東京木材問屋協同組合


文苑 随想

紀行文


ルネッサンスの都の旅(下)
ミケランジェロを追慕して−

元(株)カクマル役員
酒井 利勝

目  次
   
IV ピザ VII ミラノ
V ラベンナ   1 ミラノ大聖堂
VI ヴェネツィア   2 ビットリオ・エマヌエーレ二世
  1 大運河    アーケード
  2 サン・マルコ広場   3 スカラ座
  3 サン・マルコ寺院   4 最後の晩餐
  4 ドゥカーレ宮殿   5 ロンダニニのピエタ
  5 ホテル・ダニエリ  
  6 アカデミア美術館  

IV ピサ
 フィレンツェ,ウフィツィ美術館の入場順番の都合で,午前中に済ます予定の「ピサ」行きが午後に変更された。
 ピサといえば斜塔・市壁西北部サンタ・マリア門をくぐると,眼前のドゥオモ広場を圧する洗礼堂。ドゥオモ・斜塔の"三点セット"その壮麗さに目を見張る。
 斜塔は,前回の時は修理中,今回は順番待ちの時間が長過ぎて到底間に合わない。八層の円塔の周囲をめぐる,その西側の柱の一本ずつがくっきりと夕陽の影をうつす情景を間近く望んで塔を振り仰ぐばかりである。
 ドゥオモは1068年から50年かかって建てられた。ガリレオが振子の原理を発見したという「ガリレオのランプ」(青銅製)が,説教台近くの天井にかかっている。
 前述の「シエナ」といい,このピサと申し,後述の「ラベンナ」も然り。これらの建物をつくりあげた12・13世紀にフィレンツェ,ヴェネツィア等と地中海の覇を競い合った上記三都市国家の富,経済力を更めて思わしめられる。

V ラベンナ
 世界で最も美しいモザイク藝術の宝庫と称される。5世紀から6世紀にかけてラベンナの黄金時代,初期キリスト教のモザイク宗教画が,いまも市内に残る多くの教会のドーム,壁などを飾る。
 402年,西ローマ帝国の首都はゲルマンの侵入を避けてミラノからラベンナに移された。540年,東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝も,この町を東方への入口として重視した。ラベンナの町はアドリヤ海に面する広大な平野のただなかにあり,ローマ以来歩んできた山坂に富む町々と異なり,独得な明るく開放的なふんい気を持つ。教会はモザイク絵画こそ美しいが,その規模はこれまで見てきた大聖堂・教会とは全く趣きを異にして,何れも小さく素朴な建物だ。
 「ナン・ビターレ教会」 6世紀半ばの建築。八角形の堂の上に相似形のドームが乗っている。モザイクは旧約聖書の物語りを描く。キリストの表情も,堂内のつくりも東方的なエキゾティシズムを漂わせる。
 「ガッラ・プラティア廟」 サン・ビターレ教会の裏手,外見は住宅のような簡素さだが,内部は青を基調とした実に美しいモザイクの数々が並ぶ。
 「サンタ・ポリナーレ・インクラッセ教会」 "キリストの変容"を描いた一連のモザイクが美しく,会堂を出ると広野を渡って,アドリヤ海へ吹き抜ける風が爽かだ。
 それぞれのモザイク像は,かのヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂内のけんらんたる金の装飾にかこまれた壮麗なモザイク像と異なり,モザイクだけの,むしろ素朴な然し純粋に美しい,初期キリスト教信者たちの敬虔ささえ思わせるやさしい像の数々だった。

 ダンテ(1265?1321)。彼の最大の傑作"神曲"その第三部天堂篇は,その生涯の最後の7年間で完成された。
 ダンテはフィレンツェにおける華やかな文筆・政治活動の後,ついにフィレンツェ市に容れられず,1302年以降は彼の放浪生活が始まった。そして最後の4年間を妻子と共に,ラベンナの領主グイ・ド・ボレンタのもとで暮した。
 ダンテが永眠したのは1321年,内乱のためその墓碑建設は遅れ,1380年に完成した。やや町外れに近く,それほど広くはない木立の中にあり,隣接する記念碑と共に清楚な,独立した墓域である。その命日には,彼の生家が大切に保存されているフィレンツェ市から毎年香華代が届けられてくることは,前回展墓の際説明があった。
 然し今回は,殆どのガイドブックにその墓域のことは記載がなく,土地のガイドも,添乗員も全くそれに觸れることがなかったのはどういうことなのだろう。
  岩波書店発行の月刊誌「図書」には,2005年7月以降,イタリヤ文学の泰斗河島英照氏の新訳によって,ダンテの「神曲」がいまなお連載中である。

VI ヴェネツィア
 ラベンナの,サンタ・ポリナーレ・インクラッセ教会のすぐ近くのレストランで,ランチを頂きヴェネツィアへ向う。ロンバルディヤの沃野をひた走りに走ること約二時間,バスは本土?ヴェネツィヤ島間のリベルタ橋(約4km)を渡ってバスターミナルのローマ広場へ入る。ヴェネツィヤ島内は車の乗入れ禁止である。

 ヴェネツィアは,アドリヤ海の奥,ヴェネツィヤ湾の西岸に生じた大きな潟(ラグーナという)の中心に集まる118の島々(リアルト諸島)の上に建てられた海上都市である。
 島々は400の橋と,大小160の運河によって結び合わされている海上都市でもある。
 水の都。アドリヤ海の眞珠。かつて地中海を支配した欧州最強のヴェネツィヤ共和国は,キリスト教文明と東方ビザンチン文明の融合の中に大輪の花を咲かせた。過去の残照は運河と広場と小路にひっそりと息づき,年代もののぶどう酒のように芳醇な香りを放っている。然し,ヴェネツィアは水の侵オによって緩やかに沈みつつある。

 「ヴェネツィアは華麗と頽廃のなかに浮かぶ"死の都"である。事実,ヴェネツィアの美はただの都会美ではない。都会全体が水の上に浮かんでいるという単純な事実によってもヴェネツィアは何か眩暈のようなものをつねにわれわれに与える。
 17世紀初頭のペストの流行で,この都市の人口が20%喪われたとき,その最終的救済を神に感謝して建てたサンタ・マリヤ・デラ・サルーテ聖堂の土台の為に百万本の杭が,遠浅の潟(ラグーナ)の上に打ちこまれたという事実。それはヴェネツィアの華美壮麗な外観を維持する酔狂な土木工事ではなく,この遠浅の潟を生活の條件として選んだ人々の意志が,殆ど厳肅な儀式としてきびしい日々の営みを引き受けようとしたことの証據である。
 ヴェネツィアは"美"のために水を満たしたのではない。生きるギリギリの條件として"水"が選ばれたのだ。"水"との戦いの中で"美"がおまけとして現前したに過ぎない。」?辻 邦生。エリオ・チォル写眞集"ヴェネツィア"の序文より?

 然り。西暦452年,ヴェネツィア人は襲いくるフン族を避けて,葦が一面に繁っているだけの沼沢地帯(ラグーナ)に移った。まず何より先に住居を造る木材を持ってゆかねばならなかった。それからほぼ二世紀の間,ラグーナに移り住んだ人々には,比較的平穏な歳月が過ぎていった。
 西暦800年,こんどはフランク人が攻めこんできた。本土からいくらか遠く離れたラグーナの中央,現在のヴェネツィアのほぼ中心を形造っているリアルト附近まで更に移るしかなかった。リアルトは,当時は漁師が住むだけの,いくつかの小さな島の集りに過ぎなかった。
 何百万本という杭を打ち,石材で両岸を固め,160余の運河を通し,400余の橋をかけ,ヴェネチア人は本格的で恒久的な国造りに着手した。こうしてヴェネチィアは,われわれが現在見る場所に建設されることになった。20世紀に入って鉄道が敷かれ,本土とそれで繋がれるまで,どこへ行くにも船で行くしかない,海の上の都として。
 ヴェネツィアの運河は,船を通すためではなく,水を通すためにつくられたものである。
 もちろん,船も通る。しかし,それは結果であって,目的は,あくまでも水を通すことにあったのである。
 「ラグーナ・ヴィーヴァ?生きている潟」は,この沼沢地帯に住みつこうとするかぎり,ヴェネツィア人にとっては死活の問題であった。
 もうひとつのヴェネツィアの運河の特色は,陸地を掘ってつくった水路ではないということである。それも,いくつかはある。しかし,ほとんどの運河は,島と島の間,干潟と干潟の間の水の流れている部分を,その最も深いところだけ残し,両岸を木の杭や石材で固めてつくったものなのである。曲りくねっている運河の多いのは,このためである。水路の方が先にあったのだ。

 「ヴェネツィアに住む人々は,独得な人格に必然的に変らざるをえなかったであろう。ヴェネツィアが,他のどこの都とも比較しようのない都であるということに似て」
(ゲーテ)
 ゲーテは,1797年にヴェネツィア共和国がナポレオンに攻められて崩壊する十年前,ヴェネツィアを訪れた。国づくりも人づくりもすでにずっと以前に終って,それが衰亡の極に達しようという頃である。しかし,ヴェネツィアは,肉体の眼でなく知性の眼で見るべきだと言った彼は,こんなことも書き残した。
 「わたしを取りかこんでいるものすべては,高貴さに満ちている。これらは,ひとつにまとまった人間の努力によって生れた偉大で尊敬を受けるに値する作品である。この見事な記念碑は,ある一人の君主のためのものではない。全民族の記念碑なのである。」

 たしかに,ヴェネツィアは,共和国の国民すべての努力の賜物である。ヴェネツィア共和国ほどアンティ・ヒーローに徹した国を,私は他に知らない。?塩野七生"海の都の物語"より?

  1.大運河
 ヴェネツィアの町を逆S字形に2分するこの運河は,全長3800m,幅は30m?70m,深さ5?6m。西側には12世紀から18世紀までの約200の大理石造りの,商人,旧貴族邸が並び,その多くは1300年代から1400年代に建てられた美しいゴシック様式のものである。ここから45の小運河が枝分れしてさらに細分化し,全市を網の目のようにつないでいる。
 大運河には三つの橋がかかっている。本土側のサンタルチア駅とヴェネツィア島をつなぐ駅前橋,ほぼ中間に有名なリアルト橋,サン・マルコ入江に近い木橋アカデミア橋である。
 ヴェネツィアへ入るには,駐車場ローマ広場から否応なしに船に乗って大運河を航し,それぞれの行先へ向うしかない。
 エトランゼーは,まず,大運河の両側にびっしりと展開する華麗なヴェネツィア・ゴシック様式の建物との応接に目を奪われる。
 駅前橋を過ぎてほどなく右側にバロック様式の建物で,名作として名高い「ペーサロ館」がある。町の大富豪ペーサロ家によって1700年頃完成した。少し先の反対側にあるのが有名な「カ・ドーロ(黄金の館)」である。1440年の建築当時には,運河に面した正面にはすべて金箔が飾られていた。サン・マルコ広場のドカーレ宮殿とともにヴェネツィア・ゴシック建築の代表作とされる。華麗そのものだ。大運河が右に大きくカーヴする地点にかかるのは「リアルト橋」1602年に架設された。長さ48m,幅22m,大きく反った太鼓橋にアーチが美しく,有屋の橋上にはみやげものを賣る店が並んでいる。
 橋の少し先の左側に四つの建物からなる「モチェニーゴ館」がある。1818年,バイロンが住んだ。アカデミア橋が見えてくるすぐ左側にあるのは1400年代のゴシック建築「ジェスティニアン館」ワグナーが「トリスタンとイゾルデ」を作曲(1858年)した場所として知られる。
 1934年にかけられた木橋「アカデミア橋をくぐれば,壮大なクーポラを有つサンタ・マリヤ・デラ・サルーテ教会を右手に仰ぎながら大運河はサン・マルコ入江へ注ぐ。

 ヴェネツィアへ来たらやはりゴンドラは欠かせない。三度ヴェネツィアを訪ね,三度ゴンドラに乗った。夜であり,昼であり,今回は朝だった。
 すべての船が黒塗りで細い舳を高く掲げている。6人乗りのゴンドラにはアコーディオンをかかえた唄い手も乗っている。
 ヴェネツィアの水を存分に味わえるのはやはりゴンドラである。手をのばせばそこに"水"がある。
 まずは狭い水路をゆっくりと進む。両岸の民家の壁に唄声がひびく。見上げる四階の窓には赤い薔薇の花が飾られていた。濯ぎものが垂れ下がるのも狭い運河の風情だ。ゴンドラは細い水路をいく曲りして,やがて大運河へ出る。両岸の民家の壁に仕切られた細く,狭い空ではなく,大運河の広く青い空がひろがる。歌手と一緒に六人が「サンタルチア」を合唱する歓び,楽しさは,ライン下りで船客が「ローレライ」を合唱するそれとは全く世界が異なる。ヴェネツィアの明るく,妖しい"水"の輝きである。

  2.サン・マルコ広場
 サン・マルコ広場は,ヴェネツィヤのシムボルというよりはむしろ,ヴェネツィヤそのものの代名詞になっている。事実,この広場を囲む建物は,いずれをとっても宗教,政治,財政,文化の上において,重要な役割を持っていたものばかりである。かつてはヴェネツィア共和国の,現在は町の守護聖人である聖マルコの遺骨をまつるサン・マルコ寺院,ドージェ(首長)の居館であり,政治・司法の中枢機関であったパラッツオ・ドゥカーレ(ドゥカーレ宮殿),サン・マルコ奉行の居館,旧図書館,造幣局,牢獄,市民に就業時間を告げていた鐘楼など,いずれも町の歴史と生活に密接な関係があるものばかりである。
 広場は東側正面にサン・マルコ大寺院。西,北,南の三方向にアーケード商店街つきの長大な旧奉行館と旧図書館。広場の南(奥手)をふさぐネオ・クラシック様式の建物は,1810年,ナポレオンの命により大舞踏ホールとして建てられた。南北両端に鐘楼と時計塔を配したこの広場は,まずその規模の雄大さと均斉のとれた美しさで観光客を酔わせ,圧倒する。
 海に面した小広場には,岸壁近くに12世紀に建てられた2本の大円柱があり,上部に聖マルコを象徴する翼を持ったライオンと,聖テオドーロの像がのっている。そこから海の方に目を転じれば,ジュデッカ島とサン・ジョルジョ島がそのまま広場の一部となり,広場と島の間の水面が広場の延長であるが如き錯覚を覚えさせさえする。
 白大理石の美しい建物で三方を囲まれ,その比類のない美しさのために「大理石の間」とも呼ばれる大広場は,奥行き175m,幅80m,ゲーテは,ここを世界一美しい広場と讃えた。

  3.サン・マルコ寺院
 世界のビザンチン様式建築の代表の一つに数えられるこの寺院は,縦76m,幅62mのギリシャ十字のバジリカ(教会堂)で,縦横の交差点と四ヶ所の尖端にあたる位置に,五つの東方的ドームをいただき,その上にこれもまた東洋風の飾り屋根が輝いている。正面は五つのアーチが二層に並び,いずれも黄金色の地にモザイク壁画が描かれている。
 寺院の内部は三列の柱列で区切られている。
 柱列は美しいモザイクで飾られたアーチ状のはりを支え,その梁がまた,内部を金色まばゆいモザイクで飾られたドームを支えている。
 サン・マルコ寺院のモザイクの総面積は4500平方mに及び,その殆どは12,13世紀の製作である。
 寺院の内外すべてが燦然たる黄金色に掩われ,けんらんたるモザイクに飾られて,ビザンチン様式の影が濃く,その特異で豪華な美しさは他に比類がない。

 だが,12世紀のモザイクに彩られた寺院の床は,地盤沈下のために凹凸ができている。
 寺院の入口の傍らには砂袋が山と積まれていた。春秋の満潮時には海水が浸入してくるという。過去二回の訪問時には見られなかった景色である。
 ヴェネツィアは沈下を続けている。最近10年間に,場所によっては2.5cmから3.7cm沈下しており,イタリヤ政府は沈下防止に躍起だがこれという名案もない。

  4.ドゥカーレ宮殿
 サン・マルコ寺院のすぐ南隣り。白とピンクの大理石を組み合わせてほんのりと明るい壁の色合いが,海と空の青によく調和している。
 814年に最初の宮殿が建てられ,数回の改築,増築を経て,16世紀後半現在の形に完成された。
 歴代の太守(ドージェ)の政庁兼宮殿で,司法の絶対権を持つ十人評議会や,立法府の大評議会など,三権がこの建物から力を振った。いわばヴェネツィア共和国の富と力の本據であった。
 当初の「ヴェネツィア・ビザンチン様式」から建物は増,改築の都度,漸次「ゴシック」「ルネッサンス」様式へ移ってゆくのだが,外観は見事に統一のとれたスタイルを保ち,些も斧鉞のあとを残していない。
 すべての配色,すべてのデザインが溜息の出るほど美しい。ヴェネツィアで一番美しい建物といっても言い過ぎにはならぬだろう。
 そして豪華極まりない宮殿内各室の絵画群である。
 まず「控えの間」にあるのが有名な「ヴェロネーゼ」の"ヨーロッパの略奪"つぎに「大委員会室」の正面を飾る「ティントレット」の"天国の図"は宮殿の絵画の中,最も重要で,しかも一番美しいものとされる。縦54m,横25m,世界で最も大きい油彩画の一つである。「元老院の間」の同じく「ティントレット」の大天井画,「十人委員会」の間の「ヴェロネーゼ」の同じく大天井画,その他豪華けんらん,鮮烈な色彩の,ヴェネツィ派巨匠たちの作品の連続である。後述「アカデミア美術館」展示の作品群に勝るとも劣らぬ大作品ばかりが,建築に一体化して眩ゆいばかりの美しさにただただ感歎するばかりである。

  5.ホテル・ダニエリ
 サン・マルコ広場に連なる波止場のスキャヴォーニ通り。ドゥカーレ宮殿から二軒おいて東側にそれはある。五つ星の特級。全壁面チョコレート色の建物は,白大理石の建物が並ぶスキャヴォーニ通りでひときわ目立つ。14世紀に当時の太守ダンドロが建てさせた豪華なビザンチン風の宮殿を,1822年ダル・ニエルという男がホテルに改造した。ダニエリは彼のニックネームだった。
 海に向かって開く四階のテラスでランチを攝った。
 指呼の間にサン・ジョルジョ島が横たわる。
 サン・ジョルジョ・マジョーレ教会の鐘楼の青い屋根,その傍の,四本の主柱に支えられた白大理石のファサードが鮮かだ。島の右手の空間を仕切るのは,大運河の河口にそびえ立つサンタマリヤ・デッラ・サルーテ教会の壮大な大ドーム。サン・マルコ広場の壮巖な背景を形造っている。
 つい先刻まで,私たちは間近のサン・マルコ広場に,金色燦然たるサン・マルコ大聖堂を仰ぎ,世にも美しいドゥカーレ宮殿で,ヴェネツィア派の巨匠たちの壮麗な壁面を堪能してきた。
 空と海は青く晴れ渡り,鴎がテラスの窓を椋める。ラグーナ(潟)の島々がひろがり,この上ない明媚な風光がアドリヤ海に連なっている。
 ダルニエのランチは,流石に旅行中の最高だった。美酒佳肴。エトランゼーは陶然として,つかの間の幸福感をかみしめる。
 余りにも舞台装置が整い過ぎている。暫し陶酔であり,白日夢でさえある。それは昨日のゴンドラでもそうであった。
 ヴェネツィアという島は,サン・マルコという広場は,何という蠱惑的な美しさを持っていることだろう。
 車も通さぬ(事実,通れない),そして,今なお沈下しつつある島。華麗と頽廃が,この島では正に同居しているのである。

 昼食後の,みやげもの買いをそこそこに済ませ,私は再びサン・マルコ寺院のアーチをくぐった。ビサンチンの色濃いモザイクが,遙か天井に静かに輝く大ドームの下をゆっくりと歩く。ローマのサン・ピエトロ大聖堂の混雑はここにはなかった。
 定刻に集合場所へ行くと,集ったのはI御夫妻と添乗員のO嬢と私の四人だけだった。
 水上バスで5分,サン・ジョルジョ島へ渡る。青い屋根の鐘楼へエレベーターで一気に上る。
 すばらしい360度の展望であった。ランチタイムのダニエリのテラスからは全く望めなかったラグーナの全景と,それを越えて,足もとのサン・マルコ広場の遙かかなたまで,アドリヤ海がひろがる。共和国ヴェネツィヤの海の覇権の歴史を想起させる大風景である。

 サン・ジョルジョ島は,1980年と87年の二回,ヴェネツィア・サミットの会場になった島でもあった。
 再び水上バスに乗って一応サン・マルコ広場へ戻る。午後4時30分,日はまだ高い。

  6.アカデミア美術館
 フィレンツェのアカデミア美術館と同じように三度目のヴェツィア詣でで,ようやく私はアカデミア美術館を訪ねることができた。
 水上バスのサン・マルコ駅から三つ目,アカデミア駅を出ると目の前にその美術館はある。1807年ナポレオンの命令により,14?18世紀のヴェネツィア派絵画の最大のコレクションとして開設された。
 ベッリーニ,カルパッチョ,ジョルジオーネ,ティツィアーノ,ベロネーゼ,ティントレット等枚挙に暇ないほど名作が並んでいる。
 1505年頃の作とされるジョルジォーネ(1478?1510)の「テムペスタ」(嵐)は,リアルに人間的想像の世界を描き出してジョルジォーネ藝術の集大成とも云われるもの。ティツィアーノ(1490〜1576),ベロネーゼ(1528〜1588),ティントレット(1518〜1594)ら巨匠の大作品に圧倒される。ヴェネツィアといえば,いろいろの本で親しまれているカナレット(1697〜1768,ヴェネツィア生れ)の絵があるのもなつかしい。
 大運河に渡された木橋アカデミア橋上に立って夕光にそびえる余多の商館と教会の眺めを楽しんだあとこの日四度目の水上バスに乗り,サン・マルコ駅で船を降りれば宿舎モナコグランドホテルは目の前である。

 夕食は,世界一美しいとも称されるオペラハウス,ファニーチェ(不死鳥)劇場に隣接するレストラン,アンティコ・マルティーニであった。
 ファニーチェ劇場は,ミラノ,ローマ,フィレンツェ,ナポリのオペラハウスと並ぶオペラの殿堂,ヴェルディの「リゴレット」(1851),「椿姫」(1853)はここで初演された。収容人員は1500人,他の劇場よりずっと少ないが音響効果のよいことでも知られていた。数年前に火災から復興,休演中であったため内部は窺うべくもなかったが白大理石造りの正面は案外に質素な外観である。
 夕食のデザートの前にテーブルを辞して,すぐ近くのサン・ビターレ教会の弦楽合奏会へゆく。ヴェネツィアは,かのビヴァルディの誕生の地である。10人の弦楽合奏団が奏でるビヴァルディの数々の曲,モッアルトのピアノ協奏曲No.12など,フィレンツェ以来四夜連続して,教会演奏の音響を堪納できたのはほんとに幸せだった。
 一行のIさんと御一緒して,やや更けた小路をたどりホテルへ帰ってきた。それぞれに形の異なる小橋を渡り,狭い小路を踏み惑うのは夜のヴェネツィアの魅力のひとつである。

VII ミラノ
 朝,ヴェネツィアを発つ。ホテル前から小蒸気船で大運河を通り,本土側の舟溜りに入る。鉄道駅サンタマリア駅前である。
 初めてイタリヤの鉄道に乗った。ミラノまで特急三時間,新線のロンバルディヤ平原が涯しなく続く。

 「ミラノ」は,人口154万人。商業と金融の町。人口はローマの半分ほどしかないが,経済力はイタリヤ随一である。ローマ何するものぞ そういった気概がこの町にはある。
 ミラノ大聖堂は,ローマのサン・ピエトロ大聖堂に次ぐ世界第二の広さを有ち,世界一と称する大見本市市場もある。ビットリオ・エマヌエル二世アーケードは国内随一と云われるし,ミラノのファッションは世界をリードする。そしてスカラ座は世界で最も高名なオペラ劇場であり,余りにも有名なレオナルドの"最後の晩餐"も市内のサンタ・マリア・デッロ・グラッセ教会の壁画である。挙げてくればミラノ市民の誇りも分るような気がする。
 ミラノの見どころは殆どドゥオモ(大聖堂)広場から半径1.5km以内におさまっている。

  1.ミラノ大聖堂(ドゥオモ)
 イタリアの他の町のドゥオモ,即ちその町で最も重要な教会は,それぞれ名前を持っている。ローマならサン・ピエトロ教会,フィレンツェなら花の聖母教会,ヴェネツィアでは金の教会という風に。ミラノでは誰しもがドゥオモと呼ぶだけだ。
 1387年着工,出き上がったのは19世紀半ば。白大理石の巨大な姿は,まるで石の糸で仕上げたようにデリケートな装飾が施してある。鋭角的なゴシック様式は世界のゴシック建築中の傑作とされる。
 内部の外陣は,堂々たる52本の列柱によって五つの身廊に分れ,柱はゴシックアーチを支えていて,その上には大胆な天井の構造が交差している。恰ら深い森の中に入ったような気さえする。
 高く,壮大で豪華,しかし静かに輝く豊かなステンドグラスがすばらしい。大半は15世紀の作という。
 ドゥオモは奥行き158m,幅93m,高さは聖人の像を乗せた135個の尖塔のうち,一番高い塔の先端の金色のマリア像まで108m。エレヴェーターで屋根までゆけるが前回上ったのでこの度はご遠慮した。

  2.ビットリオ・エマヌエーレ二世アーケード
 ドゥオモとスカラ座との間の屋根のある具合よい散歩道であり,ミラノ市の社交の地理的中心地でもある。
 鉄の円蓋と色ガラスに掩われ,模様入りの石を敷きつめた歩行者天国,アーケードは円蓋のところで交又する格好になっている。レストラン,商店街,電話局など何でもそろった目抜通りだ。

  3.スカラ座
 スカラ座といえば,それはミラノということである。ヴェルディ,ドニゼッティ,ロッシーニ,プッチーニということでもある。トスカニーニであり,世界一のオペラ劇場ということでもある。
 前回は修理中でゆっくりと優雅な場内を眺めることが出きた。「スカラ座博物館」などというものを併設しているオペラ劇場は,ここスカラ座だけではないだろうか。数々の大作曲家自筆の楽譜,たとえばマリヤ・カラスが着けたそれぞれの衣裳など,オペラファンに取っては垂涎の記念品が並ぶ。こけら落しは1778年。今回の公演はオペラではなく,バレー「バヤデルカ」,スカラ座のバレーチームは,サンクト・ペテルスブルグ,モスクワのボルシォイ劇場ほどではないにしてもやはり世界に名だたる存在である。シートは発賣当日賣切れとあっては観光客にはどうしようもない。

  4.最後の晩餐
 余りにも有名なその絵,レオナルドの"最後の晩餐"は市の中心部から比較的近く,サンタ・マリヤ・デッロ・グラッセ教会の食堂の壁に描かれている。
 教会は,1492年当時の大建築家ブラマンテによって完成された。ロムバルディア地方のルネッサンス文化が生んだ最も重要な建築物の一つとされる。
 前回は,修復中でもあったゆえか,いとも簡単に,殆ど無雑作に,その絵の間近まで行けた。この度は,まずそのきびしい管理振りに驚かされた。絵に到達するまでに三つも関門ができていて,流石に内部は様変りに整頓されている。参観の時刻は定められており,しかも時間は15分以内ということだった。
 修復なったそれは,流石に前回より或る程度明瞭にはなっていた。
 フレスコを嫌ったレオナルドが独自の画材を使用した結果は,所期に反して画面の傷みが早く,いく度も補修を繰り返さなければならなかった。
 とどまる所なく傷んでしまった今日,作品の影だけが残っているとまで言われるレオナルドの最後の晩餐は,或る程度まで修復されている。見事の空間構成,神秘的な光線,感動を控え目に表す人物の,人間らしい精神的描写,レオナルドの画家としての偉大な天才をあまさず伝える大作である。

  5.ロンダニニのピエタ
 ミケランジェロの最後の作品"ロンダニニのピエタ"像は,いまミラノ市のほぼ中心地区近くスフォルツェスコ城内,古美術博物館の館内にある。
 スフォルツェスコ城は,1360年当時の支配者ヴィスコンティ家が,建てた居城を,次のスフォルツェスコ家が1450年から11年かかって改築した。塔の両側に高く長い城壁の翼を伸ばした特異な姿を見せる。ミラノにおける非宗教的建築物中,最も重要なものとされている。広大な城塞の中には古美術博物館,絵画館,市歴史資料室,美術史図書館等が,それぞれふさわしい場所におさまっている。
 城は,前日その門をくぐって外観だけは眺めた。前回の時もそうだった。当時,私はそこにロンダニニのピエタが秘蔵されていることなど全く知らなかった。
 翌日,最終の観光地「コモ湖」へ向うバスがホテルを出るのは11時45分だった。それまでの空白時間こそ天与のものと思えた。勇躍してタクシーを走らせた。
 スフォルツェスコ城の最奥の部屋に,ミケランジェロの最後の作品"ロンダニニのピエタ"は,それだけを一室として,ひっそりと立っていた。

 レオナルドは,三回にわたってミラノに長期滞在し,最後は1506年〜13年の7年間。モナ・リザはこの間にほぼ完成したといわれる。1516年フランス王フランソワ一世に招かれてミラノから,フランスのアンボワーズ城に移り,1519年そこで臨終を迎えた。
 ミラノに在ること合計15年以上に及び,ミラノのレオナルドを遇することは厚い。何より「最後の晩餐」がある。市内にはレオナルド記念館もあり,スカラ座広場には,レオナルドとその弟子たちの銅像も立っている。
 だが,ミラノ市政府は,ローマのロンダニ宮の内庭に何世紀にも亘っておかれていた後,ヴィメルカーティ・サンセヴェリーノ伯爵の所有となったミケランジェロの,この高貴な最高傑作を,1952年に買い入れたことによって,ミラノ市民に限りない奉仕をしたということが言える。

 『1564年のはじめ,ミケルアンヂェロはようやくその"あらしのうみをよぎりきってきたわが生涯"のおわりにちかづいた。彼は日々に衰えた。しかもなお彼は工具をすてず。2月12日,彼はピエタを彫って終日立ちつくしていた。ピエタ・ロンダニニである。いたましさの限りのこの作品。若き日のミケルアンヂェロの最初の傑作となったあの希望にみちたる"ピエタ"と,この最後の悲痛そのもののピエタ,なんという対照であろう。……その翌々日,1564年2月14日,ミケルアンヂェロは最後の激烈な発作に襲われてたおれた。…彼は,ついに起たなかった。…
 1564年2月18日,"金曜日の夕5時すこしまえ,アヴェ・マリアの鐘が鳴るころミケルアンヂェロは永眠した。そのかたわらにあのピエタ・ロンダニニが立っていたのであろう。
 十字架からおろされたクリストを聖母マリアがささえているというよりは,死せるクリストが立ってマリアを肩にしているこのピエタのように,いまや死せるミケルアンヂェロは生けるしかばねフィレンツェを何処へみちびこうとするのか。医師の報告によれば,ミケルアンヂェロは最後に"生きているあいだに再びフィレンツェを見ることはできなかった。せめて死んだ後にでもそこに帰っていたい。"と言った。
 翌19日,ミケルアンヂェロの遺骸に対しローマにおける葬式が全ローマ市民の前に行われた。ローマの全藝術家およびこのときローマにいたすべてのフィレンツェ市民たちは彼の友たちとともにこれに参加した。……
 遺骸は,突然そしてほとんどまったく予期されずにフィレンツェに到着した。3月11日土曜日のことであった。…大葬典の日は一度公表され,それからまた延期されてついに7月14日に至って挙行された。』(以上のことは,フィレンツェに起るであろう大騒擾を避けるための処置であった。)

 「ロンダニニのピエタ」は,城内の市立古美術館の中の,一番奥深く,やや狭くはあるが,その像を秘蔵するために設けられたような一室にひっそりと置かれていた。やや年老いた女性の看視員がひとり守っていた。
 ミケランジェロ晩年の多くの彫刻作品が,そうであるようにこの最後の作品もまた未完成であった。
 ピエタ像のまわりを,いくたびとなくめぐりながら私は"ロンダニニのピエタ"に見入った。全く未完成なのに何という悲痛な表現にみちていることだろう。
 ローマの第一日に私はサン・ピエトロ大聖堂で,世にも美しく,悲しいピエタ像に見入ったのだった。
 そして,その12日目,イタリヤをあとにする最後の日にロンダニニのピエタにめぐり会えたのだった。ミケランジェロに始まり,ミケランジェロに終ったイタリヤの旅であった。




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