東京木材問屋協同組合


文苑 随想

昔日閑話(第33話)

木場好人

深川木場(21)

 昭和10年前後,戦前70年前の古い話で恐縮ですが,筆者が未だ軍隊で戦場生活に這入る前,木場の原木屋の大事な仕事の一つに,「河岸廻し」(かしまわし)と云う仕事があった。当時,丸太又は米松の大中角が売れた場合,その単価の中に相手方の堀,又は指定された製材工場への回漕費は“込み”となって居る商習慣であった。小は「小丸太」から大は末口径,旧曲尺の6尺以上の,素材でノーブル,スプルース,米松,又その後輸入されて来たラワン丸太など,又米松角の20尺の12吋角から,40尺の24吋角まで ,総て川から川,橋の下を通って得意先まで回漕した。勿論各店専属の川並の仕事だが忙しい時は,店の若い衆がこの仕事に携わった。米松角は,小は「20尺の12吋(尺角),角乗りの角のちょっと長いのから,40尺の24吋(2尺角)に至るまで,一本の場合もあった。御承知の様に角材は1本水面に浮かべると三角形になって浮く。12吋乃ち1尺角は,角乗りの様に体重と足の加減で平行に,平面を保って乗れるが,大角以上,特に一番大きい,40尺の2尺角(24吋角)となったら,三角のまゝで,一人や2人では平面にならない。三角形の頂点を速足で歩るいて川岸に繋留してある筏に長鉤を引掛けて目的の堀まで回漕する。難かしいのは橋の下を通る時,乗って居る角,又は丸太と平行に長鉤を操作するとバランスを失って川に落ちる事になる。常に長鉤の竿が最低乗って居る丸太と15度以上の角度を保って居ないとバランスを崩す恐れがある。大体,潮の流れを利用するので曲り角以外はそれ程“力”が不要だった。又“駅出し”と云って,東北方面へ,米松角,或は米松の大梁,2尺幅の厚5寸以上の挽立材,主として学校,病院などの建物に使った“大梁”東北地方の製材工場では余り大きくて,長い角は工場設備が小さいので製材出来ない。東京から製材して,地方の工場で製材出来る中角と一緒に,筏に組んで当時の国鉄貨物駅,東北は隅田川駅から貨車積みした。その貨車積みの筏を千住の隅田川駅まで“隅田川”を遡って回漕するのを「駅出し」と云って川並の良い仕事だった。

 この駅出しの筏だが,隅田川へ出る河岸まで一旦出して,その川口の角に筏を“舫”って上げ潮に成る直前にその筏に乗って潮の流れを利用して隅田川を上って行ったものだ。唯,潮の「小潮廻り」の際は潮が利かないので,当時,下木場から,仙台堀川→亥ノ堀→“小名木川”を横切って本所の“南横川”そして更に北上して“堅川”を横切り,“北横川”を“源森川”に向って,源森橋の角まで回漕する事があった。“亥ノ堀”は元禄8年(1695)北は“小名木川”南は仙台堀川”と南と北に各河川があったので,潮が利かない(流れない)ので川並泣かせだった。“玄ノ堀”とは丁度,「開削」されて“小名木川”と“仙台堀川”に通じた年が“亥の歳”だったので“亥の堀”と呼ばれた。この小潮廻りで駅出しの筏を源森橋まで回漕するのに,川並に頼まれて一緒に手伝って良く回漕した事があった。時間(日数)の余裕の有る時は“大潮廻り”になるまで待って,遠い源森橋まで出さないで,“仙台”“小名木”の隅田川への川岸まで一旦出して“潮待ち”通常翌る日の潮になると同時に乗り出したが,源森橋まで出す,通常川並仲間で“源兵衛”と云ったが,こゝまで運べば浅草だから隅田川駅までは近い,蒸気船で“引張り賃”を払えば,楽だがその分,回漕費の実賃収入が減るので川並連中は蒸気船を使わずに“竿”長さ四間から五間もある“竿”を用意した。竿は3年,櫓は3月と云われていた。夏は良いが冬はこの“竿”の“雫”で大変だったとの事。然も米松の様に「足の軽い」(水面下の材積の少ない)浮きの良い材は軽かったが,浮きの悪るい原木の場合は,大川(隅田川)では蒸気船の波を被って,足場が濡れたりで,「筏作り」に気を配ったものだった。何れも前世紀的な時代,川並の手伝いで,源森橋まで筏を共に廻して,帰路は「長鉤」を預けて,当時洲崎(現東陽町)から三つ目通りを通って言問橋→観音裏→鶯谷まで通っていた“城東バス”で木場へ帰って来た記憶が何回もあった。戦前の“ノンビリ”した思い出まで。


(中越地震の方々を心配しつつ)


(図は城東バスの路線経路図)



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