東京木材問屋協同組合


文苑 随想

時代を見つめて No.57


トリノオリンピック
金メダリスト「荒川静香」
日本時間(平成18年2月24日早朝)

時見 青風

 「クールビューティ」と言われている「静香」の笑顔の姿が表彰台の中央で眩しく輝いた。
 普段,感情を余り表に出さないと言う「荒川静香」が,IOC会長から金メダルを受け取ると,白い歯がこぼれ,観客席に何度も手を振っていた。もちろん,テレビ観戦での状況であるが,彼女はアイスクリームが好きで良く食べると言うが,その時の笑みと同様に,まるで子供のような表情がとても素敵だったと記者はテレビで何回も言っていた。

 五歳の時に遊びに行く予定だったスキー場に雪がなく,スケートで我慢するようにと親に言われて行ったスケート場で,同年代の女の子の鮮やかで,見たことのない可愛らしいその子の衣装を見て,小さな「静香」の心が動かされたと言う。
 「どうしたら着られるの,私も着たい」と言って自分で自分のデザイン画を描いたと言う,世界で1つしかない,手作りの衣装を母が画の通りに縫い上げてくれた。
 そして,スケートを初めた静香は才能が開花して行くのである。
 小学校3年生の時,3回転ジャンプが跳べるまでになり,小さな心は,ひょっとして,オリンピックに出られるかも知れないと,七夕の短冊までに心をはせたと言う。
 1981年(昭和56年)12月29日生れで,神奈川県鎌倉市の出身だが,鎌倉市の鶴岡八幡宮で舞ったとされる静御前から名をもらったと言う。現在身長1m65cm,体重54キロ,血液型O型である。

 日本スケート連盟が長野・野辺山で始めた有望新人発掘合宿に参加した時,彼女はまだ10歳だったと言うが,力強いジャンプをし,美しい滑りを見せていた姿をテレビで見たが凄いと思った。
 荒川はその後,連盟の期待を一身に受けながら成長し,16歳で長野オリンピックに出場した。
 がしかし,もともと無欲な彼女は,何かが物足りなかった様だ。コーチ,振付師の人選は連盟がお膳立てし,曲も人に決めてもらい,自分の意思を打ち出すことは無かった様である。
 2002年のソルトレークオリンピックは出場を逃している。だが2004年の世界選手権では見事優勝した。しかし,2005年の世界選手権では精彩を欠き,9位に終わってしまった。
 その時,荒川の心には変化が生まれたと言う。「このままじゃ,やめられない」強く心に誓った。
 それからの彼女の練習は実に気合が入っていったと言う。
 それまで,連盟に選んでもらっていたロシア人女性コーチとのコンビ解消を自分の意思で決めた。SP,フリーの使用曲を年明けに変更する等の大きな賭けも,本人の決断だったと言う。
 そして「現役として最後になると思う」と覚悟を決めて臨んだ2度目のオリンピックに挑戦したのである。そして静香はダイナミックに華麗に舞い,跳んだ。
 この日に選んだ曲はプッチーニのオペラ「トゥーランドット」である。一昨年の世界選手権に勝った時と同じ曲である。トリノオリンピック開会式でも世界三大テノールの1人,ルチアーノ・パバロッティが熱唱していたと聞き,「運命を感じた」と話していたと言う。
 2004年の世界選手権優勝後,一度は引退を決意した彼女である。「まさかメダルが取れるとは思っていなかった。ただただ,びっくり。信じられない」
 喜びを語るテレビの中の笑顔は,金メダルよりも,眩しかった。と思うのは私だけではあるまい。
 とにかく最高の優勝であった。

 荒川静香の演技構成

   曲「トゥーランドット」

   3回転ルッツ−2回転ループ
     ↓
   3回転サルコー2回転トーループ
     ↓
   3回転フリップ
     ↓
   フライングキャメルスピン
     ↓
   スパイラル
     ↓
   ダブルアクセル(2回転半ジャンプ)
     ↓
   3回転ルッツ
     ↓
   2回転ループ
     ↓
   キャメルスピン
     ↓
   イナバウアー ※得点には反映されない
     ↓
   3回転サルコー2回転トーループ〜2回転ループ
     ↓
   足替えコンビネーションスピン
     ↓
   ストレートステップ
     ↓
   足替えコンビネーションスピン

※素人には分からない事ばかりだが,要するに,この「静香劇場」で世界を酔わし,
最高点で優勝した訳である。

 日本フィギュアオリンピック挑戦史を記して見る。

 日本にとってオリンピック挑戦70年での頂点を荒川が到達したのだが,このフィギュアの戦いの歴史は古い,別記の表で記して見たが,戦前の1936年(昭和11年)ガルミッシュパルテンキルヘン大会に始まる,年齢制限がなかったと言う当時,小学校6年12才の稲田悦子が10位で健闘したと記されているが,初の入賞は,1964年(昭和39年)インスブルック大会で,稲田がコーチで育てた福原美和が5位に入賞した記録がある,そして1980年(昭和55年)レークプラシッド大会では渡部絵美が6位だったと記されている。
 1988年(昭和63年)カルガリー大会では,伊藤みどりが5位に入賞した,1992年(平成4年)アルベールビル大会では,オリンピック女子初のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させて,伊藤みどりは初の銀メダルに輝いた。そして,冬季オリンピックの日本女子で初めての表彰台に立ったのである。
 そして1994年(平成6年)リレハンメル大会で佐藤有香が5位に入賞した。
 そして,2002年(平成14年)ソルトレークシティーで,村主章枝が5位と大変健闘した。
 そして,2006年(平成18年)トリノの今回の荒川静香の優勝である。

フィギュア日本女子のオリンピック最高成績
1936年(昭和11年) ガルミッシュ 稲田 悦子 10位
1960年(昭和35年) スクオーバレー 上野 純子 17位
1964年(昭和39年) インスブルック 福原 美和 5位
1968年(昭和43年) グルノーブル 大川久美子 8位
1972年(昭和47年) 札幌 山下 一美 10位
1976年(昭和51年) インスブルック 渡部 絵美 13位
1980年(昭和55年) レークプラシッド 渡部 絵美 6位
1984年(昭和59年) サラエボ 加藤 雅子 19位
1988年(昭和63年) カルガリー 伊藤みどり 5位
1992年(平成4年) アルベールビル 伊藤みどり 2位
1994年(平成6年) リレハンメル 佐藤 有香 5位
1998年(平成10年) 長野 荒川 静香 13位
2002年(平成14年) ソルトレーク 村主 章枝 5位
2006年(平成18年) トリノ 荒川 静香 優勝


※ガルミッシュはガルミッシュパルテンキルヘン。
※ソルトレークはソルトレークシティー
※この成績を見ても,優勝の大変さがよく分かる。

 2位のコーエン選手も,3位のスルツカヤ選手も,スケート靴を脚と同色の布で覆うスタイルであり,脚の線をきれいにみせる効果があるともいわれ,多くの選手がこの方式を採用していると言うが,細かい所まで気を使うというか,美しく見せる為の努力が行き届いているのだと感心である。
 そういえば,荒川静香の白い靴はとても新鮮に見えた。そして舞いの優雅さとスポーツの潔さがそこに凝縮して,まるで妖精の様にも見えた。
 テレビを見るだけの素人のことだからよく分かる訳も無いが,採点競技は合理的な基準と聞いても,微妙な所で人間の感情やひいきや国柄なども出るのではと思ったりする。

冬季オリンピックの日本女子メダリスト

1992年(平成4年) アルベールビル 銀 伊藤みどり フィギュア
                 銅 橋本 聖子 スピード1500メートル
1994年(平成6年) リレハンメル  銅 山本 宏美 スピード5000メートル
1998年(平成10年) 長野      金 里谷 多英 モーグル
                 銅 岡崎 朋美 スピード500メートル
2002年(平成14年)ソルトレーク  銅 里谷 多英 モーグル
2006年(平成18年) トリノ     金 荒川 静香 フィギュア


※荒川静香の金は光っている

 後日報道による記事を見ると小泉純一郎首相は24日夜,荒川静香選手に首相官邸から直接国際電話をかけ,「テレビで感動しながら応援していた。素晴らしかった。何もかも満点だった」と祝福の言葉を贈ったと言う。またこれに対し荒川選手は「ありがとうございます」と答えたと記されており,それに「ご両親も一番喜んでいるのではと思う」と首相の問いに「両親が喜んでいるテレビを見て感動しました」と答えたと言う。そのあと,総理は記者団に対し,「荒川選手の演技も超人的だが,選曲も良かった。又3人とも良かった」と言い,村主章枝,安藤美姫両選手の健闘も称えたと言う。
 政府は24日,荒川選手を表彰する方針を固めたらしい。オリンピックフィギュアスケートでアジア選手の金メダル獲得となったことを評価,総理大臣顕彰を軸に検討していると記されていた。
 総理大臣顕彰は昭和41年に創設,国の重要施策の遂行や学術・文化の振興に貢献し,特に顕著な功績があった場合に贈られる事になっている。これまでに29人,15団体が受賞されている。最近ではシドニーオリンピックの女子柔道で金メダルを獲得した谷亮子選手に贈られている。

2006年,トリノのメダル各国の獲得数
金獲得の順位
     金   銀  銅  計

1  ドイツ  9   10  5  24
2  オーストリア  8   6  5  19
3  ロシア  8   3  8  19
4  米国  7   8  5  20
5  カナダ  5   8  6  19
6  スイス  5   4  4  13
7  スウェーデン  5   2  4  11
8  韓国  4   3  1   8
9  イタリア  4   0  6  10
10  フランス  3   2  4   9
11  エストニア  3   0  0   3
12  ノルウェー  2   8  8  18
13  中国  2   3  4   9
14  オランダ  2   2  3   7
15  クロアチア  1   2  0   3
16  豪州  1   0  1   2
17  日本  1   0  0   1
18  フィンランド  0   3  3   6
19  チェコ  0   2  0   2
20  ベラルーシ  0   1  0   1
21  ブルガリア  0   1  0   1
22  英国  0   1  0   1
23  スロバキア  0   1  0   1
24  ウクライナ  0   0  2   2
25  ストビア  0   0  1   1

   合  計  70ケ   70ケ  70ケ  210ケ

※全体の合計が210ケ中,日本の1ケはあまりにも寂し過ぎるし悲しいが,英国の銀1ケは,又目立ちすぎる悪さである。

 大会前,日本選手団の遅塚研一団長が目標としたメダル数は,5個であったと言う。
 大会が始まってから仲々メダルが取れず,日本中をやきもきさせた。
 荒川選手の金メダルの快挙で,ホットしたが,メダル0だったとしたらと思うと寒気がする。
 もちろん,日本人の体力,気力が衰えた訳では無いと思う。夏冬の違いはあるにしても,2年前のアテネオリンピックでは,史上最高の37個ものメダルを獲得している。
 冬季オリンピックの史上最多メダル数は長野オリンピックの10個であった。その成功体験に酔って状況判断が甘かった所があるかも知れない。選手の強化,育成に手抜きがあったのではとも思う。
 一度どん底に落ちると,なにくそと頑張るのも日本人の良い所でもある。選手,そして関係者の奮起を促し,もう一度,「荒川静香」に良く頑張ったと賞賛の言葉を送りたい。

平成18年3月5日記



前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2005