東京木材問屋協同組合


文苑 随想

歴 史 探 訪 No.43

安房小湊「誕生寺」について

歴史 訪人

 この小湊は言うまでもなく,日蓮聖人誕生の地である事は多くの人の知る所だが,初めて行く私にはどんな寺なのか,想像も出来なかった。そして見てびっくりする程,大きな寺だった事を電話などで聞き想像した事を反省している。
 この日蓮聖人を良く思うかどうかは,それぞれ宗教心の問題であり,宗教そのものについては触れないが,行って見てびっくりした事は本音であった。
 18年4月のある日,日曜日であったが,雨のせいなのか,観光客は少なかった。我々の参拝後に白装束の団体さんがバス10台ぐらいだったろうか,下車し参道に並び行列して行く姿は,普段見られない異様な光景と雰囲気でびっくりした。

 街道から「大本山小湊誕生寺」の石碑のある比較的小さな総門をくぐり参道の店先を歩いて進むと,大きくて立派な仁王門があった。

比較的小さな総門,左側に石碑

参道の店先を進むと仁王門,宝永2年(1705年)建立した木造の仁王門

 この仁王門,県指定有形文化財で,5間三戸重層門白木造,宝永2年(1705)建立したもので,平成3年大改修したと言う。
 間口8間(約15メートル)ある。今から300年前のもので,すばらしいと言う外はないが,宝暦8年(1758)の大火の際,焼け残った当山最古の建物と言う。両側の仁王尊は上総の仏師松崎右京大夫法橋作として有名のようである。寺に行くと両側に鬼のような怖い顔をした仁王様を見かけることがよくあるが,それぞれに仁王様でも良く見ると顔が違うのが分かる。

楼上の「般若の面」雨降りで暗かったので良く撮れなかったが,良く見る限りでは,風雨にさらされ300年も経った木造の面は,悲しくて泣いている様にも見えた。大切に保存したいものだ。

 この仁王門をくぐって,振り向いて上を見ると楼上に「般若の面」を見ることが出来る。小さいので良く見えないがこの面の作は,日光の「ねむり猫」等の作と同じ「左甚五郎」と伝えられると記されているが,この「般若の面」のおかげで宝暦8年の大火の際,ここまで来た火を寄せつけなかったと言うから,この「仁王門」を火災から救った事になる。一見の価値のある面と思う。
 「般若の面」を背にしてしばらく行くと左側に「日蓮聖人御幼像」があって若々しい,はつらつとした幼ない頃の日蓮の容姿を見る事が出来る。昭和63年5月完成したと記されていたが,総高26メートルあってなかなか立派な像であった。

 そして正面の祖師堂がデェーンと配置され見事な佇まいである。
 日蓮聖人像を安置するこの祖師堂は49代目,日闡上人と言う人が10万人講によって,弘化3年(1846)3月に完成したと言う。今から160年前の事である。総欅造り雨落ち18間4面,約33メートル4方形の大きさで,高さ95尺約32メートルあり,堂内に52本の欅の丸柱が見事だが,この欅の用材は江戸城改築用として,今の仙台の伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中この地で遭難したので,これを譲り受けて建設されたと記されているが,素晴しい用材である。現在ではとても集められる材ではなく日本材では不可能である。
 平成3年,聖人像を修理する為,解体していたところ胎内から今から600数十年前の造立を記す貞治2年(1363)4代,日静上人筆の古文書と薬草が発見されたと言う。古文書には「生身の祖師」の名と宗祖誕生の時と所が記されていたと言う。
 聖人像を安置する御宮殿は明治皇室大奥の御寄進によるものとあり,堂内右側の天井に南部藩の忠臣相馬大作筆による天女の絵が描かれている。見事であった。堂内の天蓋等の仏具類は明治天皇御生母中山慶子一位局や大正天皇御生母柳原愛子一位局による寄進という。見事なもので豪華な仏具である。

祖師堂の両先端に付けてある世界一の鬼瓦。見るだけでも見事である。約21畳あると言う。

 事前に見学に行きたいと電話をしたら,今日は法事があって混み合っているので中の見学は出来ませんと断られた。
 だが当日,早めの時間でまだ法事の前だったので本堂の見学が出来,幸いであった。
 本堂内の貴重な宮殿や天井画,十界本尊木造等を拝見することが出来た。
 又,祖師堂の屋根に付いている世界一の鬼瓦の大きさの実物大が,シートで展示してあった。高さ4.16メートル,幅5.54メートル,重さ281tと言うからさすがに大きい。
  この誕生寺の近くに「鯛の浦」と言う港がある。「小湊妙の浦」とも言うので鯛がたくさん居るから,妙を鯛に変えたのかも知れないと思う。
  青く輝く海と緑あふれるこの安房小湊に今なお語り継がれていると言う3つの不思議な出来事「三奇瑞」である。
 それは,日蓮宗の開祖として名高い日蓮聖人が,誕生した時に起こったと言われている。

  神秘に彩られた3つの奇跡を記しておきたい。
1 . 誕生水
日蓮聖人が産声を上げた時,突然,家の庭先から清らかな清水が湧き出たのである。現在は誕生寺の境内の一角に清水を祀った誕生水の石柱を見ることが出来る。
2 . 蓮華ヶ渕
同じく誕生した時に近くの砂浜では,ときならぬ蓮華の花が海辺一帯に咲き誇ったと言う。以来,この砂浜は「蓮華ヶ渕」と呼ばれ蓮華の花のように美しく輝く砂を「五色砂」と呼ぶと言う。
3 . 鯛の出現
日蓮聖人の誕生を祝福するかの様に,海面近くにマダイが群をなして現れたと言う。この一帯に生息する鯛は,日蓮聖人の化身・分身として尊信され禁漁が守られている。大正11年(1922)には,国の天然記念物に指定され手厚く保護されていると言うのである。そもそも鯛は深海魚と言われ,普通海面に出て来る事はまず少ないと言われている。

 この鯛を見たい為,見る事を目的に小湊妙の浦遊覧船協業組合の船に乗り一周25分の観光遊覧に出た。船長に話を聞きながらの25分の時間であったが,まずある場所に船を止めた。そして,岩肌の見える場所があった。この場所が昔海辺で誕生寺があった場所であると言う。現在の誕生寺は3回移転の場所と言う。そして,岩小島の見える赤い鳥居の近くに行き,ターンして鯛のいる付近で船を止め,餌を投げた。見る見る内に集まった魚は多種多様であったが鯛の多さには,船上の人達全員が拍手喝采であった。その後,船は港に引返した。

 日蓮聖人の誕生の様子は上記に記したが,貞応元年(1222)2月16日に小湊片海の地,今は海の中,先程の船の止った所で生まれた。聖人は幼名を善日麿といい12歳までこの地で暮した。文永元年(1264)聖人は母梅菊の病を祈願し蘇生させたと記されている。延命した母梅菊はその記念として「菩薩荘厳堂」を創建した。その後,直弟子・日家上人が建治2年(1276)10月,聖人生家跡に一宇を建立し高光山日蓮誕生寺と称したのが当山の始まりと記されている。明応7年(1498)と元禄16年(1703)の2度の大地震と大津波の天災にあって前にも記したが,小湊の港の地形は大きく変わり,26代・日孝上人は水戸徳川家の外護を得て七堂伽藍を再興し,小湊誕生寺として現在地に建立したのである。しかし,これも前に記したが,宝暦8年(1758)大火により,仁王門を残し全山を焼失してしまった。これも前に記したが,49代・日闡上人が弘化3年(1846)現在の祖師堂を再建して平成4年,40万人講を発願し諸堂を復興したと言う。
 そして,日蓮大聖人御降誕800年に向って(平成33年(2021)2月16日)いろいろの事を準備している様である。

 日蓮聖人は大変偉い人で,800年近くなった今でも多くの人々に慕われ愛され,聖人の生き方に近づきたいと願う人達がこの誕生寺に祈願を続けて来ている。
 誕生寺とは,こんな所であった。

(平成18年5月14日記)



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