東京木材問屋協同組合


文苑 随想

日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀♪」
其の16 「刀剣・エイプリルフ〜ル」。

愛三木材・名 倉 敬 世


 以下の太刀・刀をお持ち頂いた方には,金1000万円を贈呈致します。コレ本当!。

刀工銘 時代  西暦 刀工銘 時代  西暦

01.大和(奈良) 天   国 大宝(701〜04)  大和(奈良) 天   座 大宝(701〜04)
02. 〃 〃 藤   戸 大宝(701〜04)   〃 〃 友   光 和同(708〜15)
03.陸奥(青森) 文   寿 大同(806〜10)  豊前(福岡) 神   息 大同(806〜10)
04.伯耆(鳥取) 一宮日乗 承和(810〜14)  築前(福岡) 実   次 仁寿(851〜54)
05.陸奥(岩手) 舞草雄安 応和(961〜64)  陸奥(岩手) 有   正 安和(968〜71)
06.大和(奈良) 鬼切行平 永延(987〜89)  大和(奈良) 清新太夫安則 永延(987〜89)
07.相模(神奈川) 舞草森戸 永延(987〜89)  備前(岡山) 古備前高平 永延(987〜89)
08.備前(岡山) 古備前実成 永延(987〜89)  備前(岡山) 古備前国包 永延(987〜89)
09.豊前(福岡) 君万歳長園 永延(987〜89)  薩摩(鹿児島) 波平正国 永延(987〜89)
10.備前(岡山) 古備前高包 長保(999〜04)  備前(岡山) 古備前義憲 長保(999〜04)
11.備前(岡山) 古備前友安 寛仁(1017〜21)  陸奥(岩手) 舞草幡房 保元(1156〜59)
12.陸奥(岩手) 舞草森房 保元(1156〜59)  美作(岡山) 美作国実経 仁安(1166〜69)
13.陸奥(岩手) 滝四郎太夫 仁安(1166〜69)  陸奥(岩手) 舞草友長 仁安(1166〜69)
14.大和(奈良) 古千住院行信 仁安(1166〜69)  相模(神奈川) 沼間藤源次 仁安(1166〜69)
15.陸奥(岩手) 秀衝我弖流為 仁安(1166〜69)  出羽(山形) 鬼 王 丸 元暦(1184〜85)
16.大和(奈良) 古千手院重弘 元暦(1184〜85)  備前(岡山) 福岡一文字助成 承元(1207〜11)
17.備前(岡山) 福岡一文字流行国 承元(1207〜11)  備前(岡山) 福岡一文字助延 承元(1207〜11)
18.備前(岡山) 福岡一文字朝助 承元(1207〜11)  備前(岡山) 福岡一文字直房 承元(1207〜11)
19.陸奥(宮城) 玉造郡三の真国 承元(1207〜11)  伯耆(鳥取) 伯耆国完隆 承元(1207〜11)
20.山城(京都) 粟田口景国 承元(1207〜11)  大和(奈良) 金王国吉 承久(1219〜22)
21.備前(岡山) 福岡一文字延正 承久(1219〜22)  豊後(大分) 豊後国定慶 貞応(1222〜24)
22.備前(岡山) 古長船近忠 仁治(1240〜43)  備前(岡山) 備前三郎直宗 仁治(1240〜43)
23.山城(京都) 粟田口景家 正元(1259〜60)  大和(奈良) 尻懸則弘 建治(1275〜78)
24.備前(岡山) 備前四郎国安 弘安(1278〜88)  山城(京都) 粟田口国延 弘安(1278〜88)
25.相模(神奈川) 大進房祐慶 嘉元(1303〜06)  大和(奈良) 保昌五郎貞宗 元亨(1321〜24)

 以上の50工を抽出して見ましたが,これらは全て頭に幻とか古来稀なるとかが付く名工ばかりで完品で現存すれば,即!,国宝でナン億?という名刀ばかりです。
  これ以外でも,奈良〜平安中期(1000年迄)の物などは全てその部類であります。
  数年前に芝の美術倶楽部で開催の大刀剣市に,「天国あまくに」銘の剣が出品されました,それを見た人が,「これは諏訪大社で行方不明になった,ご神宝ダ!」と地元に慌ててTELをしておりましたが,どうやら戦前に諏訪の上社で盗難にあった剣との事でした,その後の消息は判りませんが,若しそれが本物の「天国あまくに」作の物なら国宝でしょう,
持主はそれこそ天国の気分を味ったと思いますが,その先には地獄も待っていた訳です。天国,天座あまくら,神息しんそく,は小生が得意?とする長唄の名曲である「蜘蛛拍子舞」や「小鍛冶」の中にも中国の名剣,龍泉や太阿よりもGoodとして出て参ります。

 刀剣の名産地は,大和(奈良),山城(京都),備前(長船),相州(鎌倉),関(美濃),と云われてますが,鎌倉以前は案外バラバラで意外に遠くの東北地方や九州,山陰が多く五ケ伝も余り当てにはなりません。これは原料の良鉄の産地と戦闘とがドッキングして名刀が生み出される訳で,必要(チャンバラ)は発明の母というセオリー通りでありんす。

 東北地方は700〜800年にかけて蝦夷の反乱が続き坂上田村麻呂を始めかなりの鎮圧部隊が中央から派遣されております,その間の経過を簡略に整理をして見ましょう。

天皇 和暦 西暦        蝦夷に関する事例
景行 25年(95)7月武内宿禰に北陸及び東方諸国を巡察せしむ。
〃〃 40年(110)6月東蝦夷反す,10月日本武尊東夷を征す。焼津の難,草薙の剣。
〃〃 56年(126)8月御諸別王に東国を治めしむ,時に蝦夷反す,御諸別王之を討つ。
神功 48年(248)「魏志」に卑弥呼死亡。西暦と和暦で230年の差が有る。
応神 3年(272)十月東蝦夷悉く朝貢す。この年号も西暦の500年前後である。
仁徳 55年(367)蝦夷反す田島之れを討ちに行き敗死す。
舒明 9年(637)蝦夷反す,上毛野形名,妻の奇計にて之れを討つ。和暦と合致す。
孝徳 元年(645)蘇我入鹿,蝦夷,討たれる。大化の改新。
斎明 4年(658)4月安部比羅夫蝦夷及び粛愼ミシハセ(越前一帯の渡来人),を討つ。
〃〃 5年(659)3月安部比羅夫蝦夷を平らげ,郡領を後方の羊蹄に置きて帰る。
〃〃 6年(660)3月安部比羅夫また粛愼(韃靼人)を討つ。
持統 2年(688)12月蝦夷男女213人を饗し位を授ける。
元明 2年(709)3月巨勢麻呂等に蝦夷を討たし8月征討軍凱旋す。
〃〃 5年(712)9月出羽国を置く。この年「古事記」成る。
元正 2年(716)諸国の百姓を出羽国(秋田・山形)に移す。
聖武 元年(724)4月藤原宇合に蝦夷の乱を征しむ。この年多賀城を築く。
〃〃 5年(733)12月出羽柵を秋田に移す。
〃〃 15年(743)今年東大寺建立を始む。19年大仏鋳造。
光仁 5年(774)7月奥蝦夷入冦。10月大伴駿河麻呂蝦夷を平ぐ。
〃〃 11年(780)宮城県の栗駒岩ケ鼻の伊治公痣麻呂コレハルノキミアザマロが
         突然反乱す。
桓武 2年(783)6月出羽の蝦夷反す。
〃〃 7年(788)12月紀吉佐美征東大将軍。鎮圧に向かうが同8年(789)敗軍。
〃〃 10年(791)7月大伴弟麻呂を征夷大使,坂上田村麻呂を同副使とする。
〃〃 14年(795)正月大伴弟麻呂等凱旋。12月諸国逃亡の軍士を陸奥の柵戸とす。
〃〃 16年(797)11月坂上田村麻呂を征夷大将軍とす。
〃〃 20年(801)9月坂上田村麻呂蝦夷討平を奏上す。
〃〃 21年(802)正月胆沢城を築き鎮守府を移す。4月蝦夷酋長降伏す。
〃〃 22年(803)3月坂上田村麻呂志波城を築く。
〃〃 23年(804)正月坂上田村麻呂再び征夷大将軍となる。
嵯峨 2年(811)5月坂上田村麻呂死す(年54)。
〃〃 4年(813)11月蝦俘に教論を加えしむ。
清和 17年(875)11月出羽渡島の荒狄の反を討つ。
陽成 2年(878)3月秋田の蝦夷乱る,7月藤原保則,小野春風等平ぐ。
朱雀 2年(939)4月出羽俘囚の反乱を奏上す。
〃〃 3年(940)2月平貞盛,藤原秀郷等,平将門を誅す。
〃〃 4年(941)6月小野好古,藤原純友を誅す。

 これより約100年間戦乱無く文芸栄える。紫式部・清少納言・和泉式部・活躍(1003)後冷泉帝6年(1051)安部頼時陸奥を乱す。「前9年・後3年の役」の始まり〃〃。

 当時は安部氏が陸奥(岩手・衣川),清原氏が出羽(秋田・横手)に威勢を張っており,安部頼時が中央とモメ,そこで鎮守府将軍の源頼義が出張るがコテンパンに負けて伜の義家(八幡太郎)も駆け付けるがイイ勝負,そこへ出羽の清原武則が加勢して安部氏の負け,これが「前九年の役」(1051),今度は清原武衝と八幡太郎義家とがぶっかって,「後三年の役」(1087),結局,平泉の藤原清衝が残り基衝,秀衝と三代100年続くが,最後は源頼朝に潰され藤原氏は終わる。
  この大乱に際し源義家をして「…俘囚の兵は最強,武器は優秀…」と云わしめた程の,この刀工の集団をそっくり頂いたのが,藤原秀衝の亡きあと源義経を追って陸奥に入り平泉を滅亡させた源頼朝で,舞草鍛冶を始め月山鍛冶と山城の粟田口国綱,備前の国宗,助真が合体し相州伝を造りだし,鎌倉幕府に武器武具の面でサポートをしてその基盤を確立さしたと云われてます。
  舞草もうぐさとは現在の岩手県一関市舞草…陸奥国東磐井郡舞草村。古くはマイクサと呼んだ。藤原三代以前の出羽(秋田・山形)陸奥(青森・岩手・宮城)は30年に亘り戦闘状態が続いており,その為に舞草には最盛期は300余名もの刀職者が居たと云われています,近くの白山岳や砂鉄川からは良質の砂鉄や餅鉄が大量に産出されております。
  刀工の雄安,森房,鬼王丸,光長,等は源義経が奥州に連れて来て,その中の雄安は安部貞任…頼時の長男,歳をへし糸の乱れの苦しさに,衣の袖は綻びにけり,の作者に奪われその鍛冶となり,平泉三代の秀衝はその太刀を秘蔵していたと伝えられています。平泉の弁慶堂には安部貞任の佩刀,中尊寺の金色堂には初代清衝(1126)の棺上刀,等が納められており,同じ中尊寺の弁天堂(大長寿院)には一昔前の坂上田村麻呂との戦いにエミシの酋長で「達谷の窟」に立て篭もって善戦をした,悪路王(アテルイ)の使用と言われている蕨手刀があり,大変に珍物ですのでそのスタイルを後に掲げて置きます。
※アテルイ=我弖流為。江差,水沢地方の俘囚(蝦夷・エミシ)の大酋長,大墓公(802没)。桓武21年(802),征東将軍・紀朝臣吉左美の軍27000を機略を以って大いに破る。後に坂上田村麻呂への盤具公母礼と共に投降す,田村麻呂と事情説明の為に京都に行くが田村麻呂の必死の助命嘆願にも関わらず公家の反対により賀茂の川原で斬首晒首となる。
  「蕨手刀」の説明は少し長くなりますので後日に致します。

 15番後記の「陸奥・秀衝・我弖流為アテルイ」の解釈は奥州平泉三代目当主秀衡の佩刀はその昔にアテルイ(悪路王)が使っていた刀(銘不明)という意味かと思われます…。

 9番の「長円」は源氏の重宝で号を「薄緑」と申し源義経の佩刀として有名な太刀で,現在は静岡県三島市の佐野美術館に展示してあるハズですので是非ご覧になって下さい。

 同じく9番の「正国」は波平鍛冶の史実上の始祖,永延(987)頃に大和より薩摩に移住し谷山郡波平郷で鍛刀を開始したとの事,特質すべきは現存している日本刀で一番年号が古いのは「波平行正」で平治元年八月二日(1159)なり,他にもこれよりも古い年号の迷刀があるが,これらは全て偽物,夢〃ご油断めされてはなりませんぞぇ!。
  波平鍛冶の本家は明治の安行で64代を数え,現在もその刀法は伝承されて居ります。「大宝令」大宝元年(701)完成し二年から施行。この内の「栄繕令」と「関市令」とに「年月及ビ工匠ノ姓名ヲ鐫題セシム」とある。現在のラベリングと同じ主旨でこれより日本に於いては全ての鋳造物に,作者,産地,年月,が記される事になった訳であるが,その後の300年位は有名無実であって,現在の所では前述の行正が初見となっている。

 19番「玉造郡三の真国」の太刀は玉造(宮城県)の真国が三年に亘り精進潔斎して造ったと云う説があり,それで「三の…」が付く?,後に真国は鎌倉沼間(東逗子)に移り源氏第一の重宝「鬼丸」を造ったとの説もありますが,この説は少し無理があります。
  現在,本物の国綱在銘の「鬼丸」は天皇家に献上され宮内庁の所管となっております。伝来は,北条時頼の為に粟田口国綱が鍛え(1250)→北条時政の夢の中に出る悪鬼を斬る→名越高家=山崎合戦で戦死→北条高時=鎌倉幕府滅亡→北条時行=中先代の乱で自害→兄の邦時→新田義貞の船田義昌に捕われる→義貞は藤島合戦で敗死→北条高経分捕り→室町幕府・足利義昭→豊臣秀吉→本阿弥家に預ける→将軍吉宗上覧→本阿弥→天皇家。
  その昔,小生の許にも真国という太刀が来ていた事がありましたが,珍しい物でした。


中尊寺金色堂・藤原清衝棺上刀 左:中尊寺弁慶堂・安部貞任●用の立鼓柄刀
右:岩手・悪路王(アテルイ)使用の蕨手刀 
   

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