東京木材問屋協同組合


文苑 随想

歴 史 探 訪 No.35


「鯛生金山の歴史と中津江村」

歴史 訪人



 カメルーン選手の到着がおくれ,一躍,日本国中に知れわたった大分県の田舎も田舎,山の中の山村,中津江村が,東洋一と言われた鯛生金山の金の生産地であった,と言っても,知る人ぞ知る産地であった。
  平成17年,全国的に市町村合併でここ中津江村も日田市に合併となり,村ではなくなったが,前村長はどうしても,中津江村の名前は残したいとがんばって,大分県日田郡中津江村が,大分県日田市新中津江村となった。平成17年3月22日からである。
  今回はこの中津江村にある,「鯛生金山」について現地に立寄って調べて来たので記してみたい。

 明治27年(1894),この地を通りかかった干魚の行商人が白い小石を拾い,後日,近くで操業中の星野金山の技師に見せたことから,この鯛生金山は日の目を見ることになった。
  そして地元の田島儀一と言う人と鹿児島の南郷氏が鉱業権を得た。その後,鯛生野鉱山と名付けられて明治31年(1898)から小規模ながら本格的な採掘が始められたとなっている。
  当時の施設は,直径1.8mの水車が26台,青化熔解漕11本などで,大正7年までに金約1.3t,銀約1.6tを産出した程度であったと記録されている。
  大正7年(1918)には鉱業権がハンス・ハンター氏に移っている。ハンター氏は日本生まれのイギリス人で,明治から大正にかけての実業界で幅広く活躍した人物と言うことであった。
  金山の社名も鯛生金山株式会社と変わり,削岩機,火薬,立坑エレベーター,撰鉱場,精錬所,水力発電所など当時としては類を見ない近代的設備を導入して,大がかりな採掘が始められた,と記されている。
  地下深く伸びる金鉱脈を追って採鉱は順調に進み,年間産出量は鯛生野鉱山時代の年間50〜60kgから大正7年には90kg台,さらに同10年には製錬設備の拡張もあって約500kgに,そして大正13年(1924)には1tを越えるという飛躍的な伸びをみせたと言う。金山周辺には事務所,病院,小学校,配給所,倶楽部,山神社などがあって鉱山町を形成,どこの鉱山にも見られるように,人集まる所にはいろいろな施設が出来て,その場所は繁栄しているかに見えた。
  しかし,既存の鉱脈は着実に掘り進んだものの,新鉱床を発見するにいたらず,やがて鯛生金山におけるハンター氏の時代は終わりを告げることになった。
  大正7年から大正14年までの産出量は,金約4.6t,銀約9.5tだったと言う。
  そして大正14年(1925)年,鯛生金山をハンター氏から引き継いだのが,ハンター商会の総支配人で大阪の木村鐐之助氏と言う人であった。
  木村氏は大正15年(1926)から鉱山経営を当時の久原鉱業に委ねたが,昭和4年に久原鉱業が引揚げると直接経営にあたり,鹿児島から薬師五郎氏と言う人を所長として迎えた。
  薬師氏は久原鉱業の探鉱調査資料を参考に大探鉱を開始し,3号脈から西へ数百m掘進したところで,ついに大きな富鉱脈にいきあたったのである。これが後年「薬師ボナンザ」とたたえられた潜頭鉱床だったのである。その後も新鉱脈の発見は相次ぎ,昭和7年の金産出量が1.8t,同9年には2tの大台にのったと言う。
  昭和11年(1936),木村鐐之助氏の死去,長男の貞造氏の社長就任に伴い,社名を鯛生産業株式会社と改称し,翌12年には資本金を2000万円に増資,躍進して行った。
  金産出量も昭和12年(1937)に2.2t,同13年に2.3tと我が国第1位を記録,その間,隣接の日田金山や鹿児島の大口鉱山,布計鉱山,福岡の星野金山などを次々に買収し,東洋一の産金会社として名を馳せたと言う。
  昭和8〜9年頃から13年頃までの全盛時代には,従業員数が坑内数1500人,坑外約1000人,請負組約500人を数え,社宅も鯛生側に約400戸,福岡県の矢部側に約400戸に及ぶ,九州はもちろん全国から従業者が集まったと言う。
  村内には映画館や,飲食店が建ち並び,九州の一山村はまれに見る活況を呈したのである。
  しかし,昭和14年には木村家の鉱山経営の意欲が減退し,同15年にラサ工業株式会社と合併,同16年の大東亜戦争勃発とともに旧鯛生系の幹部社員は,東南アジアや朝鮮半島の鉱山へと離散して行った。
  金産出量も,昭和13年の2.3tをピークに14年1.9t,15年に1.5t,16年1.2t,17年0.9tと下降線をたどり,ついに昭和18年4月の金鉱業整備令公布のときを迎えたのである。
  金鉱業整備令は,金銀鉱を平和が訪れるまで温存することを目的に発令されたもので,当時国内の大小合わせて千数百ともいわれた金山が閉山の憂き目をみたのである。
  しかし,鯛生金山は産金に貢献した鉱山として,北海道の住友鴻之舞金山など11金山とともに保坑鉱山(国の補助金による鉱山の排水,坑内の保持などを行い,いつでも産金できる状態を維持した鉱山)として残された。
  しかし,昭和19年(1944)鉱業権は半官半民の帝国鉱業開発株式会社に譲渡され,また,同年から20年にかけては戦争激化に伴って,排水ポンプ,ポンプ巻上機,レールなどが次々と撤収され,実質的な閉山状態で昭和20年8月の終戦を迎えたのである。
  戦後,操業体制がとられたのは,昭和31年戦後10年以上たってから,鯛生鉱業株式会社が設立されてからで,33年には鹿児島の大口鉱業株式会社と合併,鯛生鉱業株式会社鯛生鉱業所として新発足してから本格的な採掘が始まった。
  昭和35年(1960)に近代的な青化製錬所を建設し,この年約0.8tの金を産出するなど,一時は再興への明るい展望がひらかれたかに見えたが,その後の探鉱で有望な鉱脈を発見することができず,採金量も漸減して昭和45年(1970)に休山,47年(1972)についに閉山に至ったのである。
  明治27年から昭和47年に至るまで,約80年間にわたる変化に富んだ鯛生金山の歩みはわが国屈指の名金山の歴史として,知る人ぞ知る,金山であったと言われている。
(鯛生金山史より)

 この鯛生金山のあった中津江村について,もう少々記してみたい。

 この中津江村は北部九州のほぼまん中で,大分県,福岡県,熊本県の3県が接するところに位置している。
  北は標高1,231mの釈迦岳と1150mの渡神岳がたおやかな稜線を描いて連なる,そんな山々の中に位置し,大分の山奥と言っても過言ではない程,緑濃い山の村である。これらの山々がたくわえた清水は,随所で渓流をなして,津江川に流れ入り,やがて「下筌ダム」に満々とたたえられる,そしてこの山の水は,熊本県を通り有明海に注ぐのである。
  中津江村は,江戸時代は日田天領に属していた。明治4年に大分県に統合され,同22年町村制施行に伴って合瀬村と栃野村が合併し中津江村が誕生したのである。
  それから現在に至るまで,鯛生金山の隆盛,木材好況の時代をみたものの,下筌ダム完成にともなう人口流出,鯛生金山の閉山,木材不況などの諸要因が重なって,近年の村の歩んだ道は必ずしも平坦なものではなかった。
  このような状況の中で,県の一村一品運動にともなった特産農業の振興,及び鯛生金山観光を中核とした村おこしが着実に功を奏し,先の平成14年(2002)ワールドカップでのカメールーンの誘致に対して思わぬハプニングの結果,何億円かの宣伝効果となり,当時の坂本休村長は一時,超多忙の生活を送られた人であったと思う。
  そして今村内には新らしい活力がみなぎろうとしている。
  豊かな自然を大切に守り,前にも記したが合併と言う新らしい時代として,日田市の市政がどんな風にこの中津江に繁栄していくか見守りたいものである。そして前中津江村の村長,坂本休氏は,中津江村の村長の大役をはたし,市政の移行と共に今,前記の東洋一の金を産出した「鯛生金山」中津江村地球財団の理事長に就任した。
  あの山の中の役所の建物は田舎にしては,不似合な大きいものであり,村そのものは,人口約1300人の小さな町ではあるが,やることは大きな力をもっていると感心した。
  現在,鯛生金山跡は地底博物館として,昭和53年に鯛生鉱業から中津江村に寄付された。そして跡地及び諸施設を整備し,よみがえった黄金の道はこの博物館で見ることが出来る。
  国内のどこの鉱山観光施設よりも規模が大きく鉱内は広く近代設備であった。見学コースは約1000m,所要時間40〜60分。
  日本の金,銀,鉱山跡に興味のある方は,この東洋一の金鉱跡,鯛生金山,地底博物館は見ておく必要はあると思う。大変勉強になった。

平成17年6月12日
※中津江村の市役所,人口1300人の山村の役場にしては不似合いと思う程
すばらしいが,やっている事は大きい。「人と自然が共生し,やすらぎ・
活気・笑顔に満ちた交流都市」のカンバンあり。屋上には,カメールーン
の旗がひらめいていた。
※東洋一だった鯛生金山の地底博物館の入口の建物。この先に鉱山入口が
ある。
※地底博物館の入口,大変整備された入口だが,石垣の苔が歴史を物語っ
ている。
※地底の鉱山作業通路,観光コースは1000mあるが,規模が大変大きい。
さすがに東洋一。



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