東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり


No.56 「上高地物語」

青木行雄

 トンネルを出たら,そこは上高地だった。
 初秋の9月松本から野麦街道国道158線の山間道路を1時間以上走り,稲核ダム,水殿ダム,奈川渡ダムに続きトンネルを5つ程通った。すっかり有名になった白骨温泉のカンバンが見えて来たが,そこで道路は右左に別かれた。右にまがったバスは,すぐに凸凹道のトンネルに入った。新らしいトンネルが工事中であったが,今は片側通行,信号で15分程待った。この釜トンネルを通るのに渋滞で少々時間がかかったが,出たらそこは上高地であった。

 私は学生の頃から大変山に関心があり,関東の夜行日帰りコースは良く出かけた経験がある。土曜の夜になると,リュックをしょって上野から夜行列車によく乗った。リュックの裏には行き先がぎっしり書いてあった。懐かしい思い出である。あれから何十年か経った。特に私達の時代,山男の憧れは何んと言っても日本アルプス槍ヶ岳,穂高岳等であった,2泊以上かかる上高地穂高連山には時間もなかったが,勇気もなかった。そして,あれ程憧れていた上高地には一度も行く機会がなく,山を忘れた私には何十年かの時間が過ぎた。今思い出すと,小説「氷壁」の映画の舞台になった上高地の山々や牧場の面影を残す徳沢も遠い昔の思い出である。
 登山ブーツが到来してからしばらく立つが,最近よく上高地の写真やテレビでの紹介が何んだか大変気になっていた。登山はとても無理ではあるが,せめて上高地の風景でも見ながら散策し,心の中の思い出と共に,自分の目で穂高の山々を眺めて見たいと考え,出掛けて見ることになった。
 上高地地域のプロフィールを地元紙より拾い書きして見た。
 昭和9年(1934年)12月4日,阿寒や日光などの国立公園と共に日本で2番目にグループとして中部山岳国立公園に指定されたと記されている。
 総面積17万4千3百23ヘクタール。新潟,富山,長野,岐阜の4県にまたがり,北は立山,剣岳から南は乗鞍岳に及ぶ北アルプスの一帯を占める,日本を代表する山岳公園と言うことだった。
 地域的には,立山連峰,後立山連峰,槍・穂高連峰の三つに大別され,これに槍ヶ岳の東側に連なる燕岳から蝶々岳に至る山々と公園の南端に位置する乗鞍岳が加わっている。この公園の景観の特色は,構造山地と渓谷美で総括できると記されている。
 こうした中部山岳国立公園の中にあって,穂高連峰や焼岳,霞沢岳などに囲まれた,梓川に沿って開けた標高千5百メートルの細長い盆地が上高地である。整った自然美や雄大な山岳景観があり,現在では年間上高地だけで200万人(中部山岳国立公園全体では,年間千百万人)を超える人々が訪れていると記されているが,私の行った9月の吉日は,8月夏休の後ではあったが,かなりの人出で河童橋は満員電車の中のようであった。ここが上高地の銀座通りと言うことになるだろう。

 上高地の歴史についても少々拾い書きして見た。日本の登山の歴史は上高地から始まったと言っても過言ではないと言われる。
 昔々,播隆上人と言う人が槍ヶ岳開山の歴史であるらしい。又この辺は松本藩の藩地で重要な木材伐採地であったと言われる。明治以降,W・ガウンランドやW・ウエストンによる先駆的な登山をはじめとして,上高地は日本における近代アルピニスト発展の中心地としての役割を果たし,登山史の主要な舞台となった事は言うまでもない事実と言う。
 大変混雑はしていたが,河童橋から眺める奥穂高岳は,標高差約千6百メートルでそびえ立っている。仰角20度は意識して見上げる角度であり,連立する山々を見上げて感動しない人はいないはず。西穂高岳から明神岳までの60度の広がりは視野いっぱいの角度であった。3千メートルを超える山々の稜線は,まだ降雪前の風景でむき出しの岩壁になっていた。晴れたり曇ったりの天気であったので,連山全体は一度に見ることは出来なかったが,写真で見る積雪の穂高連山をこの目で,又の機会に,是非,見たいと思った。
 標高が下がるにつれて斜面の緑は次第に濃くなり,上高地の平坦地はあふれるばかりの緑に包まれていた。特に平坦地の森林の中は熊笹が一面をおおい,森と熊笹のコントラストはすばらしい。又山に降る雨と雪は,岳沢から梓川に注ぎ,足元を流れる水はあくまでも澄みきった清らかなものであった。9月中旬を過ぎたので,かなり寒いのではと思い,それなりの準備はしていったが,半袖で十分であり,9月の涼しさは感じられなかった,だが梓川の水は冷気が肌にしみて,心身を癒やしてくれた。
 その梓川の流れは変化に富み,浅い瀬と深い淵が交互に現れ,川の全体はゆるやかに蛇行していた。急流の河川は動的な風景をつくり,水は美的風景の動きを決めている。
 上高地に展開する景観は,山と緑と水が(冬であれば雪が加わることになるが)つくり出す雄大な感動の世界であり,自然全体の仕組みが見渡せるのが,上高地の大きな魅力であると思う,一度や二度の上高地行きで,四季の良さは分かるはずはないが,新雪をかぶった晴れた日の連山を想像しただけで,身震いがしそうな感動を覚え,すばらしい癒しの旅でもあった。

 今回はバスで行ったが,又の機会に昔を思い出して,是非,電車を利用して見たいと思った。多少記事がダブル所も出て来るが,上高地へのアプローチを見たまま聞いてまま,読んだままを総合して記して見る。
 電車で行くなら,JR松本駅から,松本電鉄上高地線の終点が新島々である,かつてこの路線は,山男たちが沢山乗り込んで,あたかも登山電車の観があったと言う。新島々でバスに乗り換えて,梓川沿いに安曇村役場のある島々の集落を過ぎ,稲核,奈川渡,沢渡,そして中の湯に至る。
 島々から沢渡までの梓川は,深いV字渓谷だったが,昭和44年に完成した一連の発電甲ダムでその美しさが失われたと言う。しかし,バスの中での景色はすばらしい。以前の風景は見ていないが,3連ダムの景色も又格別であった。そして,沢渡から梓川は奔流となり,案内紙の文面はいよいよ山影は頭上にかぶさって,深山幽谷の趣が濃くなると表現している。
 釜トンネルを抜け,左に茶褐色の焼岳が姿を現すあたりで視界は急に開ける。ここがトンネルを抜けると上高地であった部分の所であるが,梓川の川の渕に湯と湯けむりがふき出ている所が見られた。そして,眼前には碧水をたたえた幽玄の写真やテレビ画面で見た事のある水面に枯木があっちこっちに立つ大正池が横たわっていた。そして,その彼方にはあの穂高岳の三峰と明神岳がそびえ立っている。まさに上高地の景観の序章であったが,恥かしさもありオーバーな言い方かも知れないが,一度は行って見たいと思いながら実現出来ず夢まで見た事があったこの景観に感動と霊気が身にしみた。だが,この大正池に観光ボートがあったのには,がっかりである。
 新島々からおよそ1時間20分のこのコースは,上高地へのメーンルートと言われる。冬期11月中旬から4月下旬は中の湯から先は通行止めになると言う。
 昭和40年代,車の洪水が上高地にも押し寄せてきた。景観を守るためには駐車場の拡張にも限度がある。車はむやみに林内に浸入し,交通渋滞は慢性化して上高地は危機に瀕した。これを救うための措置が昭和50年からの「マイカー規制」であると言う。現在は通年で中の湯〜上高地間は一般車両通行禁止,沢渡か平場の駐車場に車を置いてバスかタクシーに乗り換えなければならないらしい。
 公園内にかなりのバスが来ており,駐車場は満員で路上にもかなりのバスとタクシーが駐車でごったがえしていた。

大正池

※大正池,水面の枯れ木は上高地の
有名な風景だが,観光ボートには参
った。

 大正池は大正4年,焼岳の大爆発によって梓川が堰き止められてできた。焼岳の火山 活動の代表的な産物であると言う池はその後,堤の一部が切れて小さくなったらしい。昭和2年には堰堤がつくられ,下流の霞沢発電所の調整池として人工的に管理されるようになったと言う。かつて,池の水面に映る穂高の山々と池の中に林立する枯れ木は,上高地を代表する景色の一つだった。しかし,今では周りの山や梓川の上流から流れ込む土砂によって,池は随分小さくなり,枯れ木も倒れて残りわずかになってしまったと記されているが,誠に残念な事である。また先にも記したが,観光ボートはやめた方がいいと考えるが,ここの管理者の考えを聞いてみたい思いだった。

焼岳
 大正池のほとりから,上高地に来て一番身近な左の上に聳え立つ焼岳(2455m)を眺めて見た。現在でも活動を続けているらしく少々けむりを出している。大正池をつくった大爆発以後もたびたび活動を繰り返していると言うが,最近では昭和37年に爆発したと言う。度重なる活動のために,焼岳の山腹には,森林が育たないのだろうか,かなり下まで岩肌そのものである。しかし,裾野は美しい林が育ち自然の恵みに目を見張る。
 この焼岳山上に雪が降り雪山の焼岳が大正池に逆に写す,夏山でもすばらしいが,目を見張る事と想像する。

※湿原におしよせる秋の感触,
色ずき始めたサギスゲやヤチ
スゲ,冬は目の前にある。
※梓川に穂高連峰,まもなく雪
山になるのは時間の問題だが,
見て見たい。

田代池と湿原
 大正池から自然研究路と言う散策コースにそって私は大正池から出発した。途中の全部を紹介は出来ないが,上記の湿原と田代池にしばし時間をとった。
 6月の中旬から7月中旬にかけて,風に揺れる白い穂が印象的と言うサギスゲ・ヤチスゲ・モウセンゴケ・ミズゴケ等,記事に出ていたが,この群草が秋をむかえて一面に枯れ始めた様は,カラマツ林をバックに穂高連山をその後に写した写真は見事である。
 田代池は流れ込む土砂のために年々埋まり,小さくなってきたと言う,ことに昭和50年の大雨以後の変化が大きいと記してあった。このような現象も自然界の定であるが,仲々見ごたえのある景観であった。そして,カモが一匹田代池の中で観光客を歓迎して愛嬌をふりまいてくれた。

河童橋とその周辺
 河童橋の名の由来には定説はないらしい,かつて,この付近には,さも河童が住んでいそうな深い淵があったからだと言われていると言う。上高地に来て河童橋に立たない人はいないだろう。川を渡るという橋の機能よりも,展望台としての役割を果たしていると言う方が正しいと思う。確かに止まっている人の方が多かった。前にも記したが,上流に目を向ければ,槍ヶ岳に源を発する梓川が両岸を彩る河辺林の中を蛇行して流れて行く,春や夏はカラマツの浅緑がしたたり,秋には黄葉が舞いかかり,訪れる人々を歓迎するとはカタログの記事だが仲々の名文である。この付近一帯のカラマツ林は,大正初期に植えられた人工林と言うが,あたかも天然林の如く植林され,先人の景観造成の細やかな配慮が偲ばれた,又この山林道には木材チップを固めた自称チップ道が作られている。なんと歩きやすい散歩道である。又梓川のほとりに出て見た。川岸を見ると土色針金の籠に玉石を詰めたソーセージのようなものが埋められているのに気がついた。聞いて見ると,これが「蛇籠」と呼ばれる護岸工で景観保護のためにコンクリートを使わない手法と言う,こまかい気使いで心が癒される。

※河童橋の混雑ぶりがうかがえ
る。通行橋と言うよりも展望台。

 上高地の歴史の所でちょっとふれたが,明治14年,「飛騨山脈」を「日本アルプス」と命名したのが前記のイギリス人技師W・ガウランドと言うことで,その後イギリス人宣教師W・ウエストンの「日本アルプスの登山と探検」の本により上高地の山々は世界に広められたと言う。そして,人々は登山や観光に上高地を訪れるようになっていったと記されている。この「ウエストン碑」も「日本近代登山の父」として田代橋から右岸道を歩き上高地温泉を過ぎたあたりにあると言うが,違うコースをとった為,今回は見る事が出来なかった。

ガイド紙「上高地」より
「春」
やわらかな日差しに暖かさを感じる頃,林床一面に可憐なニリンソウが咲き乱れる。耳を澄ませば,川のせせらぎ,コマドリのさえずり。
里よりひと足遅れの春の訪れ。
さわやかな風に誘われて,木々の芽吹きが始まった森へ,春の妖精たちに会いに行こう。

「夏」
上高地が一年中でもっとも賑わう夏,朝のほんのひととき,静寂な時間がやってくる。
ひんやりとした空気に,その日一日が晴天であることを確信する。
梓川から立ちのぼる清冽な冷気に目を洗われて
下流を望めば,朝日に輝く焼岳がかすかに噴煙を上げている。
上高地の歴史を語るとき,忘れることのできない存在,
焼岳は静かにこの地を見守っている。

「秋」
九月下旬から十月上旬,涸沢は絢爛豪華な舞台となる。
空,岩,ハイマツ,ナナカマド,ダケカンバ。
それぞれが見事なまでの色彩のハーモニーを奏でる。
登山者はその雄大な風景を前に疲れも忘れ,ただただその場に立ち尽くしてしまう。心を奪われる華麗なショーは,
この時期,ここを訪れた者にしか見られない珠玉のひとときだ。
「冬」
何日ぶりだろう,朝,雲の切り間から穂高の雄姿が一瞬,顔を出した。
その姿は数日前に見たそれとは一変して,新雪に輝いていた。
それは唐突に訪れた冬景色だった。
こうして山の季節は,足早に秋から冬へと移り変わり,
上高地を訪れる人影も少なくなる。
いよいよ厳しい冬が始まろうとしている。

 以上がガイド紙による春・夏・秋・冬の上高地物語である。

 さまざま由来や伝説や歴史により,上高地は幾百幾千年の年輪を刻み,梓川はこんこんと清らかに流れ続けている。
 穂高連峰山々のたくましい山容,次々とアングルを変えて現れる梓川,清らかな山間の池々,湿原,森林,郷愁の上高地,大自然との出合,ほんの休日の 1 時,書き尽くせない感動と感激。上高地とはこんな表現が似合う場所であった。

平成16年9月23日記



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