東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀♪」

其の25〈入門外伝1〉

愛三木材・名 倉 敬 世

錦包糸巻太刀拵 [刀身 無銘(号小鳥丸)]

謹賀新年 幸多き年の始めを寿ぎます。

美男には美女,海老には鯛,丁には半,の如く世間には格別の連れ合いと申しますか,宿命のベストカップルと云う例が多々有ります。その伝で申しますと「刀には砥石」。
因ってお正月ですので,綺麗にすると云う事にて「研ぎ&砥石」の説明と致しましょう。
「研ぎ」とは一般的には刃物の切れ具合が悪くなった時に磨いて切れる様にする事。
中世以後の刃物の大半は鉄製であり,鉄は酸素とドッキングすると錆びて腐食してパー。
ではどうするかと云うと,刀の場合は刀身に皮膜を作って酸素との接触を防止する。
普通は丁子の花から採った植物油を塗る場合が多い。鉱物油は白濁して刃文が見にくく,テンプラ油は強烈に匂う。一度塗ると古刀なら一年,新刀や最近砥いだ刀は半年は保つ,この間は手入れは無用である。その期間が過ぎたら,砥石の粉末が入っているタンポでポン〃〃と叩いて風化した前の油を取り去り新しい油と塗り代える。この間約三分,一年間の手入れはこれで終わりなのである。

「砥」… 刀や玉を磨く石。砥は粒子の細かい石でマドともアオトとも読む。礪は粒子の荒い石でハヤトと読む,アラトと読むのは誤り,これはアラガネと読む。
   
「砥石」… 刀を研ぐ石。砥石の種類は多く,石質や産地によって名称も異なる。
刀を研ぐ順序から云えば,石質の荒い粗砥の折れ杭・芽中・青芽などから始まり,海うな上かみ砥・神み子この浜はま砥・浄慶時じょうけんじ(常見寺・上鏡けん寺)・名倉砥・内曇うちぐもり砥・浅あさ黄ぎ砥・枇杷びわ砥(柿砥)等を使う。中国では越国えつこく産が名高く,荊州けいしゅう産は毎年朝廷に献上,そのほか南昌・首陽山・等からも産出する。

 現在,国内では産出が極端に減少していて,これの飛び抜けてランクと価格の高い砥石を驚くなかれ「名倉砥」と申しはべる。小生と同名とは気恥ずかしい限りですが,辞書にもちゃんと載っているので,少々遠慮しながら紹介をさせて頂く事に致しました。

 「名倉砥」=「刀の砥ぎに用いる砥石」,これには大名倉砥,中名倉砥,荒名倉砥,等と呼ばれる物と,細こま名倉砥または小名倉砥と呼ばれる物と二種類ある。前者で研いで,それ迄の常見寺砥の砥目,後者で研いで前者の砥目を消していく砥石である。産地では「三河白」と呼ぶ,三河国から出る白っぽい砥石である。
産地については,三河国名倉,つまり現在の愛知県北設楽郡設楽町という説と同じく奈久良山と云う説,また設楽郡名倉および古戸,これは現在の北設楽郡東栄町古戸なり。
郷土史では北設楽郡三輪村,現在の南設楽郡鳳来町川合の川合山の付近としている。
「名倉」と呼ぶのは北設楽郡名倉巴の武士・名倉左近が蓬莱寺湖付近に狩に来た時に,そこの石で鏃やじりを研いだところ,非常に良く砥げたのでそれで発見者の名前に因み命名。

 「名倉左近蔵人」=清和源氏頼政流・当家の遠祖。当時は三河国名倉村清水城の城主。天正十年(1582)信州に出陣し討死。
 この年は三月に武田勝頼が天目山で自害し武田家滅亡,六月には織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ,その光秀が山崎で秀吉に討たれ,日本中が大混乱の真っ最中でした。
 この後,清水城が落城,為に先祖も二手に分かれて遁走,浜名湖の中の堀江の城主と成られたのが細田木材工業(株)の細田安治氏の先祖の伊茂さん,この方も甲州新府で戦死。
 一方,岡崎市の近くの西条城(:現在の西尾市)に逃れたのが当家の先祖ですが,何分にも今より423年前の話ですので何ともはゃ?ですねん。
…と云う訳で,三河の砥石山は江戸期になると幕府の直轄地となり,川合村に与えた砥 石採掘権に対して,幕府は運上金を徴収していた。しかし採掘量が年々減少して来て元禄(1688)の末には一時期中断するに至った。その後,正徳二年(1712)に川合村の名主戸村彦五郎が採掘を請負う事になり,以後は細々ながら継続されていた。
 併し,安永(1772)頃になると,江戸の研師たちは細名倉砥が入手できなくなって来た。研師が困り果てているのを見かね,文政九年(1826)幕府のお抱え砥師の竹屋伊右衛門が,地元の庄兵衛という者と連署で採掘の許可を得て仕事を始めたが,天保二年(1831)に庄兵衛に不都合な行為が有りとして許可が取り消されたため,戸村家だけの操業となり幕末に至った。明治になると砥石山は国有林となり,現在は営林署の管轄になっている。
 豊橋から諏訪へ至るJR 飯田線三河川合駅で降り,山間を8キロ進み,さらに麓から1.5 キロ程の急な瓦礫ばかりの山道を登って行くと,海抜692 mの名久良山の山頂に出る,ここが当初の砥石の原石の採掘地との事である。砥石が山の頂上で掘られていたとは知らなんだが,砥石は疑灰岩の湖底堆積物なので,山頂も昔は湖底で有った訳だ。
 ここを南朝方の武将名倉左近が発見してからしても数百年の伝統があり,武田信玄もここを特に支配し江戸幕府も天領とした。三河図絵にも「刀剣砥石として三河名倉産が最高」とある。江戸期は豪商の戸村,明治には村有,大正から川合の村松家が採掘権を得ていて,今の村松富子さんは三代目である。
 この地方には「川合からは嫁を貰らっても嫁にはやるな」という諺が残っている。それはこの地方の嫁は昔は誰もが午前二時から20キロもの砥石を担ぎ,四里以上の急な山坂を越え問屋に届け朝飯前の仕事をして家計を助けた事による,厳しぃ〜話である。
 今は刀剣,鎌,剃刀,鉋,の需要も大幅に減り,遂に掘る人も一人になってしまった。全てが昔ながらのノミによる手掘りであるが,主な道具としては長さの違う二本の矢と三本のノミだけである。
 人が四つん這いになって,やっと進めるほどの穴が山肌にポッカリ開いていて,その穴をガス灯を頼りに奥深く入って行く,幾つもの脇穴を避けながら100 m位い進むと採掘現場に辿り着く,そこは少し広いがそれでも立つ事は出来ない,広がりが有るだけ落盤が怖い。現在,此処では村松家の従業員の方が一人だけで採掘をしているのだが,一日中自分のノミの音以外は何もしない。朝ここまで登って来たら,夕方まで帰らない。その間,世俗から完全に遮断され,下で何が起こっていようと一切無関係の世界である。地震の時の恐ろしさは半端ではないだろうし,熊も猪も多い赤石山系の尾根なのである。
 砥石の地層は1〜2m程の厚さで水平に走っていて,創世時の状況で肌理や性質が少しづつ異なっているため,必要なところをノミで採掘をするのだが,刀剣の仕上げに使用する細名倉砥は1 〜 2 mの長さが有っても品質の良い処は僅か10 cm程しか無く,年々その量も少なくなり苦労をしている様である。
 刀剣は研師の手にかかって,大和,山城,備前,相州,関,伝とその表情を変える,それには約10種類の砥石を使い伝法通りに仕上げていく,中には紙のように薄くした砥石を漆で吉野紙に貼り,人差し指の腹の力加減で刀工の意思を汲み取り仕上げて行く。
 砥石の良い物はかなり高価である,名倉砥でも最低10万はするし上はキリが無い。砥石は生きていて新しい物はすぐ使っても馴染まない物も有るが,2 〜 3 年寝かせると良くなり,使っている内に次第に中身が新しくなって来て,砥石と刃物の馴染みが悪くなる事も有るが,だからと云って捨ててはいけない,暫くすると再び良くなる事が希に有るという。この様に砥石も宥なだめたり賺すかしたりして使うのである,人様と同じである。
 この砥石の世界にも近頃は人工砥石が入って来て無垢物は苦戦,木材と同じである。尚,硯すずりも砥石と同属と思うが,この名倉砥の出る直ぐ近くに仏法僧と鳴くので有名なコノハズク(旅鳥)が立ち寄る鳳来寺と云う寺が在り,そこに愛知県の無形文化財にて伝統工芸展の硯の審査員であった故名倉鳳山師が住んで居られ,この件を聞いた事が有ったが,「砥石と硯はそれぞれに使われる材料は完全に違います,砥石は金物を卸し,硯は墨を摺る事です,内容と性分が違います。しかし目による判別は一寸難しいのではないかとは思います」,と云う手紙を頂き今も手許に大切に保管してあります。

  追伸で,「名倉郷と云われた集落には現在は個人の名倉姓の方は一人も居りません,小,中学校,森林組合,河川名,等の地域名として残っているダケです」とありました。砥石のお陰で,とんだ所で先祖の「本願の地」が出て参りましたので,序でと云ってはナンですが,別表にそこら辺の地図を出させて頂きましたので,ジ〜ッとご覧下され。
 地図の新城市の左に「野田・のだじょう」と有りますが,武田信玄が鉄砲で狙撃され
アウトになった所,遺骸を荼毘に付したのが隣の林光寺←これは?。右の「船着山」と三河と遠江の境に在る「鳶ノ巣山」は長篠の役に出て来る常連です。その「長篠城」は船着山と医王寺の間なのです,〜地図では道路が被っていて見にくくてすいません〜。
この城の攻防が後の日本史を変え,特に戦闘方法に多大な影響を与えたのであります。
 当時は武田の方が圧倒的に威勢が良く近在の中小の豪族は全て四ツ菱が頼りでした,その武田が鉄砲に破れビックリ+驚天動地,かくして数年後に甲斐の名族,武田家滅亡。
 その余波で当家の先祖もトンズラする事になるのです,その「本願の地」が寒狭川かんさがわの上流の寒狭山の周辺。近くに前出の資料に出て来る[名久良山]は見当たりませんが,右の上に古戸山や古戸の地名は有り,川合の名も飯田線の駅名の外に三ヶ所も在ります。鳳来寺も近くて,どうも今より往古の方が開けて居た様な感じが無きにしもあらずです。この地域は,尾張,信濃,甲斐,駿河,遠江よりの至近の距離で左の作手つくで村の先の方が徳川家の本願の地「松平郷」です,ここの方が多少平地に近いですが,五十歩百歩です。
 それにしても,折角のルーツの地に同名が一人も居ないとは,何たる事でござろう!。そのうちリタイヤしたら炭焼きに身を隠して住み着いてみんべ〜,と思っております。


※ 砥石と研師は対ですので,砥石を紹介して研師を紹介しませんと祟られますので,次回は「研師」と云う事に致します,実際,これが刀の価格を決めますによって…。



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