東京木材問屋協同組合


文苑 随想

時代を見つめて No.60


ワールドカップ(2006年6月 ドイツ大会)
「日本の敗退」,そして「中田英寿」の引退

時見 青風

 サッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ大会第14日目の6月22日(日本時間23日早朝)1次リーグF組の日本は前回優勝のブラジルに1-4で逆転負けした。2敗1分けの勝ち点1でF組最下位に終わり,2大会連続の決勝トーナメント進出はならなかったのである。
 世界は遠かった,力は遠く及ばず,夢舞台はあっけなく幕を閉じ,完敗に終ったのである。決勝トーナメント進出へのわずかな願いは届かず,世界の壁の高さを日本中の人々が痛感して,むなしく肩を落した。
 試合終了を告げるホイッスルが鳴ると,選手達は天を仰ぎ,精根尽き果てたように腰を落とした。スタンドに向かって手を叩き,挨拶する選手の横で,汗まみれの中田英寿選手だけが芝生のピッチで仰向けになったまま動かないその映像を見た。十数分後,立ち上がり,スタンドに向かって両手をあげて,観衆に応えた。新聞の写真を見ても良くわかったが,目は真っ赤で涙を浮かべた顔が実に印象的だった。
 そして,選手達は,早々とワールドカップ開催中にドイツから,帰国した。
 帰国した後,7月3日,「中田英寿」が引退を決意,引退メッセージを発表したのである。
 サッカー日本代表の中心選手として活躍し,ワールドカップ(W杯)のドイツ大会まで3大会連続出場した,「今後・プロの選手としてピッチに立つことはない」と言い切った。
 中田は「半年ほど前から,このドイツW杯を最後に約10年間過ごしたプロサッカー界から引退しようと決めていたのである。
 中田は,山梨・韮崎高校時代から注目を集め,1995年(平成7年)にJリーグの平塚(現湘南)入りし,1997年(平成9年)5月の韓国戦で日本代表にデビューして以来,代表として通算77試合に出場した。攻守の要となるポジションで日本のエースとなったのである。
 前にも記したがW杯では日本が初出場した,1998年(平成10年)フランス大会以降,2002年(平成14年)日韓大会と2006年(平成18年)今年のドイツ大会の3大会で日本が戦った計10試合にただ一人,全試合に出場した国際的な選手であった。
 クラブでは1998年(平成10年)から欧州に進出,イタリア,イングランドのクラブチームでプレーし,本場で日本選手の評価を高めたのは事実である。そして文字通り「日本代表の顔」であった。
 それでは,2006年(平成18年7月3日)午後10時,中田が引退メッセージを報じた文面を「NAKATA・NET」から,抜粋してみたい。

 『俺が「サッカー」という旅に出てからおよそ20年の月日が経った。
 8歳の冬,寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。
 オリンピック代表,日本代表へも招聘され世界中のあらゆる場所でいくつものゲームを戦った。
 もちろん平穏で楽しいことだけだったわけではない。
 それ故に,与えられたことすべてが俺にとって素晴らしい"経験"となり,"糧"となり自分を成長させてくれた。
 半年ほど前からこのドイツワールドカップを最後に約10年間過ごしたプロサッカー界から引退しようと決めていた。
 何か特別な出来事があったからではない。その理由もひとつではない。
 今言えることは,プロサッカーという旅から卒業し,"新たな自分"探しの旅に出たい。
 そう思ったからだった。
 プロになって以来,「サッカー,好きですか?」と問われても「好きだよ」とは素直に言えない自分がいた。
 責任を負って戦うことの尊さに,大きな感動を覚えながらも子供のころに持っていたボールに対する瑞々しい感情は失われていった。
 けれど,プロとして最後のゲームになった6月22日のブラジル戦の後,サッカーを愛してやまない自分が確かにいることが分った。
 自分でも予想していなかったほどに,心の底からこみ上げてきた大きな感情。
 それは,傷つけないようにと胸の奥に押し込めてきたサッカーへの思い。
 厚い壁を築くようにして守ってきた気持ちだった。
 これまでは,周りのいろんな状況からそれを守る為ある時はまるで感情が無いかのように無機的に,またある時はあえて無愛想に振舞った。
 しかし最後の最後,俺の心に存在した壁は崩れすべてが一気にあふれ出した。
 ブラジル戦の後,最後の芝生の感触を心に刻みつつ込み上げてきた気持ちを落ち着かせたのだが,最後にスタンドのサポーターへ挨拶をした時,もう一度その感情がふき上がってきた。
 そして思った。
 どこの国のどんなスタジアムにもやってきて声をからし全身全霊で応援してくれたファン。
 世界各国のどのピッチにいても聞こえてきた「NAKATA」の声援。
 本当にみんながいたからこそ,10年もの長い旅を続けてこられたんだ,と-。
 俺は今大会,日本代表の可能性はかなり大きいものと感じていた。
 今の日本代表選手個人の技術レベルは本当に高く,その上スピードもある。
 ただひとつ残念だったのは,自分達の実力を100%出す術を知らなかったこと。
 それにどうにか気づいてもらおうと俺なりに4年間やってきた。
 時には励まし,時には怒鳴り,時には相手を怒らせてしまったこともあった。
 だが,メンバーには最後まで上手に伝えることは出来なかった。
 ワールドカップがこのような結果に終わってしまい,申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 けれどみんなからのメールをすべて読んで俺が伝えたかった何か,日本代表に必要だと思った何か,それをたくさんの人が理解してくれたんだと知った。
 それが分った今,プロになってからの俺の"姿勢"は間違っていなかったと自信を持って言える。
 今後,プロの選手としてピッチに立つことはないけれどサッカーをやめることは絶対にないだろう。
 旅先の路地で,草むらで,小さなグランドで,誰かと言葉を交わす代わりにボールをけるだろう。
 子供の頃のみずみずしい気持ちを持って-。』

 「サッカー」と言う旅に出て20年,新たな自分探しの又旅に出ると言う「中田英寿」,この文面に,中田の気持,心情,感情が,とてもよく表現されているし,理解出来る。
 私はサッカーの事については,素人だが,ワールドカップでは残念ながら負けたが,日本サッカーの為に尽力した「中田」に,"10年間御苦労様でした"とエールを送りたい。

■中田英寿の主な経歴■
   
1977年 1月 ( 0歳) 甲府市に生まれる
 85年12月 ( 8歳) 地元のサッカースポーツ少年団に入団,サッカーを始める
 91年 5月 (14歳) 甲府北中3年でU15代表入り
 92年 4月 (15歳) 県立韮崎高校入学,サッカー部に入部
 93年 8月 (16歳) U17世界選手権(日本)でベスト8
 95年 1月 (18歳) Jリーグ11クラブからオファーを受け,平塚入団
    4月 U20世界選手権(カタール)でベスト8
 96年 7月 (19歳) アトランタ五輪出場
 97年 5月 (20歳) 対韓国戦でフル代表デビュー
 98年 6月 (21歳) W杯フランス大会出場,1次リーグ敗退
    8月 セリエA・ペルージャ移籍
    9月 セリエA開幕戦,対ユベントス戦で2ゴールの鮮烈デビュー
2000年 1月 (23歳) セリエA・ローマ移籍
    9月 シドニー五輪出場
 01年 6月 (24歳) コンフェデ杯準優勝,ローマがリーグ優勝
    7月 セリエA・パルマ移籍
 02年 6月 (25歳) W杯日韓大会出場,ベスト16
 04年 1月 (27歳) セリエA・ボローニャにレンタル移籍
    7月 セリエA・フィオレンティナ移籍
 05年 9月 (28歳) プレミアリーグ・ボルトンにレンタル移籍
 06年 6月 (29歳) W杯ドイツ大会出場,1次リーグ敗退
    7月 現役引退を表明

※サッカーワールドカップ(W杯)ドイツ大会最終日の日本時間,平成18年7月10日,ドイツ五輪スタジアムで6万9000人の観衆を集めて,イタリア?フランスの決勝を行い,イタリアが1-1からPK戦を5-3で制して1982年,スペイン大会以来6大会ぶり4度目の優勝を飾った。4度優勝は最多5勝のブラジルに次いで単独2位と言う事である。

(平成18年7月9日記)



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