東京木材問屋協同組合


文苑 随想

歴 史 探 訪 No.42

「水天宮」と言う神社

歴史 訪人

 日本橋蛎殻町の「水天宮」様は,近年,特に安産・子授けの神様として有名となり,全国から,お参りに来る人が多く,大変賑わっていると言う。特に「戌の日」には朝から,行列が出来る程の繁盛とか。
 ちょうど「水天宮」さまの近くのホテルで,ある会があって参加したが,この神社をとりまく街道の桜が満開で見事であった。「水天宮」さまもかなりの人出で賑わい,噂の人気ぶりが良く分かった。
 どうして「戌の日」が特に参拝客が多いか,後程くわしく記したいと思う。

 「水天宮」の由来,歴史について・・・。

 「水天宮」の発祥は,700年程前に,平清盛の血をひく安徳天皇は,源氏の厳しい追及に京都から西へ西へと逃げて行った。しかし,ついに壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で,源氏の軍船に取り囲まれ,祖母の二位の尼に抱かれ,母の建礼門院と共に波間に身を躍らせたのである。1185年,安徳天皇八歳の時であったと言う。
 お仕えしていた宮女の按察使局は,ひとり源氏の追っ手を逃れ,九州は筑後川に辿り着いた。局も壇ノ浦で共に入水しようとしたのだが,二位の尼に止められ,お前は生きて,われらの霊を慰めよ,との命を受けたのである。
 局は川のほとりに小さな祠を建て,安徳天皇とその一族の霊を慰める日々をおくったのである。これが今に続く「水天宮」の起源と伝えられていると言う。
 その後,有馬忠頼公により,現在の久留米市瀬下町に七千坪の敷地が寄進され,豪壮な社殿が造られたのである。
 安徳天皇は御年わずか八歳で,犠牲となって海中に沈まれたが,万民を救う尊い神慮によるとされ,大きな信仰を集めたのであった。

 江戸時代,大名には参勤交代が義務づけられていた。藩主は,領地を離れ,江戸詰をしなくてはならない。その間は「水天宮」にお参りができないので,第九代頼徳公は,久留米から分霊をして,江戸屋敷内(現在の港区にあった)に「水天宮」を祀ったのである。
 1818年(文政元年),「東京水天宮」のはじまりであった。
 本来,お殿様の屋敷神として祀られたもので,一般の人がお参りすることはできなかったのだが,江戸っ子たちの信仰は次第に高まり,塀越しに賽銭を投げ込む人が跡を絶たなかったと言い,遂に毎月五日に限り,屋敷が開放され,参拝が許されることになったのである。
 人々は,「情け深い」ことを感謝する際に,有馬家と水天宮を洒落て,「情けありまの水天宮」と口癖のように言ったようである。「恐れ入りやの鬼子母神」という言葉と共に,江戸の一種の流行語だったと言うが,あなたは知っていますか。聞いたことがありますか。
 1871年(明治4年),水天宮は屋敷の移転と共に赤坂に移り,さらに翌年,現在の日本橋蛎殻町に移転したと言う。
 その当時は,日本橋蛎殻町界隈は,人影もまばらな寂しい場所で,「水天宮」が移ると共に,商店が増え始め,大変な賑わいを見せるようになって行ったと記されている。

 「戌の日」と「水天宮」が安産に御利益があるという御腹帯の由来について記してみたい。
 御社殿の前に神様をお呼びするのに鳴らす鈴が,何鈴か下がっている。
 この鈴を鳴らすのに布地(晒し)の鈴紐が4〜5本下がっているが,これを「鈴乃緒」と呼ぶという。この「鈴乃緒」は月に一度新しい物と交換するらしい。
 その昔,この「鈴の緒」のおさがり(古くなったもの)を頂いた妊婦の方が腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから,人づたいにこの御利益が広まったと言う訳である。
 その後,毎日のように御妊婦の参拝が絶えなくなったので,「水天宮」としてはこの「鈴乃緒」を特に「戌の日」に安産の御祈願を済ませて毎日お頒けするようになったと言う。
 以上の由来から,水天宮の御腹帯を「鈴乃緒」と呼んで,売って(おわけして)いると言う訳だ。
 では何故に「戌の日」に安産の御祈祷をするかと言うと,古来よりお産が軽いと言われる「イヌ」様にあやかり「戌の日」に帯を締める習慣が古くからあり,それに因んでのことと言うから,案外,神仏も単純なことから,物事を決めたのかと不思議と言うか,軽率でもあるなあ〜とも思うが。
 信仰と言うのは,ものを信ずる事から始まるので,案外,こんなものかも知れない。

 文頭にも記したが,友人と参拝した平成18年4月1日は,染井吉野の桜が満開で春爛漫とはこの事かと感激したが,この「水天宮」様,1階が駐車場で,すべて神社は2階で町中の土地不足を象徴しているかのような建物(神社)である。
 明治五年11月青山から移転した当時は,地上にあり,幾多の建て替えもあった事だろうが,関東大震災で社殿が焼失した。そして昭和42年11月,現在の権現造りの社殿に復興されたと記されている。なかなか近代的なコンクリート造りの建物である。

 水天宮と神紋椿の花
 水天宮ご祭神の一柱,安徳天皇は,前にも記したが,壇ノ浦の戦いで入水,御年わずか八歳の生涯を果てたと歴史は記述されている。
 ところが,ここで崩御されたのではなく,宮女の按察使局に守られ,生きて筑後に潜幸されたという言い伝えが久留米にあると言う。
 筑後の豪族で平家の旧臣藤原種継の娘に,玉江という絶世の美女がいたとある。玉江は,天皇お付きの浄厚尼の薦めにより,日夜,天皇のお側にはべり,お仕えするようになった。
 世を忍ぶ御座所は筑後河畔のさぎ野原の千寿院というお寺,その境内に清水の井桁に寄り添う椿の花があった。清水に映って,とても優雅な風情をただよわしていたのである。
 天皇は,「椿は八千代を子と寿ぎ,井桁は深き契を宿すとかや」―椿の花はいつの世もやさしく愛でて映え,井桁はその愛をとこしえに深く育んでゆくと言われているが,いかがなものよ―と玉江への想いを秘めて仰せられた,お付きの浄厚尼も,ならばどうぞ玉椿をお手折りなさり幾久しく大切になさりませと申上げ,玉江姫と契られたとのことである。こうして,安徳天皇と玉江姫の恋物語の由縁から,椿の花が神紋となったと言う。
 「水天宮」さまの恋物語で椿の花が神紋となり,子授けの神となり,安産の神様となったのである。
 なんだか「水天宮」様は,人間様の誕生の原点であり,はげしい恋までされて,椿の神紋までのこされた。親しみやすい神様なのかも知れない。毎日たくさんの方が祈願され,無事安産で生れましたと,お礼参りにも来る。
 「子どもを授かる」ことは,先祖から受け継いだ「いのち」を次の世代に伝えていく,人間の営みでもある。家々の繁栄,世の中の発展の原点でもあるのだ。
 そのお産を助けてくれる神さまには,昔から多くの人びとが集まって来る。とにかく,おめでたい,ありがたいの気持ちがあっての事と言えそうである。
 母と子どもの無事を祈る気持は,昔も今も同じである。周辺には,近代的な高層ビルが立ち並んでいて,ビルの谷間と言う感もするが,それだけに近くて御利益を感じる人が多いのかも知れない。

ビルの谷間の「水天宮」さまの本殿正面である。昔は神仏混在であった。

「水天宮」さまの出た所の大通である。ビルの谷間と桜並木通り,4月1日は満開で実に見事であった。

(平成18年4月2日記)



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