東京木材問屋協同組合


文苑 随想

時代を見つめて No.50


「ローマ法王・ヨハネ・パウロ2世」の語録

時見 青風

 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(本名カロル・ボイチワ)が2005年4月2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)敗血症によるショック症状と心不全のため法王庁(バチカン)内の居室で死去した。84歳だった。26年の在位期間は歴代3位,十億人を超える世界のカトリック教徒の頂点に立ち,国際平和推進に世界130ケ国以上を行脚,冷戦終結に大きな影響を与え,ユダヤ教や,ギリシャ正教との和解等にも大きな力を注いできた。

※ローマ法王とは
十億人あまりの信者を擁するキリスト教の最大教派,ローマ・カトリック教会の最高位指導者。使途ペテロから天国のかぎを継承した地上におけるキリストの代表者とされる。キリスト教徒全体の象徴ともいえる存在で,その発言や動向は宗教を超え世界的な影響力を持つ。面積にして,0.44平方キロの世界最小の独立国,バチカン市国の元首でもある。

ヨハネ・パウロ2世の歩みと語録を年代をおって,報道や資料等から拾って記して見た。

法王ヨハネ・パウロ2世(本名カルロ・ボイチワ)は,1920年(大正9年)5月18日ポーランドのクラクフ近郊で生まれている。
1938年(昭和13年)ヤギオエ大学入学。
1940年(昭和15年)44年までドイツ軍の迫害を避ける為,石切場で働いた。
(少年,青年時代をナチス・ドイツ占領下,次いでソビエト支配の共産党政権下で過ごし,この時代に「反共産主義者,反独裁主義者,人権擁論者,平和主義者」の面を兼ね備えた,将来のカトリック教会指導者の素地ができ上がったのではと記されている。)
1942年(昭和17年)地下神学校で勉強を開始。
1948年(昭和23年)ローマのアンジェリクム大で神学博士号を取得した。
1978年(昭和53年)10月16日に第264代の法王として選出されると,まず,ポーランドの自主管理労組「連帯」の精神的支えとなり,同国に東欧圏初の非共産政権が誕生する原動力ともなった。
この共産党離れの流れは,やがて「ベルリンの壁の崩壊」に象徴される東欧社会主義圏の崩壊にまで拡大したのである。
1981年(昭和56年)5月に法王がサンピエトロ広場で祝福中にトルコ人テロリストに狙撃されて,腹部に重傷を負った事件には,法王の影響力を恐れた東欧共産国の秘密情報機関が介在したとうわさされた背景もあったと言う。
事件以来めっきり体力の衰えを示し始めたにもかかわらず,法王は死去数カ月前まで,高齢と病身を押して布教と平和を訴える世界諸国行脚を続けた。法王は日本を含む130ケ国以上を訪れ,その全行程は地球の円周の約30倍,地球と月との距離の3倍に及んだと言うのである。
世界の国家元首でこのような膨大な距離の外国訪問ができる人は過去,現在,未来を含め誰も出て来ないであろうと報道されている。
法王は反共産主義者ながら,資本主義に根を張る物質文明,消費文化も強く批判,先進諸国に貧困と飢えに悩む低開発諸国への援助を訴え続けて来た。
平和主義者の法王は,武力による国際紛争の解決にも強く反対し続け,イラク戦争を前にして,米英軍の進攻に反対,最後まで双方の代表を招いて対話解決を諭し続けた。それがゆえに2003年のノーベル平和賞候補にも挙がったのである。
三流筆者には,カトリックのABCもわからないが,資料からもう少し続けて記して見たい。
カトリック教会内部にも大変革をもたらし,2千年の聖年に際しては,ローマ・カトリック教会が過去千年余りの間に犯した過ちでそれまで不問に付してきた問題,つまり東西教会の分裂や十字軍遠征,ユダヤ教徒迫害,異端審問などの非を率直に認め謝罪したと言う。
1983年には聖人,福者任命の手続きを簡素化し,自らの手で,2005年2月25日現在までに482人もの聖人を誕生させたと言うのだ,この数がいかに大きいか,自身の即位までの約410年間に叙せられた聖人総数が296人だったことを考えれば,すごい任命数だと言える。
半面,その保守強行姿勢が各方面で議論を呼んで来たと言う。
「生命はすべての段階で尊重されるべきだ」として,アフリカなどでの人口急増やエイズの蔓延を前にしてもコンドームの使用や中絶を認めず,70年代以降の中南米で貧しい民衆の救済を目指した左派勢力との共闘も辞さなかった。
ヨハネ・パウロ2世の即位前は,ローマ法王は455年の長期にわたり,イタリア人枢機卿からのみ選ばれて来たと言う。
法王は在位中,法王選出権を有する枢機卿の数を大幅に増やし,枢機卿の任命に当たっては出身地が世界の全地域を網羅するように配慮,枢機卿団内のイタリア人比率は極めて少なくなった。

1981年(昭和56年)2月23日,東京,広島,長崎を訪問,4日間の滞在で来日した。
「世界平和への営みを打ち砕くのは戦争だという警告を次世代の人々に告げるために,われわれの時代から選ばれた広島,長崎の両都市の名は永遠に語られるだろう」の名言をのこした。
法王が来日した際,広島市の平和祈念資料館を案内した被爆者で元館長,高橋昭博さん(73才)の談話を新聞で見た。
法王から「被爆の生き証人として案内してくださったことを心から感謝します」と言われた事を思いだしたと言う。
法王は,原爆の被害がB29重爆撃機4千機分の爆弾に匹敵すると説明を受けると,信じられないという表情で無言で首を振ったという。
その後,高橋さんは,1988年(昭和63年)4月,バチカン市国を訪れ,法王に合う。法王は「ヒロシマもあなたもよく覚えています」と言われ,高橋さんのやけどの跡のある右手をぎゅっと握り締めたと言う。
パーキンソン病と闘う法王の回復を願う高橋さんは,2002年(平成14年)11月,折り鶴の輪を法王に郵送した。こんな高橋さんとの逸話が書かれていた。

2003年(平成15年)10月在位25周年ミサ,「神は私の弱さを知りながら,私に託した責務を全うするように招いている」

2005年(平成17年)2月インフルエンザによる急性喉頭けいれんで入院したが10日退院した。13日に日曜恒例の祝福の儀式に出席するが,24日再入院した。3月13日に退院後,31日に尿路感染症による高熱で容体悪化した。
2005年4月2日死去。

 バチカン市国と法王について少々勉強してみよう。
 バチカン市国は,イタリアの首都,ローマ市の中に浮島のように位置している。日本の東京で言えば,皇居みたいな存在か。
 バチカンの公式サイトによると,2003年末現在,同国の市民権を持っているのは,枢機卿や聖職者,スイス人衛兵ら552人。このうち253人は国内居住権を有する。市民権は職に応じて付与されており,生まれつき市民権を持っている者はいないと言う。
 一般的に国家として承認される条件は,「領土があり,そこに住む住民がおり,実効統治できる政府が外交能力を持っていること」(外務省国際法課)とのことで,バチカンは国家として最低要件は満たしていると言うのである。
 しかし,成熟した国家が備えている要件の多くが欠けているのも大きな特徴らしい。そこで調べて見ると,国家を防衛する軍隊は1970年(日本では昭和45年大阪万博の年)法王パウロ六世により廃止されている。警備もスイス衛兵500人ぐらいの他はすべてイタリア警察が警備にあたっていると言う。ヨハネ・パウロ2世の葬儀も警備の主力はイタリア警察まかせと言うことになる。
 こんな特異な国家体制が形成された背景には,外部権力の介入や制約を受けることのないよう主権国家として最低限の体裁を整えることにより,法王の自由な活動を保証する,と言う深い歴史的な狙いがあったと言うことらしい。
 初代法王である使徒ペテロの時代から,カトリック教会はローマ皇帝や神聖ローマ帝国などの迫害や侵入に悩まされる半面,時の権力者をもしのぐ勢力を誇った時期もあったと言う。独立国家となったのは1929年(日本年昭和4年)(76年前,あまり古い歴史ではないが),ムッソリーニ首相期のイタリアと法王ピオ11世の時代に「ラテラノ条約」を締結してからだと言う。法王は「主権の支えとして足りる広さ」の領土を要求するにとどまったと記録されている。
 こうした国家の機構や規模に比べ外交関係の幅の広さは大変なものである。

 世界各地に根ざす教会を基礎に2005年1月現在,174ケ国の外交関係があると言われ,先にも記したが,ヨハネ・パウロ2世は104回の外遊で130ケ国以上を訪問,旧ソ連や東欧の民主化を支援,他宗教との和解にも尽力した法王であった。
 又法王は世界各国に訪問した折,その国の地に足を踏み入れた時,かならずその国の平和と国民の安全,幸せを祈って,その国の大地にひざまずきキッスをして,心からその国の平和と幸せを心体で祈ったと,私の尊敬するすばらしい先輩から聞き,感動した。
 そして,今や法王は世界十億人余りのカトリック教徒のみならずキリスト教全体を象徴する最高の存在であったと拝聴した。

 そして,2005年4月8日,バチカン市のサンピエトロ大聖堂前で異例の大儀式が行なわれた。
 報道によると葬儀には,ブッシュ米大統領を始め,各国の首脳級要人,国際機関の関係者,宗教指導者等計4500人,世界から集結した取材のための報道陣3500人,一般信者,約2百万人「史上最大規模」の大葬儀となったと言う。
 葬儀に伴う警備は厳重を極めたことがうかがえる。ローマの丘には地対空ミサイルが配置され,地中海には艦船が展開,大聖堂付近には狙撃手や爆発物処理班まで待機,ローマ市内の公共機関や学校は閉鎖され,環状線の内側は通行禁止となったと言う。

 前にも記したように,バチカン市国は0.44平方キロの小さな広さであるから,当然バチカン領内には入りきらず,ローマ市内に大幅にはみ出すことになるわけで,ローマもバチカンも大変だっただろうと想像する。
 人の集中する所にかならず心配になるのが下の話になるが,トイレはどうしたのだろうか。建設にたずさわるものなら考える話である。曽野綾子さんの新聞記事から見ると,心配ないようである。大群集を集めるローマ帝国の新しい時代の要請には立派に対応出来る体制がととのっていると言うのであった。
 そして,新らしい法王がどんな舵とりをしていくのか,私にはまったくわからないが,十億人の信者達にとっては大変気掛かりな事かも知れないと思った。

平成17年5月3日記



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