東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.78

福島「元湯、甲子温泉」探訪記
(混浴編)

青木行雄

 『遍歴の僧,州安が,白河にいたり,はるか西を望むと,吉祥の雲がかかっている山が見えた。
 雲に誘われ,山中に分け入り,霊気こもる地に草庵を結んだ。そこを寺平と言う。
 ある夜,庵の戸を叩く翁があった。終夜語りあったのち,翁は,「この山峡に霊泉あり。病患ある者にこれを教え,救われよ」と告げて,消え去った。
 翌日,州安が示唆されたところに行ってみると,そこには湯が滾々と湧きでていた。
 十四世紀終りの頃である。
 --時移り,里人には,この秘湯の在り処は分からなくなっていた。
 それから又時は流れ,1600年(慶長5年)冬の或る日,鶴生に流寓していた会津蒲生家の浪人菊地大隈基吉が猟にでて阿武隈川源流域で,猿を撃った。雪上の血痕を追跡してゆくと,その猿が湯浴して傷を洗い癒していた。
 1636年(寛永13年),大隈の子・将監高吉はここに温泉を開発し,白河城主丹羽公より湯別当(湯守)に任じられた。
 かの州安が湧湯を見出したのが,甲子(きのえ・ね)の年であったので,これを「甲子の湯」と名付けられたという。』

 以上は白河の伝説に記された甲子温泉発見のもようを記したものである。
 文中に州安が発見したのが一四世紀の終り頃であるとあるが,別記資料には1384年(至徳年間)と明記されているので,今から622年も前のことである。

 白河藩の初代藩主は丹羽長重公であるが,この頃から,文中にもある,「湯守」として統治していた事がわかる。
 そして時代は変り,白河藩主・松平定信公が奥甲子の紅葉をこよなく愛し,四季折々の美しさをこの甲子温泉で味わったと言う,別荘「勝花亭」がこの温泉にあるのである。

※緑に映える「勝花亭」の建物,松平定信公がこよなく愛し,たびたび訪れたと言う甲子温泉の別荘(もちろん昔の建物ではない)。

 ここには,JR東北新幹線で,東京から新白河駅まで約1時間ちょっと,予約が必要だがマイクロバスで約40?50分の所に,秘湯,「甲子温泉」の一軒宿があった。
 車だと,東北自動車道白河I.C.から国道289号線で25km約40分であると案内書には記してある。この国道289号線は,この一軒宿で行き止まりである。
 福島交通バスが,新白河駅高原口から新甲子(那須甲子高原ホテル)までバスが一日4便通っているが,そこから,徒歩で約40?50分かかるようである。
 泊り客には,送迎バス便があるので電話で予約が必要である。
 携帯は通じないので,電話は宿の公衆電話利用となるし,テレビはBSテレビが見られるが,ちょっと不便であった。
 夜,庭先のライトの下に餌付をした夜行動物,タヌキ,ハクビシン,テン等が,餌をおくとやって来て,食ってる風景はさすがに山奥だなあ?と言う感じであった。写真でフラッシュが光っても逃げない所が凄いと思う。最近タヌキが少なくなり,ハクビシンが多くなったと宿の主人が言うが,かなりの数が見られた。山の森の異変かも知れない。
 翌朝,体にすずを付けた登山支度の男性が宿の前を通ったが,クマ避けの支度なのだろう。こうした文面を見るとかなり山奥で,大変な所だと思うかも知れないが,意外と東京から近い。昔は遠かったと思うが,今は白河市の都会から40?50分の所である。
 昔はもちろん電気はなく,ランプであった。そして,自家発電の水車で電気を取ったのは,そんほど昔の事ではなかったようで,こわれた発電用の水車を見ることが出来た。

 宿の様子をもう少し詳しく説明しよう。

 住所は,福島県西白河郡西郷村大字真船字寺平1番地。
 営業期間は4月中旬?11月中旬の7ヶ月間である。「冬季積雪のため」とあるから,かなりの雪があるのかも知れない。標高1000mぐらいの場所であるのだが…。
 宿は,日光国立公園,日本秘湯を守る宿のメンバーで,名前は元湯甲子温泉・旅館「大黒屋」と言う。上記文面にもあるが,白河藩主松平定信公が別荘として使用した。その後松平公は江戸へ移住の時,民間に払い下げたと言う。そして,いろんな人の手にわたり,歴史は分からないが,今の草野氏が前の佐久間氏より買い受けてから50数年になると言うから戦後のことであろう。
 戦前の建物はよく分からないが,戦後の建築は2階建で本館23室,別館3室,収容人員80名の小じんまりした宿であった。
  浴室 大岩風呂    1(混浴)
     婦人風呂    1
     内 風呂    2
     露天風呂    2
     屋外温泉プール 1
 泉質はカルシウム,無臭無色,全国稀な石膏泉,脳神経,頭痛,胃腸病,皮膚病などに特効があると言う。

※甲子温泉で一軒宿の大黒屋の玄関。「秘湯を守る宿」のちょうちんが目立つ。
※奥甲子温泉で国道289号線はここで,行き止りである。日帰りの客も多く,日中は駐車場が満車となるようだ。

 本館の地下道から108段の階段を下り,阿武隈川の渓谷にかかる鉄橋を渡ったところに湯小屋はある。橋の下の渓流で小さな川だが,岩魚を釣る人が何人か見かけた。
 その湯小屋は谷底の渓流沿いに建っていた。自然の岩盤をくり貫いたと言う大岩風呂(混浴)は,縦5メートル,横15メートル,深さ最大で1.2メートルもある,とても大きな風呂であった。木造の木組は山小屋風の荒けずりで,40?50年経っているのか,それがまた山の出湯の落着きと雰囲気を出しており,ランプの電気はたまらなく郷愁を誘われた。
 湯船の真中にどっしりと腰をすえた「子宝石」は黒光りがするほど温泉の中で光っている。その上にお尻をのせて,ほほえむ娘の姿も見られる。胸高ぐらいの湯中をあるき廻る女の子,湯の中は透き通って見える,またぬるめの湯だが,上がるとどっと汗が出る程だ。男も女も皆満足そうな顔であった。楽しい,混浴風景である。

※大岩風呂の湯屋で右側の小さな湯屋が婦人専用である。左側が温泉プール。
※大岩風呂の内部。この時は5?6人だったが,2?3百人は入れそうな大風呂。日中日帰り客が入浴中はかなり混雑する。もちろん混浴である。ランプ(電気)の夜は実に雰囲気がいい。木造の小屋風木組が実にうれしい。

 結城哀草果と言う歌人・随筆家が昔この「甲子温泉」に来て,前にも記したが,この大岩風呂で未明に誰もいないと思って,泳いでいた處女のことを記した話が宿にあったので記して見た。

 「人魚のごとき處女遊泳のさまを目のあたりにして,しばらく茫然としてをった。それはむしろ私に神秘感を與えたのであった」と書いている。
 この大岩風呂の中で,昔は今の風呂より,一まわり大きかったと言うから,かなりの広さだったのだろう。
 「湯には處女が一人抜手を切って泳いでをる,それは丁度プールを泳ぐときの形である。處女は私の来たのも知らず,安心して泳いでゐる。透明な湯に黎明の光がうごき,處女の肌はあくまで白い」
 本館からこの湯小屋に行くには前にも記したが鉄橋だが,当時は木橋であったようである。この結城哀草果の歌碑が,庭先の前に記した,夜行動物の出る近くに立っていた。
「撫の木に生ふる菌を照らしたる月,甲子山におちゆかむとす」
 月のかすかな明かりだけが,深い谷間の茸を照らしたが,白々とした「黎明の光」が射しこむと,美しい處女が湯で泳いでいたのであろう。
 山々に囲まれた,空が狭く感じるこの「甲子温泉」は,ちょっと森の中に入ると撫の木ともみじ等の紅葉樹であり,秋の紅葉が目頭に浮ぶようであった。
 日中は,日帰りの客がかなりの人数で,ちょっと都会的の雰囲気に変るが,夜になると山の湯宿は一変して夜行動物の出現等で,神秘性に満ちた秘湯としての環境に変化し,タイムスリップを感じた,癒しの一時であった。
 そんな阿武隈川水源の仙境「甲子温泉」の探訪記でした。

(平成18年7月17日記)
 

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