東京木材問屋協同組合


文苑 随想

歴 史 探 訪 No.37


グアム島で発見された
「横井庄一」氏の一生と母からの手紙

歴史 訪人



 「恥ずかしながら生き長らえて,帰って参りました」と帰国第一声の言葉を残したが,新聞やテレビ等で報道されてから,33年にもなった。横井氏が戦後グアム島で発見されたのが,終戦後28年も経った昭和47年である。
  横井氏のことについて,戦後60年になる平成17年9月のある日,母からもらった手紙を新聞記事で見て,横井氏の生魂に興味を持ち,どうしてあのグアム島のジャングルの中で,28年もの長い年月を永らえたのか,いろいろ資料を調べて記して見たいと思った。

 1915年(大正4年)愛知県海部郡で,呉服屋の父「山田庄七」と母「つる」の間に長男として生まれる。
  3才の時に両親が離婚し,母方の実家にもどり,姓も母の旧姓「大鹿」となる,それから小学校5年生の時に母親が再婚したので,「横井」姓になった。
  学卒後は約5年間愛知県豊橋市の洋品店に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入,4年間の兵役の後,洋服の仕立て屋を立ち上げる。
  1941年(昭和16年)に2度目の太平洋戦争のため再招集を受け,満州に送られた。
  1944年(昭和19年)2月,部隊は釜山から「安芸丸」にすし詰めにされて,南を目指した。
  3月4日に輸送船はグアムに到着したと言う。そして「横井」氏は歩兵第38部隊伍長として兵役した。
  昭和19年3月,4月の2ヶ月ほどの間に,2万を越える兵隊がこのグアム島に配置されたと記されている。
  「横井」氏の部隊は,アメリカ軍が上陸したと言うアガット(昭和町)を中心に陣地構築を続けていったらしい。
  その年(昭和19年)の7月10日に,「横井」氏は初めてアメリカ艦艇を有羽(アリファン)山から眺めたと記されている。
  その後,一週間,1日20時間のアメリカの砲撃と爆撃が続いたと言う。
  米軍がグアム島に上陸したのは昭和19年7月21日と言うが,その時の様子は,「横井」氏は目撃し記憶していると言う。
  その時の「横井」氏の任務は輜重兵と言って,戦闘ではなく,物資の運搬と補給する業務が中心の仕事であった。したがって,持たされた小銃弾も30発足らずであったと言う。
  「横井」氏のいた歩兵第38連隊は,7月21日つまり,米軍が上陸した日,大規模な夜襲攻撃を受け,兵力の90%は失われた(死亡した)と言う。
  そして,司令部との連絡も途絶え,ジャングルの中で孤立していったのである。
  従って,7月25日に日本軍の総反撃が開始された事も,8月11日に全島が米軍に落ちたということも,知らされていなかったのである。
  フエンナの海軍洞窟には,三年分の食糧が蓄えられていたと言う。しかし,いち早くアメリカがそれを知り,「横井」氏達は近づく事も出来なくなっていったと言う。
  すでに本土では,「玉砕島・全員戦死」と伝えられていたグアム島には,死にものぐるいでさまよい続ける何百人かの兵士達が死をのがれていたのである。
  時折,アメリカ兵と出くわし交戦を繰り返すために,終戦など思いもよらず,ポツダム宣言を空からまかれた日本語のビラを見た時も,頭から「敵の謀略」と決め込み,「ポツダムとは,なんだろう」と話し合ったと記されている。
  さらに,「横井」氏達は,何度も投降勧告の放送を聞いたと言う。
  しかし,アメリカ軍の罠のような襲撃や見境ない銃撃に,次々と仲間を失っていったと言う。「横井」氏達は,いくら日本の流行歌をマイクで唄われても,到底信じることは出来なかったと記されている。
  こうして,ただひたすら潜伏し飢餓と病に苦しむ「横井」氏の28年間の闘いが,戦争終結と同時に始まったのであった。

 最初の7年間,横井氏は生き残った仲間と地上にランチョと呼ばれる掘っ立て小屋の隠れ家を転々としていた。しかし,すぐにアメリカ兵に発見され襲撃されることを繰り返し,ついに地下に潜るしかないと追いつめられて,穴掘りを始めた。条件は,近くに食糧はなくても水とマキには不自由しない所,そして何より人が通らぬ所を選んだと言う。
  穴は砲弾の破片を木の先に縛り付けて,それをシャベルのかわりにして掘った。
  合計7つの穴を掘り,最終的に12年間を過ごした穴は,竹藪の中に入り口縦横80センチ,深さ2メートルの穴であった。
  主食は,パンの実をはじめとした木の実であったが,なかなか手に入らないことが多かったらしい。
  タンパク質は,野ブタ・ネズミ・トカゲ・牛・鹿からとったと記されている。
  ネズミは,調理できない時は生で食べることもあったが,焼くと簡単に皮がむけ天日で乾燥させて保存食にも便利であったと言う。
  タロホホ村が近くにあり住居があったが,村人の食糧には決して手を出さなかったという。これが,長期間発見されなかった理由らしい。
  家事で火を起こすレンズを失った後は,細工した竹をこすりあわせて火をおこす。火種を慎重に灰に保存していた。
  コプラ椰子から油をとり,天ぷらを揚げることに使ったり,灯油に使ったりしたという。
  パゴの木の薄皮をはいでアク抜きして繊維を作り,手製の機織り機まで作って布にした。その後縫い上げて,半年程かけて完成させるという本格的なものであったと言う。
  昭和38年ころに大きな台風に襲われ,本格的な食糧不足に陥っている。
  この台風で,多くの生き残り兵が,命を失ったと言うが,大きな台風だったらしい。
  昭和40年頃までに,生活を一緒にすることもあった二人の戦友が死亡したと記されているが,ここから完全な孤独になったのである。
  その後,1人の日本兵とも,そして,その痕跡にも会っていないと言う。
  年月は満月を数え木の幹に記していたらしいが,発見された時は6ヶ月ずれていたと言う。
  帰国後,披露されたどの道具類もどの知恵も,「サバイバルの達人」と,人々をうならせる見事さであったと言う。
  しかし,採ればすぐ腐る食糧は常に明日の心配があり,猟をした痕跡も常に跡形もなく消さなくてはならなかった,また,調理のために火をおこすのは人目につかない真夜中に穴の中で行うため耐えられない暑さと息苦しさであったので,内蔵を壊し,胃潰瘍などで何度も生死をさまよったと言う。
  何より,発見されるという恐怖感で28年間一瞬たりとも熟睡したことがなく,独り言も自分に禁じたという。文字通り想像を絶する,過酷な生活であった事は,間違いのない事実であった。
  グアム島はマラリア蚊・毒蛇・毒虫が居なかったことが,生き残るためには幸いしたと言う。
  蛇は全くいないと言うわけではない。「横井」氏は会っていると言う。
  こんな環境の中で「横井」氏は28年間もの長い間生活をしてきたのである。とても人間のする力とは思えない。

 1972年(昭和47年)1月24日の夕方。
  陸軍伍長「横井庄一」氏がグアム島へ上陸してから,28年目のことであった。
  その日の夕方,「横井」氏はいつものように川に魚採りカゴを仕掛けるために,洞穴を出た,足跡を残さないように川のふちを歩き,足下を注意しながら,草原の近道を通った。
  ふと,草むらを出たとたん,目の前に銃をかまえた現地人が立ちふさがっていた。無我夢中で飛びついて銃をひったくろうとするが,すぐに押し倒されてしまったのである。連行される間中,「横井」の脳裏をかけめぐるのは,「ついに殺される時がやってきた」という気持だけであったと記されている。
  日本国内では,グアム島のジャングルに潜伏していた日本兵士のニュースは大きな衝撃をもって迎えられた。
  日本は正に,高度経済成長が進行中であった。話はちょっと横道にそれるが,田中角栄総理が誕生し,日本列島改造論がもてはやされ始めた時代でもあった。そして,連合赤軍の軽井沢の浅間山荘事件もこの年の出来事であった。
  戦争を忘れ,安穏と混乱もある中,そんな時に,「横井」氏は発見されたのである。
  見つかってから9日後の昭和47年2月2日に,羽田空港のタラップを降り,あれほど帰りたかった日本の地を踏みしめた時,「横井」氏が最初に出た言葉が,文頭の「恥ずかしながら生き長らえて帰って参りました」である,このニュースを多くの人々が見聞きしたと思うが,今でも忘れられないシーンの1コマであった。
  この言葉を聞き,紛れもなく「日本敗残兵」であるその姿を目のあたりにして,誰もが戦争は未だ終わっていないのだと言う複雑さ,重さを改めて思い知らされたと今でも記憶に残っている。

 文中にもあるが,1944年(昭和19年)8月にグアム島は玉砕,戦死広報が横井家にも届けられた。
  終戦から1年後の昭和21年11月,「横井庄一氏」の母,つるさんが,息子の消息を尋ねるため,横井氏とグアム島で部隊が一緒だった人々へあてた手紙が横井氏が帰国後に発見された。

「前略御免下さいませ,
突然では御座居ますがちょっとお尋ね致します。
私は息子庄一を大宮島で戦死さしたものでございます。庄一と神谷さんとは満洲に居る時から同部隊であったとの事隣村の助光の加藤高光さんに聞きました。
戦死したものとあきらめてはをりますが,最後がどんな風だったか,もしご存じでしたらお世話ですがお知らせくださいませ,
部隊名は
  満洲国奉天省遼陽郵政局気付満洲303部隊土屋隊2ノ宮班横井庄一兵長
  横須賀郵便局気付ウ102雷第3211部隊土屋隊横井庄一
でございます。お忙しいところ誠に恐れ入りますが,親心をおくみ取り下さいまして一寸お知らせ下さいませんでせうか。切にお願い申し上げます。
まづは乱筆にておねがいまで。 かしこ」

 黄色く変色した一枚の便箋に,薄くかすれた鉛筆書きの文字だったと言う。しかし,その文章からは子を思う母の気持が,痛いほど分かる文面ではありませんか。
  母「つる」さんは息子の生存を信じて,「うちの子は生きちよる。ジャングルの中できっと生きちよる」と近所の人々に言い続けた,そして,いつ復員してもいいように,二階の横井氏の部屋はそのままにしてあったと言う,しかし,ついに息子の顔を見ることなく,昭和33年4月,69才でこの世を去っている。
  母がなくなってから14年後になるが,47年に帰国後,母の死を聞いた「横井」は名古屋へ帰郷した際,実家へ戻るよりも先に母の眠る墓地に向い,墓の前で,あたりをはばかることなく,墓に額を押し付け,号泣したと言う。
  「横井」氏は帰国後,9ヶ月して,お見合の席で出合った「美保子」さんと運命の導きがあって結婚している。
  その後は,自身のグアムでのサバイバルについて全国各地で講演活動を続けた,1974年(昭和49年)田中首相の当時,参議院議員選挙にも出馬した事があった。
  母からの手紙に文章を戻すが,講演活動を続けている時,講演先で関係者から先の手紙を譲り受け,手にした「横井」氏は「神様が渡してくれたのかなあ」と両手でかみしめ,その手紙を大事そうに,仏壇の引き出しにしまったという。
  この時,母からの愛情,子を思う親心,
  「海に足を入れても沈まないなら,日本へ歩いてでも帰りたかった」そして,母に合いたかったと故国の土を踏むことに恋い焦がれていた横井氏も,母との再会の日を夢見て日々のサバイバル生活を続けたのであろう。
  昭和19年,先にも記したが,グアム島に配置された2万人の兵士達の中から生き残った,「横井」氏,は帰国後,美保子さんに支えられ,すごい人生行路ではあったが,1997年(平成9年)9月22日,急性心不全で死去されたのである,享年82であった。
  故国を思い,母を思い,ジャングルの中で28年間も自然と闘い,文明と全くかけ離れた生活を続けた横井氏の生命力には,ただただ,感服する以外はないが,まれに見る,横井氏の波瀾万丈の一生を記して見ました。

平成17年9月4日記



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