東京木材問屋協同組合


文苑 随想

歴 史 探 訪 No.39

鯖街道「熊川宿」(福井)

歴史 訪人



 最近,鹿・猿・猪等の動物が出没し,野菜・果物が食い荒らされ,大変困っていると農家の方が嘆いていた。通りがかりに聞いた話である。それほど両山に囲まれた山の中の街道で,通行人の取締りに有利な熊川番所があった所である,今でも番所跡や,熊川宿の伝統的建造物群が残っており,昔の町並が約1キロ以上続いていた。
  最近,「村おこし」の一端として,方々でいろいろな努力を重ねた結果,成功したという市町村も聞いているが,ここ「熊川宿」もその1つであろう。

 18世紀後半より,日本海若狭湾で大量の鯖が水上げされ,この鯖を若狭から京へと運ばれた事から,「鯖街道」と呼ばれるようになった若狭街道,この街道にある熊川宿は,1589年(天正17年),熊川が交通上・軍事上の要衝であったことから,秀吉に重用され,若狭の領主となった浅野長政は諸役免除の布告を発し,熊川を宿場町とした。以前は40戸ほどの小さな寒村が,以来200戸を超えるような町になっていった。そして熊川は,鯖の他に若狭の魚介類や日本海諸藩から入る物資の,京の都への中継拠点として,また多くの巡礼者の休憩や宿泊場所として発展を遂げたと資料に記してあった。

若狭熊川番所について
  中世末期には乱立していたという関所は,通行税を取るのを目的とした私的なものであったらしいが,それが江戸時代初めの「武家諸法度」(1635年,寛永12年)の改定により,「私関」は禁じられ,関所は幕藩体制下の政治的統治が第一の目的となった。
  そして,人の通行や物資の運搬に際し,幕府が関東を中心に主要街道に置いたものを「関所」(箱根関所跡は有名であるが),藩が置いたものを「番所」,あるいは「口留番所」といった。
  熊川宿では,寛永年間(1624〜1644)に酒井忠勝が設けたと「熊川村誌」に記されていると言う。
  番所での取調べについて,どんなことを聞いたのか等書かれている事を記して見ると,「どこに向かうのか」「どこの国から来たのか」「奉行は誰か」「いつ出立したか」「何人連れか」「同行の者がいるか」,女性であれば「手形は持っているか」「出して見せろ」などのやり取りがあったと言う。許可されると,「通れ」とは言わずに「通るであろう」と言ったとか。
  その他に番所では,通行人の取調べのほかに,移出入貨物への課税を行い,藩の経済に大きな貢献をしており,また時には移出入貨物の規制も行っていたと言う。

熊川宿の伝統的建造物群について
  熊川の町並の特徴は,街道に面して多様な形式の建物が建ち並んでいるところである,全く形式の異なる建物が混在しながらも,連続性をもった町並を形成している。この異なる建物群が他の宿場町と違う所で,興味があった。
  この熊川は国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。
  資料と見聞により記して見る。分かりにくいと思うが,一通り記して見よう。
  町屋の古いものは,二階の低い「厨子二階」で,新らしいものは二階の高い「本二階」と言う,二階を本二階として,一階と同じように使用するのは新らしい傾向である。「厨子二階」の正面には,格子の付いた窓があり「虫籠窓」と呼ばれている。屋根の上面がわずかに凸となる「起り」をもち,瓦は光沢のない若狭産のいぶし瓦が葺かれ,雪止瓦も使われている。また煙抜きのために「越屋根」も,所々に見られる。問屋であった家の正面入口の柱には,馬をつなぐ「駒つなぎ」という鉄の輪が今も残っていて見る事が出来た。また更に,隣家からの延焼を防ぐために「袖壁卯建」を持った建物もある。
  町並の特徴に「平入建物」「妻入建物」「真壁造」「塗込造」等の特徴があるが,説明だけでは分かりにくいと思う。建築家の方にはすぐ分かる造りだが説明して記して見る。「平入建物」とは,棟を街道に対して平行させた建物のことで,街道側では軒が真直ぐに見える。「妻入建物」とは棟を街道に対して直角に置く建物のことで,街道側では,屋根の三角の部分が見える。「真壁造」とは柱を見せる形式のことであり,「塗込造」とは,柱や軒などの木の部分を壁で隠してしまう形式である。
  こんな形式を分かっていて,建築物を見ると又,興味もわき面白い。

 熊川宿の町並を簡単に説明すると…。
  若狭の方から,国道303号を今津,朽木(京都)の方へ歩くと下の町・中の町・上ノ町となる。昔,京都に近い方を「上」としたのであろうか。
  下の町の入り口,街道の山手に小さな石碑がある。「与七の碑」である。
  今から270年程前,貧しい暮らしの与七とその妻は,自分たちは貧しいものを食べても,父母には御馳走を食べさせて孝行のかぎりを尽くした。時の小浜藩主は,与七の行いを聞くに及んで,米数俵を与えて,その志をほめたことが「若卅良民伝」にも出ていると記されており,その碑を見ることが出来る。
  この西口公園でバスを下り,この熊川宿街道をぶらぶら歩き始めた。しばらく歩くと,熊川駐在所があったが,休みなのか出張中なのか,お巡りさんはいなかった。それからすぐ右手に「得法寺」と言う寺があって,説明して記して見ると…。
  1570年(元亀元年)に織田信長は,秀吉と家康をも従え,越前朝倉義景を攻めるため,京都から熊川を通り敦賀へ向った。このとき徳川家康はこの「得法寺」に泊まったといわれ,このとき境内の松に腰をかけたのが,今も東の隅に残る松の木であるとされており,「家康腰かけの松」と呼ばれていると言う。面白い話ではありませんか。
  特に目についたのは,町並の家の前に用水路,水が流れており,清水で,流れが速い,そこに小さな水車が廻わり,この町の風物のようである。この中に里いもを入れ,いもあらいもかねていると言う。楽しい風景であった。また鯖街道らしく,至る所に「鯖ズシ」ありますと看板があるのもここ熊川らしい名物である。
  ついでに熊川宿のお土産を紹介すると…。
  「鯖寿司・焼き鯖寿司」,「焼き鯖」,「熊川こんにゃく」,「河内特産はちみつ」,「清酒・熊川宿」等があった。

 上記得法寺の場所は中の町にあり,この熊川宿の中心である。すぐ近くに,松木神社,日石神社等もあって,昔は賑やかな場所だったように思われる。又近くに「旧逸見勘兵衛家」がある。なかなか歴史的価値のある家と思われるので調べて見た。
  伊藤忠商事二代目社長となった伊藤竹之助翁の生家が,熊川を代表する町家の一つということで,主家,土蔵,庭が,平成7年1月に,町指定の文化財となったと言う。その後,3ヶ年をかけて,修理が行われ,熊川の新らしく快適な住居のあり様を提示すべくモデルハウスとして,生まれ変わったと言う。中に入る時間はなかったが,外見は旧家の重みが素晴らしい。

 ぶらぶら歩いて2時間は必要と思われる所,時間の関係上早めに上の町,道の駅「若狭熊川宿」に着いた。
「四季彩館」にて特産品,熊川宿展示館を見て,熊川宿を後にする。

「豊かな自然の中で,今も昔も変わりなく旅人を迎えてくれる宿場町」(地元誌)

「福井の熊川宿」 (平成17年11月21日)
若狭街道の熊川宿は
  京の都へ通ずる場所で
浅野長政にて作られた
  巡礼者・旅人の泊り場所
若狭湾の小浜から
  物資の通る 熊川は
  昔の家々立ち並び
番所もあった 古い町
  国の重要建築物があって
  多様な形式今もなを
鯖街道の 宿場町
  これが,村おこしの熊川宿
※古い建物が建並んでいる熊川宿。平入建物,妻入建物,塗込造等,いろいろの建物が見えるが見事な宿場らしい景観である。
※熊川番所。この番所は最近,村おこしの為に昔あった所に新らしく建築したので新らしいが,中に番人の人形が2体,通行人を見張っていた。 ※文中にもあるが,この水車は,いも洗い機で,結構,そこここで廻っていた。

※どうですこの大きい「ズワイガニ」全員に1パイずつ



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