東京木材問屋協同組合


文苑 随想

日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀♪」
其の13 「刀剣・ア・ラ・カルト」。

愛三木材・名 倉 敬 世

第45代 聖武天皇 御料 外装  中身 直刀 無銘  梨地螺鈿金装飾剣

第108代 後水尾天皇御料 金梨地菊紋散金装糸巻太刀拵 (中身国宝龍門延吉)

国宝 太刀 銘 延吉(龍門)


 謹賀新年
 今月は新年でやんすので,チト趣向を変えメデタ向きの皇室方面からスタートします。本来,刀剣は皇位の印である「三種の神器」の中に草薙剣が入っている様に,皇室とは大変に関わりが深い,中でも後鳥羽天皇と後醍醐天皇の両帝は,お一方は政治的な意味合いから自ら鍛刀に励まれて,公家や北面,西面の武士に授けられ有効利用をなされた。もうお一方は自からお手に取られて力戦,勇戦をして大いに活躍をされたのでおじゃる。  併し結果として両帝は刀剣を手にした故に悲劇的な末路を辿る事になってしまわれた,この事は間違い無いところであり中でも後鳥羽天皇はかなり特異な存在なので,以下にそのプロフィルを申し述べてみんべぇ〜。後醍醐帝に付いては,また後日と云う事で…。

国宝 第82代 後鳥羽天皇像  水無瀬神宮蔵

「後鳥羽天皇」(治承四年(1180)七月十五日生,延徳元年(1239)二月二十二没,年六〇)  高倉天皇の第四子,生母は贈左大臣坊門信隆の娘の七条院←当時,最大の資産家なり。寿永四年(1185)三月二十四日,安徳天皇(八才)が壇ノ浦にて入水し平家滅亡となる,その後を継ぎ僅か五才にして第八十二代天皇となる。当時は後白河法皇の院政中である。
 
 その質は英明にして,幼少の時から天稟を備え当時の九条兼実の日記である玉葉にも,「幼主偏ひとえに成人の如し,見る者奇異の事と称す」と感嘆しており,八才の時に甚だ難しい朝觀の作法である「舞踏」も後白河法皇のご前で少しの間違いも無く執り行った。この時も九条兼実は「御作法神妙なり」と褒めている。
「手習い」(書道)は七才の時から前記の藤原兼実に付いて習われていて能筆。
「帝王学」(政治)は八才から菅原光範に師事。
「詩」(作詞)師は藤原定家,「明月記」の中に「天皇の感化により,朝廷でも
  詩を作る者が急に多くなった」という記述と共に「文道盛に興る,人々周章
  狼狽」と有り興味を引かれる記述である,作品も多く評価は非常に高い。
「和歌」の師も定家,「明月記」に「今に於ては上下更に以て及び奉るべき人も
  なし,毎首不思議,感涙禁じ難きものなり」と書いており,ご在位中より譲
  位後が多い。
「画」も好まれ上手,隠岐島に流されてからも,ご自分の姿を鏡に写されて描か
  れた法体の自画像があり,これは今も水無瀬神宮に保存されている。国宝。

  他に音曲の道にも趣味が深く,特に「琵琶」は得意で秘曲を藤原定輔に伝授されている。  「笛」も藤原実教を師とし「君は御笛をさへいみじく遊せ給ひ」と「文机談」にある。武道の方面にも堪能で,「六代勝事記」などにも,「芸能を学ぶ中に,文章は疏にして,弓馬に長じ給えり」とあり「水練,相撲,笠懸け,など色々な武芸を御自身でもなされ,北面,西面の武士達にも奨励をされた事は,中古以来その例が無い」と書かれてある。

  肝心の政事に関しましても,増鏡は,「よろづの道にあけらけくおわしませば,国に才ある人多く昔に恥ぢぬ御代にぞありける」と讃え,源家長記にも,「ひるは世の政事,夜は明るまで御遊絶えず」とあって政務のことはもとより,他の諸芸に至るまで,熱心であったことを明らかにしている。そして政治の目標は,王道を正し人民の幸福を願われたことであり,この事は承元二年(1208)の「おく山のおどろの下を踏み分けて,道ある世ぞと人にしらせん」という御製によっても明らかである。と言われておじゃる。
  要するに,後鳥羽帝は自他共に認める文武百般に長じた「スーパースター」でござった,そのマルチ人間の天皇のただ一つの頭の上の重しが後白河法皇,そのタンコブの法皇が建久三年(1192)三月に六十六才で崩御なされた,ようやく天下が廻って来たのである。すると今度は自分が,土御門,順徳,仲恭,の三天皇に院政を敷いてしまうのであるが,その間は三十年の長きに亘った為に,とうとう自信過剰となり鎌倉幕府にチャレンジ!。  時は承久三年(1221)五月十四日,幕府の執権北条義時に追討令を発布して軍を起す。併し,チャンバラは百戦錬磨のプロ VS 公家が大将のズブの素人,始めから勝負にはならず,墨又河,宇治,勢多,と連戦連敗,それでも丁度二ヶ月程は頑張って見せたが七月十三日には無条件降伏となりギブアップ。後鳥羽上皇は隠岐島,土御門上皇は阿波,順徳上皇は佐渡ヶ島,と三上皇はそれぞれ配流となるが,仲恭上皇は五才の為にセーフ。
  その時に詠まれた禦製が,「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」,と伝わっている。
  「承久の乱」は「天皇親政」対「武家政権」という構図でもあるので,真の勝利者は頼朝の妻の尼将軍・北条政子と弟の義時と云う事になる。当時は質実剛健の鎌倉武士の勃興期であり112年後の幕府崩壊の時の世情とは天地の差がある。出陣の際の政子の名演説が光り「イザ鎌倉!」の名文句も生れ,後世には執権・時頼と佐野常世の謡曲「鉢の木」の物語も誕生する。
  …時頼が民情視察のため粗服を纏い,旅僧となり三ヵ年で六十余州を巡った時がある,〜コレ本当,水戸黄門の原形〜,その途中,上野国(群馬県)佐野の粗末な常世の家に一夜の世話になった。折しも雪の夜となり常世は秘蔵していた,梅・松・桜の盆栽の木を切り,囲炉裏で燃し旅僧をもてなした。その際に常世は,一族の者に領地を横領されて,この様に零落しているが,鎌倉に一旦変事ある時には直ちに馳せ参じる覚悟である,と語った。時頼は鎌倉に帰ると関八州の大名,小名に鎌倉に集合の触れを出した,常世は痩馬に破れ具足で馳せ参じたところ,時頼は集まった者の中で最もみすぼらしい武士を連れて来いと命じ,召し出された常世に,過日の雪の夜の旅の僧は自分であったと述べ,そのもてなしと忠誠心を褒め讃え旧領を取戻させ,薪とした梅松桜の礼として木の名に因んだ,梅田・桜井・松井田の三箇庄を与えた…。との佳い話でござる。
  尚,鎌倉幕府の公式文書である「吾妻鏡」には,「承久の乱」の起きた原因として,上皇の鎌倉幕府に対する積年の恨みが下記の事を切っ掛けにして爆発したと記してある。
イ.愛妾・亀姫の無理な願い。出身地(摂津)の地頭の故無き罷免要請を再三
   却下した事。
ロ.幕臣仁科盛遠が逃亡し御所の西面の武士に採用された。幕府はその引渡し
   を度〃び要求するも全て拒否された,為に盛遠の領地を没収したら,法皇
   が逆ギレをした。
扠て,この二点が乱の原因だそうですが,これで何百人何千人もが死んでいるんですよ,貴方ならどちらに軍配を挙げられますか?。ドッチもドッチ,イヤご明察でございやす。
  後鳥羽上皇は刀剣史上を通じ,鎌倉時代初期に特異な地位を示して異彩を放っている。上皇は源頼朝の没後,王政復古の理想実現を目指し,北条氏の討伐をはじめとして北面,西面の武家制度を設けるなど政治面で活躍される一方,士気の高揚を図るため自分から作刀に励まれ,刀匠の地位の向上をはかり全国の名工を京都に集めて御番鍛冶の制度を定められた。上皇の作刀は粟田口久国や備前信房等がお相手となって焼刃されたと伝え,その現存の作には茎の元に十六葉の菊紋を彫り,「菊御作」と称して珍重されている。
  時期と期間は承元(1207)より承久三年頃まで続いた様で,十四〜五年の歳月である。この事は我国の有史以来の出来事なので,国中の刀鍛冶の感激は大変なもので,お陰で鍛刀技術は飛躍的に進歩する事になった。その意味では上皇は日本刀の中興の祖である。
  御番鍛冶の功により刀銘に「一」を鏨るのを許されたが,一文字派と云う事であり備前の福岡一文字,吉岡一文字,正中一文字,備中で片山一文字,相州は鎌倉一文字の別がある,○○一文字と云う呼称は現在では名刀の代名詞となっております。
  このチト後から備前長船○○と云う集団が出て来て質実共に日本刀の最盛期を迎える。後世の全ての刀鍛冶は今に至るまで,この時代の太刀を目標に作刀をしているのですが,これが常に道半ばなのでござる,作刀のプロセスは全部判ってるのに,何んで同じ物が出来無いんでござんすのかねぇ〜,八百年も経っているのにねぇ。

太刀 菊御作(佩表 下に僅かに菊花紋の毛彫のこる) 東京国立博物館蔵

太刀 菊御作(二十四葉菊花紋がある) 東京国立博物館蔵

 それでは全国から選んだ名匠とそれぞれの月番担当の奉行をご紹介致しましょう。

御鳥羽院御宇番鍛冶    
(十二人御番鍛冶) (鍛冶奉行)・2ヶ月ずつ2名で担当
正 月  備前国 則宗  大宮中納言俊当,  三位僧都尊長
二 月  備中国 貞次
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三 月  備前国 延房  大政大臣二位宰相  新中納言範義
四 月  粟田口 国安
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五 月  備中国 恒次  中納言康華  三位中将実康
六 月  粟田口 国友
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七 月  備前国 宗吉  新中納言重房  光親朝臣国綱
八 月  備中国 次家
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九 月  備前国 助宗  二位中納言雅経朝臣  宰相中将資兼
十 月  備前国 行国
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十一月  備前国 助成  二条中納言有雅朝臣  大炊御門三位
十二月  備前国 助近
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(御太刀磨(研師)国弘 為貞。各従一名,…伝々とある)。

※ 他に「御鳥羽院御宇二十四人番鍛冶」「隠岐国番鍛冶」等と書かれたものが有るが,これらは完全に後世のガセ物であり冗談に近い,夢ゆめ信用なされぬこと肝要なり。

次回は著名な武将の「佩刀」と刀剣にまつわる「コトワザ」の特集では如何かいな〜。

 




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