東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(4)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 私が高校生の時,漢文の先生が,黒板に『素見』と書いて,「これを何と読むか知っているか」と仰いました。ところが,六十人程居た生徒のなかで読める者は一人も居りません。しばらくして「これは『ひやかし』と読むのだ」と先生は嬉しそうに云いました。
 その時は,随分不思議な言葉があるものだと思いましたが,偉い先生が仰ることだから,覚えていて損はないだろう,という程度の認識で,私の記憶装置の底に何十年も眠って居りました。社会に出て,色々遊びを覚える過程で,ある時,悠玄亭玉介という太鼓持ちの話を聞いておりましたら,およそ次のような内容でありました。「浅草の吉原に遊廓があって,小さな川を隔てて紙を作る工場があった。紙というのは原料を煮てほぐし,しばらくの間冷やしてから漉かなくてはならない。その間,小僧さん達は吉原へ行ってのぞいてから仕事に戻ったものだ。遊廓に上り込んでしまうと,冷え切ってしまうから紙にならない。ひととおり眺めて帰って来ると,丁度よい温になっていて,よい紙を漉くことができる。」そこまで聞いた時,私の記憶装置から何十年振りに蘇り,素見(ひやかし)の語源はこれだな,と一人で納得した次第であります。遊廓も紙工場も,とうの昔にたたまれて今はありませんが,紙漉橋という交差点の名称として残り,当時を偲ぶことができます。
 「素見」を教えて下さった学校の校歌の冒頭は「常磐の緑色映ゆる道灌山の学ぶ舎に」であります。通学当時は,近くに道灌山下という都電の停留所がありました。
 太田道灌は江戸城を築いた人で,室町時代,関東管領上杉氏の家臣で,墓は江戸城内にありました。江戸時代になって家康が入府した折,墓は日暮里駅前にある本行寺に移されました。
 『七重八重花は咲けども山吹は実の一つだに無きぞかなしき』
 東京都庁の庭に,江戸城を築いた太田道灌が狩衣姿で立ち,側に山吹の枝を捧げて跪いている少女と,二体の像があります。
 狩の途中で突然の雨に遭い,民家に寄った道灌に,応対に出て来た少女が上記の古歌に託して,蓑はありません,申訳けありません,という有名な故事に因んだ像であります。
 道灌は,少女が示した山吹の意味が理解できず,己を恥じて和歌の道に励んだと言われています。しかし,この故事は少し変だと思いませんか。道灌ほどの武将が狩りに出掛けるのですから,家来を大勢連れて行き,しかも雨具は当然用意して行く。若しない場合は,自ら借りに行かずに,家来が行くと思う。恐れ多くも,道灌様の逸話に異論をはさむ積りは毛頭ございません。道灌の人柄を偲ぶ人達が,道灌に相応しく,後から創作したものと思われ,勿論これは道灌の責任でもなく,これによって歴史が変わる程のこともないので,誰もめくじらを立てない,というのが私の見解であります。




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