東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀♪」

其の26〈入門外伝2〉

愛三木材・名 倉 敬 世

「研ぎ…研師…とは何ぞや?」
  その昔,と言っても2〜30年前迄は,町内の路地を時折り,鋳掛けゃ〜イカケ,の声が流れて行くのを聴いたご仁も多いと思うが,今は昔の物語となり,ラオ屋の甲高いピィー音と共にさっぱり聴くことも無い。この種の売り声も今や,ヤキ芋?,トゥフ〜,チリ紙交換,竹や〜さおだけ〜となりつつあり,それも拡声器の声に取って代わられた。…ところで,「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」(山田信哉・著),という本が今年のベストセラーと成っておますが何故だんねん,〜実際は会計学の本でござんした〜。
  さて,「研師」だがこれ等の者とも違い,町場でよく見る「包丁研ぎ」ともチト違う,ではどこがどう違うか,刀剣研師には人間国宝(無形文化財)も居て本来のジャンルは相当ランクの高い日本を代表する芸術家なのでござる。

 [研ぎ]とぎ=(1)刀を研ぐこと,研磨に同じ。(2)刀を研ぎ上げた状態。(3)研師の略。古くはトギには専ら「磨」の字を用いた。中国の剣を磨く法は水や砥石を使わず麻油を光膩石につけてゆっくり磨いたあと,鉄肌三両に木炭一両,水銀一銭を混ぜたものを,細かく砕く,その粉末を油布につけて根気よく磨く。磨き終わったら酥をつけて置くと永く錆び無い,とされていた。
  そのほかカイツブリの膏がよく用いられていた,中国人は和寇は日本刀に人間の血を塗ると思っており,唐順之の〈日本刀歌〉に「倭夷,刀ニ塗ルニ人ノ血ヲ用ウ」とある。

 我国でも「万葉集」には「剣刀,摩之心乎」とある。「今昔物語」には「腰刀ノ崎ヲ返〃能〃鋭ギ」,「本阿彌行状記」には「刀脇ざしの瑳」とある。

 後鳥羽上皇の御番鍛冶の打った太刀の研ぎを「古今銘尽」では,「刑」と「刑清」の二種に分けているが刑はクビキルという意味で磨くと云う意味は全く無い,それ以前の古剣書では全て「磨」の字を当てている,二種に分けたの著者が慶長頃の研磨法から
考えて勝手に分けたものであろう。
  「研師」刀の研ぎを業とする人。研ぎ・磨師・研ぎ屋・研工・研匠・磨工,とも云う。トギ師と「師」の字を付ける様になったのは江戸中期頃からで,その使用例は少なく,多くは研屋と呼んでいた。
  「大宝令」の規定では,兵士は大刀・刀子各一振りと砥石一個を自分で用意せよ,となっている,因って当時は研師という専門職はいなかった事になる。平安期になっても「延喜式」によれば鳥装横刀一振り仕上げるのに,荒砥磨ぎ・中磨き・螢がそれぞれ
一日とされて刀工の仕事の内に入れてある。(螢とは,輪郭を浮き立たせる光の意)。
  鎌倉初頭,後鳥羽上皇の御番鍛冶になると,「御太刀磨」の名で国弘・為貞の二名が研師としてはじめて登場してくる。研師の分業化は鎌倉期の終り南北朝期の初めとする説があるが,御番鍛冶(1200頃)の時には既にあったと見て間違いは無いだろう。


江戸初期の研師(狩野吉信筆 川越喜多院蔵)

  室町以降「研ぎ三家」と称し刀の研師として有名なのは,本阿弥・木屋・竹屋の三家。「本阿弥」は鑑定家であると共に研師でもあった。その始祖の本阿弥妙本は足利尊氏の刀剣奉行との説が有るが信じ難い。本阿弥同朋説から見れば古くても室町末期であろう。同家は江戸期になると幕府のお抱えになったが,名目は「御刀脇差目利究所」であって「御研師」ではなかった。
  「木屋」も同じく江戸幕府のお抱えだが,その肩書きは「御研師」となっていて同家の系図によれば,御番鍛冶の「御太刀磨」の国弘の子孫で,八代目の助保から「木屋」を名乗り,研ぎの名人で足利義満から「現米弐百石」を下だし置かれたとあるが,当時は貫高で土地を呉れて石高の現米ではなかったので,この一件だけでも木屋系図は後世の偽作は明らかである。しかし16代の常長の記述からは信用は出来る。
  「竹屋」は同じく幕府のお抱えの研師であるが,その系図に拠れば公家の竹屋家の祖の兼俊の最末弟に大隈介信俊という者が居て,その子孫が竹屋になったとあるが,公家の竹屋家の系図を見ても信俊という者はいないのだから,これも立派な詐称なのであろう。
  こうなると冒頭の,竹や〜さおだけ〜,と同類と云っても何ら可笑しくは無いで有る。実は「信俊」は尾張の研師で,宇都宮三河入道流の鑑定術を習得して,多くの秘伝書を発行している。後に徳川家康に召し抱えられて「御研師」として幕末まで存続していた。
  他に江戸幕府お抱えとして,角野・渋谷・市川の三軒が有った。そのうち角野寿見は「享保午記」「角野押形集」などを著わし,鑑定家としても有名であった。
  木屋・竹屋の一門は以上のお抱え研師以外でも,江戸・京都・大阪に分住しいわゆる町研ぎとして活躍した。その他にも元禄頃には,江戸に河井伝左衛門・左馬五兵衛・や越前屋兵衛,大阪に奥州勘兵衛・小川太郎左衛門・田中庄左衛門らの腕利きが大勢居た。尚,幕末になると,京都の研師の今村幸政は「本朝新刀一覧」を出し,「暦観剣志」という経眼した刀の記録を遺している。加州の金沢には俳人の研師の兄弟がいて,兄は
立花北枝といい,多くの俳書を世に出している,弟は立花牧童といい,兄より早世だが「草刈笛」という著書もある。
  刀工の中には専属の研師を抱えている者もいた,大慶直胤には安達定十郎成直と云う名人が付いていた。直胤が天保三年に伊勢で打って神宮に奉納した刀には安達成直磨と研ぎ銘が入れてあった。同じ頃の筑前の信国久国の刀にも「信国源久国 研師円蔵久種鞘師庄七直一」と在銘がある。円蔵久種はやはり久国の専属の研師だったのであろう。
  明治になってから宮内庁の御用は,まず本阿弥平十郎が召し出され,その没後はその門人の井上行造が拝命した。安達門下の石川周八も奉仕したが大正十三年に刀を持ったまま急死した後,その門人の吉川恒次郎氏と倅の賢太郎氏が宮内省御用を引き継いだ。
  本阿弥家で明治維新後も祖業を守り続けたのは,平十郎・琳雅父子,忠敬・天頼父子,くらいの者で,他は全て研磨から手を引いた。昭和五十年,無形文化財保持者に指定をされた本阿弥日州氏は琳雅の養子,小野光敬氏は忠敬系の光遜の門人である。
  尚,日州氏の実父・平井千葉氏は琳雅の門人で,大正から昭和にかけ名人と謳われた。
平(ひら)の研ぎ
刃艶の使い方   藤代龍哉氏(立て膝姿勢で研ぐ)

 「研ぎ台」研師が刀を研ぐときに座る台,砥船とも云う。檜や杉の板製で出来ていて広さは約一畳,前後から傾斜をつけて水が内側に設けられた樋の中に流れ込む様にする。
  水は水船と云う小判形の桶の中に入れ研ぎ桶に接して砥石を置く,砥ぐときは砥石が動かない様に,踏まえ木・獅子などと呼ばれる浅いS字形の木の先端で砥石を抑える。研師は床机に腰掛けて踏まえ木を右足で押さえて研ぐ。見学希望者はご一報下さい。
  備品としては,数種類の砥石・歪み直し,均るめ台・均るめ棒・横手板・磨き棒・楔・裂い手・小刀,等が必要である。川越の喜多院にある慶長の「職人儘絵」が有名である。

 「研ぎ代」刀を研いだ工賃。慶長二年(1597←関が原の3年前)土佐・長曽我部元親の定めによれば,研師,鍛冶などの職人の工賃は京枡で上手が七升・中位は五升・下手は三升の籾と定めた,仙台藩は上研ぎの刀は金三歩・脇差は金二歩一朱・中研ぎは金二歩。江戸は慶応年間(1865〜8)荒身の研代は金二両一分,明治四年になると二尺以上の刀は上鍛えなら二両〜三両二分,中鍛えは一両三分〜三両,下鍛え二両〜二両二分であった。価値観が違うので現在とは比較は出来ませんが,今は一寸で一万円見当でござんす。

 「研師役」江戸期に研師に課せられた賦役。江戸府内及び関八州のお抱え以外の研師は国役として幕府の要求により,矢の根の研を奉仕する義務があった。その命令は関八州研屋触頭の佐々木弥太郎から,各地の代官や領主・地頭に通知される事になっていた。しかし国役の無い時や有っても出られない時は,一年間で銭二五〇文から八〇〇文程を触頭の佐々木弥太郎に納めなければならなかった。

 恒例になりました正月の名刀飾りも無事に終わり,ご来社頂きました皆様には心より厚く御礼を申し上げます。刀の事で何か御座いましたら何時でもお問い合わせ下さい。


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