東京木材問屋協同組合


文苑 随想

歴 史 探 訪 No.38

明けまして,お目出度うございます


福井「永平寺」と「ズワイガニ」

歴史 訪人



 「皆様お酒を含んでいる人はいませんか」とバスのガイドがいきなり聞いて来る。これから「永平寺」に参拝ですが,お酒を含んでいる人は,門前で断わられると言うのだ。
 東京羽田から1時間あまり,小松空港に着いて,すぐに「永平寺」へ参拝となった時のことである。
 「永平寺」は,今から約760年前の1243年(寛元2年)道元禅師によって開かれた坐禅修行の道場である。
 境内は三方を山に囲まれた,資料には深山幽谷しんざんゆうこくの地となっているが,けっこう大木が林立している山間の地であった。その中に大小合わせて,70余りの建物が並んでいると言う。確かに廊下つたいに建物を見て廻ったが,かなりの数である。
 永平寺を開いた道元禅師は1200年(正治しょうじ2年)京都に生まれ,14才の時比叡山で出家し,24才の春中国に渡り天童山の如浄禅師にょじょうぜんじについて厳しい修行をされ,お釈迦様から伝わった「坐禅」という正しい仏の教えを受け継がれて日本に帰られたと記されている。
 初めに京都に道場を作ったが,1243年(寛元元年)波多はたの義重よししげ公の要請もあって越前の国に移られ,永平寺を開いたという。現在は曹洞宗の大本山として,僧侶の育成と檀信だんしん徒との信仰の源となっている。
 まず見学と言うか,おまいりと言うか,正門参道から寺内に石段を上り通用門から,靴を脱いで入門する。広間にて寺内の説明を全員で受ける。そして修行僧が寺内の案内をしてくれるが,彼等にカメラを向けて,撮ってはいけないとか,働らいている僧に声をかけてはいけないとか,規則がうるさい。
 では修行僧が修業する課程を順をおってちょっと資料より記して見たい。
 まずは坐禅から,「坐禅」は修行の根本と言われる,背筋を伸ばして姿勢を正し,静かに息を整えて座れば,心も自ずから正しくなり,み仏の徳がそなわると言う。建物の中には僧堂と言う坐禅をする大広間があり,朝から行なわれたらしいが,見ることは出来なかった。
 この朝の坐禅が終わると,法堂で「朝課ちょうか」(朝の読経どきょう)が始まる,東の空がほんのり白みがかった頃,修行僧の一糸乱れぬ読経の声が一時間あまり永平寺の山内に響き渡り,参拝の人達も共に心が清浄になる厳かな一時と記されていたが,我々は時間的に聞くことは出来なかった。
 また,「行鉢ぎょうはつ」とは正式な作法に則り食事を頂くことである。永平寺の食事はいわゆる精進料理と言われる菜食で,食事も大切な修行となっている。又トイレに行くのも正しい作法があって,修行の一つですと僧の話であったが,内容は話してくれなかった。
 修行僧の大事な修行に「作務さむ」がある。さむとは掃除などの労働や作業のことと言う。
 こんなことを記されていたので記して見た。「永平寺の修行の中心は坐禅ですが,坐禅だけが修行の全てではありません,坐禅の精神を日常生活に展開していくことこそが大切なのです,毎日行われる回廊掃除などの作務はいわば「動の坐禅」と言えるものです」
 こんなふうに記されているが,日常生活で,すべてが修行なのであろうか,又毎日精進料理でもちろん,酒は飲めないのかと心配もあるが女性の僧は見かけなかった,食事を作ることから洗濯まで200人いる修行僧でまかなっているのであろう。おかしかったのは,その中で,精進料理でも,僧の中にかなり太ることもあるのかと,でぶちゃんを見てそう思った。
 ちょうど,紅葉の時期だったので,寺内は美しい風景も見ることが出来満足。
 道元禅師について,前にも簡単に記したがもう少し詳しく記したい。今回の旅行のガイドが永平寺の事をよく知っており,説明してくれてたのである。
 ガイド嬢が禅師様と表現していたので,禅師様と記します。
 禅師様は今から806年前に1200年(正治2年)1月26日京都にて生まれた。父君は,時の内大臣・久我通親公くがみちちかこう,母君は藤原基房ふじわらもとふさ公の姫君であったと言う。
 名門の家柄に生まれたので何一つ不自由なく育ったわけだが,3才のときに父君が亡くなり,8才の冬に母君も亡くなったと言う。そして幼心にも世の無常を心に深く刻まれ,14才の時に出家され,比叡山で得度の式をあげた。比叡山で修行すること3年,仏教教学上に大きな疑問を抱かれ,比叡山を下り京都に建仁寺で禅を広めていた栄西禅師氏について禅の道に入ることになる。
 24才の時に栄西の弟子明全みょうぜんと共に中国の宋へ渡り,天童山景徳寺てんどうざんけいとくじの如上にょじょう禅師氏の元で真実の仏法を体得する。
 1227年(安貞元年)の冬,無事帰国した道元祥師様は京都の建仁寺で旅装束をとかれ,普勧坐禅儀ふかんざぜんぎの一遍を書かれ,坐禅の心得を述べられたと言う。
 その後,深草の古寺・安養あんよう寺じにこもられ,坐禅の神髄を身につけたと記されている。
 34才の時に,京都の宇治に聖興寺という禅寺を建立し,道元禅師の名声はいよいよ高まり,やがてこの寺にも貴族や武士の出入りがひんぱつとなり,目先の利益におぼれて修行の純粋さを失なうことをおそれて,都を離れた静かな地に修行の寺を持ちたいものだと考えていた。
 「そなたは,日本に帰えっても貴族の奴隷となることなく,静寂な地に身を構えひたすら仏の道に精進するように」との如上禅師様の言葉を守り,折りも折り,「越前へおいでくだされまいか」と信者の1人,波多出雲守義重はたのいづものかみよししげと申す方がしきりに下向げこうをすすめられ,「越前と聞くさえも我なつかしい,我が師如上禅師様の生まれ故郷も越の国と聞く」と大変喜ばれ,1242年(寛元元年)7月,日本史年表によると,道元,大仏寺を開くとあるが元年の夏,門下一同を引き連れて吉ぽう寺という古寺に入られ,間もなく只今の幽郷に地を定め永平寺の建立にかかり,翌年1243年(寛元2年)落成したと言う。
 禅師様はこの地に10年,その間ただ一度だけ,時の執権,北条時頼公の招きを受け半年間鎌倉へ旅をしたほかは,ひたすらこの地におり,若い僧たちの指導にあたり,多くの書を書いている。
 1253年(建長5年),病に倒れ,京都の信徒の熱心な勧めで療養のため,京都に行ったが,その年の8月26日,54才の生涯を清らかに終えたと記されている。
 その後,禅師様は,孝明天皇より仏性伝統国師なる国師号を下賜かしされ,明治12年には,明治天皇より承陽大師なる大師号を追賜されていると言う。
 只今では,永平寺境内の承陽殿で静かに眠っている。と,我がバスの旅行ガイド嬢が説明し書いたものをまとめました。
 永平寺については,これくらいにするが,昼食は永平寺近くのレストランで精進料理をごちそうになった。

※永平寺の入場門,今日も入場者3000人以上と言う,
  酒に酔ってる人,入場おことわり。

 意外に福井について知らない人が多いと思うので,ちょっと観光について触れて見る。
 福井県は昔で言うと越前と若狭の2つに分かれ,越前は,前に記した永平寺,丸岡城,それに温泉では永平寺から近い所にある「あわら温泉」がある。また東尋坊も有名であるが。
 今回の旅は,「永平寺」と「ズワイガニ」の旅に参加した,この「越前ガニ」は11月から,解禁で,シーズンにはいる。越前ガニとズワイガニについて少々説明する必要がありそうである。
 「越前ガニ」とは,越前海岸,つまり越前加賀海岸国定公園に指定されている周辺,福井県の海岸近くで取れた,ズワイガニのことを越前ガニと言うのではないかと思い,カニを売っている,カニ店で聞いて見た,返事はまあそんな所かなと言う。所が,店には,もちろん越前ガニとズワイガニとを区別して売っている。見た所,素人の私には見分けがつかない。分かるのは,普通のズワイガニより越前ガニの方が値段が倍高い事であった。ズワイガニが普通物で4〜5千円のものが越前ガニで1万円以上の価額が付いていた。聞く所によるとズワイガニは,外国物もあるらしい。だから安いのかも知れない。
 それにしても福井は海の幸が豊富である。若狭湾で取れる海の幸は又格別であった。
 何年か前は福井温泉と言えば「芦原温泉」が1ヶ所であると記憶していたが,最近は(行ってみて驚いた)地図に25ヶ所もあり,どこも温泉ブームであることがうかがえる。
 あわら温泉で,ズワイガニを食した関係上少々この温泉について記して見た。
 「芦原温泉」は,その昔,灌漑かんがい用の井戸を掘っていると水の代わりに塩分を含んだお湯が出てきたと言うことで,これがあわら温泉となった訳である。泉質は塩化物泉という泉質で,浴用では神経痛や筋肉痛,皮膚病,疲労回復によく効き,飲用としては慢性消化器病,便秘などに効能を発揮するらしい。
 この温泉地は昔,田んぼの真中で,海でも山でもないので殺風景な所であった為に旅館がそれぞれ趣向をこらし,庭に金をかけたようである。私の泊した「みのや」もすばらしい庭園があった。
 今夜はこの旅館で1人1ぱいのズワイガニのごちそうである。下掲の写真をご覧ください。
 まだまだ記したい場所は沢山あるが,別の機会に書きたいと思う。
 特に若狭湾でとれる魚等を小浜から,びわ湖,大原,京都などにぬける303号線は,
昔,若狭街道(鯖街道)と言って,重要な主力街道であった。その街道に「熊川宿」があって昔の面影をこよなく残している。次回の歴史訪人はこの宿場町を記したいと思う。

平成17年12月11日記
※大木の立ち並ぶ,永平寺の寺内

※どうですこの大きい「ズワイガニ」全員に1パイずつ



前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2005