東京木材問屋協同組合


文苑 随想

時代を見つめて No.61


「橋本龍太郎」・元若手政治家の死去

時見 青風

 橋本龍太郎・小渕恵三という2人の元首相がそろって初当選したのは,1963年(昭和38年)11月21日,第30回総選挙の時であった。翌日の22日,アメリカのケネディ大統領が暗殺された時でもある。
 両者共に父親の後を継いだ2世議員とはいえ,ともに26歳という若い政治家の登場で,世間をアット思わせ,度肝を抜かれた出来事だったと思う。
 東京オリンピックの前年で何かとせわしない頃で,高度経済成長が続く時代でもあった。橋本龍太郎は,慶大卒後,呉羽紡績(現東洋紡)勤務を経て元厚相の父,龍伍氏の死去に伴い,衆院旧岡山2区から出馬し,上記のごとく26歳で初当選したのである。
 初当選した時の抱負に,「若い人にも魅力のある自民党にするためにがんばりたい」と言ったと新聞等に載っていた。
 この時代,政界では戦後復興を担ってきた古い政治家たちが,そろそろ姿を消して,世代交代も含め,時代の変化を鮮烈に印象づける出来事だったようである。
 父の龍伍氏の吉田茂元首相を支えた「吉田十三人衆」の一人で,足が不自由だったこともあり,生涯を社会保障政策に取り組んだ政治家だったと言う。
 そして橋本氏は,「父には,政治は弱い人間を助けるためにある,と教えられた」と常々語っていたと記されていた。
 橋本龍太郎氏が次代を担うエースに躍り出たきっかけは,1988年(昭和63年)から,1989年(平成元年)にかけて吹き荒れたリクルート事件の時代であった。党内実力者が相次いで疑惑にさらされ,この時,橋本氏は表舞台に踊り出ることになったのである。
 自民党内では「竹下派七奉行」の一人として頭角を現し,党幹事長,蔵相,通産相,運輸相などを歴任した。
 41歳で初入閣し,51歳の若さで自民党幹事長をつとめた事は,自民党の「若返り」に大きな役割を果したことは間違いない事実であった。
 実力派の橋本氏は「政策通」としての評価も高く,社会保障分野などで大きな影響力を発揮したようである。
 私的なことに触れて見ると,日本山岳会に所属する山男としても知られていた。「ヒマラヤ登山に挑戦した経歴を持つ首相」「たばこを持つ姿がセクシーな首相」などなど,米月刊誌に紹介されたこともある。党本部の売店では「龍ちゃんプリクラ」が"ヒット商品"になった過去もあった。剣道は教士六段の腕前で「政界一の剣豪」だったようで,背筋をピンと伸ばして歩く姿をテレビ等でよく見られた。又登山の上記の通りだが写真,スキーとかなりの腕前で,実に現代風に見えた。「艶のあるオールバックの髪形」をトレードマークに,「橋龍」の愛称で呼ばれた橋本龍太郎元首相,「龍さま」と中高年の女性から呼ばれ,テレビ栄えのする(あの顔を見ると身ぶるいすると言う人もいたが…)新らしいタイプの首相と評された事もあった。
 自民,社会,新党さきがけ,3党連立政権村山首相の下,1995年(平成7年)自民党総裁になった。そして,1996年(平成8年)村山富市首相退陣を受けて,首相に就任したのである。
 首相在任中は行政改革,財政構造改革などの「六大改革」を推進した。1997年(平成9年)4月には消費税率を3%から現行の5%に引き上げた。1996年(平成8年)には沖縄の米軍普天間基地の返還で米政府と合意した。ロシアのエリツィン大統領(当時)と個人的な信頼関係を築き,北方領土問題の解決に向け尽力もした。
 財政再建路線が景気後退を招いたと批判も浴び,1998年(平成10年)7月の参院選では自民党が惨敗,責任をとって退陣した。2001年(平成13年)の総裁選で再登板を目指し立候補したが,小泉純一郎氏に敗れている。
 2004年(平成16年)には日本歯科医師連盟から1億円ヤミ献金事件が発覚し,自民党旧橋本派「平成研究会」(平成研,現津島派)会長を辞任,派閥も退会し,これまでの輝かしい経歴が暗転したのであった。
 26歳の若さで初当選してから,佐藤派から田中派を経て,そして竹下派と自民党の主流派を歩き,古い派閥政治にどっぷりつかって来たせいかも知れない。
 私の会に五月会と言う若手経営者(当時)が毎月一回勉強会を開いている会がある。もう40年以上になるが,その会に橋本氏を講師に来て頂いた事があった。
 それ以降,大きな大会には,必ずと言っていい程,メッセージと花束が届いた。
 そんな関係で,期待していただけに残念だが,それも政治家としての身の処し方の難しさかも知れないと思う。
 2005年(平成17年)10月,東京地裁。
 橋本氏は元官房長官,村岡兼造被告に一礼し証言台に立った。16年12月の衆院政治倫理審査会と同様に「覚えていない」と繰り返し,裁判長から苦言を呈された場面もあったと言う。
 平成18年の3月,村岡被告に無罪判決が言い渡された際は,日中友好7団体の代表団の団長として訪問中であった。

 2005年(平成17年)8月の衆院解散を機に政界を引退した橋本氏は18年6月4日に腹痛を訴え入院し,腸管虚血と診断され,大腸のほとんどと小腸の一部を切除する大手術を受けていた。
 6月5日の手術後は意識が戻らず,妻の久美子さんや弟の大二郎高知県知事夫妻,5人の子供らが囲む中,息を引き取ったと言う。
 診断された「腸管虚血」は腸に突然血液が回らなくなる病気と言う。原因解明のため病理解剖することを遺族たちは同意したと記されている。
 病院で記者会見した大二郎知事は「兄は医療行政に力を入れてきた。原因不明の病気を最後に患い,自身の命をささげることで医療の進歩に貢献したかったはず」と目を潤ませたと言う。
 二男の岳氏が衆院議員だが,予定されていた講演会を「おれがやらなきゃ」と手術直前に言ったのが最後の言葉だったと震わせて言ったと言う新聞記事を見た。

 小泉純一郎現首相のことについて
 橋本氏死去された日,米国を公式訪問していた1日の夕,政府専用機で羽田空港に到着した,首相は,橋本氏の死去の一報を受け,空港から直接東京都港区の橋本氏の自宅を弔問したと言う。
 首相はこの後,「優れた指導者の訃報に接し,悲しみの念を禁じ得ない。心から哀悼の意を表します」とする談話を発表した。
 そして「橋本氏はバブル崩壊後の深刻な経済状況下で首相の重責を担われ,中央省庁再編や金融システム安定化などに尽力された。首脳外交でも,日米関係の再構築やロシアとの関係改善などで卓越したリーダーシップを発揮してこられた」と橋本氏の業績をたたえたと記されている。

 橋本氏は幼くして実母を失くした,日本ユニセフ協会の屋台骨でもあった継母の正さんに孝養を尽くした話は広く知られている。首相在任中も,長期の闘病生活を送っていた母親の見舞いを欠かさず,病院のベッドの傍らで本を読むのを一番の息抜きにしていたと言う。政治の事と宗教の事には深くかかわる事は避けて来たし,記事にも書いていない。
 しかし,少々関わりのあった政治家がこんな結末で世を逝った。まだまだ期待していただけに残念である。
 我々平民の人生もそうだが,それにしても政治家の身の処し方の難しさが分かるような気がする。

 いずれにせよ,冒頭に記した小渕恵三元総理も,1997年(平成9年)橋本内閣の時,外務大臣を歴任,1998年(平成8年),自民党第18代総裁に就任し,第84代内閣総理大臣に就任した時と同じような道を歩いてきた小渕氏もすでに6年前に亡くなり,そしてここに一時代を築いた若手政治家として活躍した橋本龍太郎氏が逝ってしまった。
 本当に「光陰矢の如し」と言う外はない。
 2006年(平成18年)7月1日午後2時,多臓器不全,敗血症性ショックのため国立国際医療センターにて死去。橋本龍太郎氏,68歳の生涯であった。

※1995年(平成7年)1月、首相官邸にて

 

(平成18年8月6日記)



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