東京木材問屋協同組合


文苑 随想

恨,500年

榎 戸  勇

 「うらみ」,「うらむ」という言葉には,「怨」と「恨」の2つの漢字がある。わが国ではほとんど区別されずに使われているようで,怨恨のように2つ並べた熟語もある。この殺人は怨恨によるものらしい,というような記事が新聞に載っていることもある。

 しかし,漢字の故郷中国,そして中国と陸続きのため中国文化を強く受けてきた朝鮮半島の人々は「怨」と「恨」をはっきり区別しているようだ。
  「怨」のうらみは前向き,積極的なうらみで,アクチブに仇討ちをするような怨みである。わが国では親の仇討ち,赤穂浪士の吉良邸への討ち入り等沢山の事例がある。
  「恨」のうらみは陰にこもったネガチブな恨みで,口惜しさをじっと我慢しているが,その恨みの気持が内向し心の奥底に沈殿して何時までも残っている恨みである。

 私共日本人は気候風土のためか,「恨」のうらみの事例は比較的少ないようだ。強いて挙げれば幕末の長州藩の,中,下級武士達の動きであろう。毛利藩は戦国時代前から豊臣時代迄西国の雄として広島に居城し,山陽,山陰の大部分を領していた。しかし,関ヶ原の戦いの時,出陣はしたが戦いに参加せず匆々と兵を引き揚げてしまった。(薩摩藩も同じように引き揚げた。)家康は天下統一の後,この2藩を取り潰そうとしたが,家康側について関ヶ原で武功をたてた毛利の外藩のとりなしで取り潰しは免れたが長州(山口県)一国にとじこめられた。(一方,薩摩藩は国境に全兵力を配して国を固めると共に,家康と和戦両様の備えをしたうえで藩存続の交渉をした。家康は薩摩へ兵を出して戦っても,奥州の伊達藩の動きが心配なので得策ではないと判断し,薩摩藩の取り潰しを断念したという。)

 毛利藩は山陽,山陰の大部分を領する大藩から,本州の西端一国の小藩になったが,ほとんど全部の家臣が藩主について長州へ移った。家臣の禄高は数分の一に減らされ,足軽達は農民になって新田の開発へ,中,上級武士も半農生活と妻の内職で細々と生計を支えることになった。そして,それが徳川300年の間つづいたのである。親から子,子から孫へと徳川に対する恨みが語りつがれ,今は苦しくても,何時の日か恨みが果せると言い伝えていたという。(下級武士や足軽達が新田を開くのに既存の農民達も皆で協力し,長州藩の米生産高は2倍以上に増え,また妻子の内職で従来無かった特産品も生まれたと言われている。)
  家康に対するこの恨みが幕末に顕在化したとすれば,まさに「恨300年」である。表題の「恨500年」という言葉は中国に昔からある言葉だと聞いている。まさに気の長い恨みである。

 さて,中国,そして朝鮮半島の人々のうらみは,主として恨のうらみだと思う。
  私共日本人はあっけらかんとして熱し易く冷めやすい国民性のように思える。米国の無差別焼夷弾爆撃や広島,長崎への原子爆弾投下で沢山の一般市民,女,子供や老人達が亡くなったが,反米運動らしきものは1960年(昭和35年)の安保デモだけだった。この安保デモも,米国と安全保障条約を結び,米国の傘の下で国の安全を図ろうとする日本政府への反対デモであって,反米闘争ではなかった。昭和20年8月の無条件降伏の翌日から,日本人一般の反米感情,米国への恨みの感情は消えてしまったように思われる。
(戦災で亡くなった方々の家族は異なるかも知れないが)
  日本人は徳川300年の間に秩序に支配される経験を長く積んだ。秩序が安定しさえすれば,一般国民,庶民,は支配者がGHQであっても誰であってもよいのかも知れない。戦いに負けて口惜しいと心の底から思った人は国民の数パーセントだったと思う。大部分の庶民は今日からは空襲もない,勤労奉仕に駆り出されることもない,とホッとしたのではなかろうか。私は海軍少尉候補生として広島県に居たが,広島原爆の惨状を目のあたりに見た直後であったこともあり,正直,ホッとした。下士官,兵達は私以上にホッとしていたように思う。

 中国,朝鮮半島の人々の「うらみ」は主として恨みである。最近,新聞の書籍広告で韓国の基礎,基盤をつくったのは日本の統治時代である。道路を造り橋を渡し鉄道を敷いた。小学校,中学校,大学を建て国民の識字率を飛躍的に向上させた。韓国の反日言論に日本は大声で正々堂々と反論すべきだ,というようなことが見られる。それは確かに事実であるが,しかし事実の一面であろう。
  日本の統治時代に韓国の人々,(北朝鮮の人々も同じだが)は差別待遇で如何に惨めな思いをしたか,日本が造った神社の前では必ず立止って拝礼をさせられたが,心の底では口惜しかった筈だ。等々心の問題が他の一面としてあるのである。
  日本統治時代は確かに朝鮮半島に文明をもたらしたが,一方で朝鮮半島古来の文化を否定し,日本人より一段下の人々として処遇したため,半島の人々の心の底に恨みが残っていることも忘れてはなるまい。

 長々と恨みのことを述べたが,実はこの恨みが,戦後60年をへた現在でも,中国,韓国が小泉首相靖国神社公式参拝を糾弾する根底にあるのではなかろうかと思い,筆をとった次第である。

(終)



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