の方も廻っているので伝言や様子を聞かれる事があるが,話をしている裡に,何の変化か目がうるんでくる時もあり,変な事になっては大変と退散する事も度々あった。誠に辛い仕事である。
 丸太の取り扱いは米松丸太が栂と違い傷が少ないので勧めていたが,自分の裏に手持ちの山があっても伐採する人がいないのと,長さが殆ど12メーターと長尺材で元木で無節が多いので製材の能率も良かったので喜ばれた。
 添付の写真の物はベトナム松で定尺(長さ4メーター主体)経級は30〜40センチで殆ど無節であったが,ベトナム戦争の最中に両軍にお金を渡し休戦中を運んで来たとの事で,日本の商社は商売の為には凄い事をすると感心をした次第であり,戦場より持って来たので製材していると,中から鉄砲玉が出て来る事があり零された事もあった。

※ベトナム松 ※ベトナム松の山
 
※8トン車 ※トレーラー



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