東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.79

岡本太郎と幻の壁画「明日の神話」

青木行雄

 汐留の日テレタワーに行って来ました。2006年7月15日?8月31日まで日本テレビが「GO! SHIODOMEジャンボリー熱ッ!」,と題して送る真夏の一大アミューズメントパークと言う企画に,岡本太郎の日本最大,幻の壁画,世界初公開と銘打ってのすごい壁画を見に行ったのである。
  岡本太郎といえば,「芸術は爆発だ!」との名言で知られ,よくテレビ等で叫んでいた。ちょっと変ったごつい芸術家と言うイメージもあるが,私もちょっと画伯と係わりがあったので,その事について後ほど詳しく記して見たいと思う。

 まずこの「明日の神話」が出来た。完成してから,37年もたった今,なぜ公開されることになったのか。こんな大作がどうして出来上ったのかを調べて記して見た。
  1967年(昭和42年)の夏,メキシコの実業家スワレスは,翌年の68年,メキシコオリンピック開幕に合わせて高層ホテルを建てるにあたり,岡本太郎にロビーに飾るこの壁画を依頼したと言う。メキシコ文化に共感していたと言う岡本太郎は,当時大阪万博のテーマプロデューサーを引き受けたばかりという多忙の身にもかかわらず,この企画も引き受けたのであった。こんな訳で,実業家スワレスと意気投合,帰国するや直ぐに下絵に取り掛かったのである。パートナーの岡本敏子さん,後ほど少し触れたいと思うが,彼女がこの時この下絵を見て,そのモチーフに驚き,「ホテルの正面玄関にこんな絵を飾って大丈夫なのか」と聞くと,太郎は自信ありげに「メキシコに骸骨はふさわしいモチーフだよ」と語ったと記されているが,よほど自信があったのだろう。
  1968年(昭和43年)4月,太郎がメキシコに持参して下絵を見たスワレスは,「これこそ世紀の傑作だ」と絶賛したと言う。そして現地での制作が始まったのである。それから,おおらかなメキシコ人美術関係者との触れ合いを楽しみながら進めていく。太郎は1回に1週間から10日の滞在期間で,絵を描き続けたのである。日本のさまざまの仕事を始め,大きなテーマの大阪万博と山積した中での作業であった。完成までの1年半の間に,日本とメキシコを30回以上往復したと記されていた。いかに大変だったかこれでもうかがう事が出来る。
  そして1969年(昭和44年)9月末,ついに「明日の神話」が完成したのである。それから内装工事は進行中だったが,ホテルのロビーに壁画を取り付けて,太郎はいったん帰国した。それから事件は発生したのである。何と,この高層ホテル,内装工事が完成しないまま倒産してしまったのである。その後,完了しないまま放置されたそのホテルは,失意のうちに実業家スワレスは死去,未定のまま人手に渡り,オフィスビルとして生まれ変ったと言う。居場所を失った「明日の神話」は取り外され,各地を転々とするうちに行方が分からなくなり,"幻の作品"と呼ばれてしまったのである。
  そして自らの大作に執着を見せることなく,岡本太郎は,1996年(平成8年)に死去してしまった。その後,時代は変り太郎の存在は忘れられて行った。残された岡本敏子は,太郎の語り部として奮闘したのである。そして自らが死ぬ前に,必ずやり遂げなければならない仕事,それは,「明日の神話」の発見なのだと信じたと言うのだった。
  現存が絶望視されはじめていた2003年(平成15年)この作品がついにその姿を現したのである。もちろん発見したのは,長年に亘って捜し続けていた,岡本敏子本人である。
  彼女の願いが実現した時から,再生に向けたドラマが始まったのであった。
  長らく行方を捜し続けていた岡本敏子の前に「明日の神話」は忽然と姿を現したのである。2003年(平成15年)9月メキシコシティ郊外の資材置場での運命の再会である。だが,その姿は大きく変り果てていたと言う。岡本太郎の最大・最高の傑作をこのまま見殺しにしてはいけない。何んとしても元通りに復元し,多くの人に見せたい,見てもらいたい……それが「私の人生最後の仕事だ」と敏子は決意して,メキシコを後に帰国したと記されていた。
  2005年(平成17年)3月,1年掛かりの交渉を経てついに壁画を入手した。早速4月に現地に乗り込んだのである。画面に走る亀裂に沿って壁画を解体し,日本へ移送する為だった。作業が思いのほか順調に進んだので,再生プロジェクトチームは予定を繰り上げて帰国した。
  それから間もなく,彼女は発見出来た安心感か,疲労なのか,あれだけ張り切っていた岡本敏子は,一般公開を前にして急死したのである。
  だが,悲しみをのり越え再生プロジェクトチームは,全て計画通り進めて行ったのである。
  壁画は5月末に神戸港に到着した。7月中旬に愛媛の作業場に搬入し,本格的な修復に入ったのであった。
  それから,日本テレビがメディアパートナーとなって汐留に公開の舞台を用意する事になったようである。
  こうして「明日の神話」は2005年(平成17年)11月,全ての建て起こしが完成し,「幻の大壁画」がようやくその全貌を現したのであった。初めて見る偉容に関係者一同息を飲んだと言う。正に太郎からのメッセージが降り注いで来るようだった,とプロ達は表現している。
  そして2006年(平成18年)6月3日,修復完了,「明日の神話」は遂に37年前の輝きを取り戻し,ようやくその全容を見せたのである。

 大阪での日本万博博覧会シンボルゾーンの中心に「太陽の塔」を制作し館長となり,一躍世間をアット言わせ,有名になった「岡本太郎」の経歴を簡単に記して見よう。

 1911年(明治44年)2月26日,大貫家にて漫画家・岡本一平,歌人で小説家・岡本かの子の長男として,かの子の実家のある,神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)に生まれる。
  1917年(大正6年)6歳,4月に青山の青南小学校に入学するが1学期で退学し,一年生で4つの学校を変えている。
  1929年(昭和4年)18歳, 東京美術学校に入学,半年後に中退,父母の渡欧に同行。
  1930年(同5年)19歳,1人でパリに住み始め,ヨーロッパ文化にひたむきに身を投げかける。
  1932年(同7年)21歳, ピカソの抽象作品に触れて激しく打たれ,純粋抽象に進む。

1938年 (昭和13年)27歳, パリ大学で哲学,社会学民俗学を学ぶ。
1940年 (昭和15年)29歳, ドイツ軍のパリ侵攻と同時に脱出,最後の引き揚げ船で帰国。
1941年 (同16年)30歳, 東京銀座三越にて個展を開く。
1942年 (同17年)31歳, 現役初年兵として中国へ。
1946年 (同21年)35歳, 敗戦の日本へ復員。
1947年 (同22年)36歳, 東京上野毛にアトリエを構え,制作活動を開始。
1953年 (同28年)42歳, パリで個展,続いてニューヨーク,ワシントンで開催。
1954年 (同29年)43歳, 青山にアトリエを移し,現代芸術研究所を設立。「今日の芸術」が刊行され,ベストセラーとなる。
1956年 (同31年)45歳, 旧東京都庁に「日の壁」,「月の壁」など,11面の陶板レリーフ壁画を完成。これに対し,59年,国際建築絵画大賞を受賞する。
1964年 (昭和39年)53歳, 東京オリンピック参加記念メダルを制作。
1966年 (同41年)55歳, 東京・数寄屋橋公園に「若い時計台」を制作。
1970年 (同45年)59歳, 日本万国博覧会シンボルゾーンの中心に「太陽の塔」「母の塔」「青春の塔」を含むテーマ館をプロデュース,制作し,館長となる。
1976年 (同51年)65歳, テレビCM出演「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語となる。
1985年 (同60年)74歳, 東京・青山の「こどもの城」前にシンボル・モニュメント「こどもの樹」を制作。
1991年 (平成3年)80歳, 所蔵する作品約1800点を川崎市に寄贈。
1993年 (平成5年)82歳, 千葉県浦安市運動公園にシンボル・モニュメント「躍動の門」「五大陸」を完成。
1996年 (平成8年)1月7日,パーキンソン病による急性呼吸不全にて死去,享年84だった。油彩「雷人」,暖炉彫刻「河神」が最後の作品となる。
岡本太郎の先駆的芸術創造の精神を継承するため,財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団を設立,理事長に岡本敏子が就任した。
1998年 (平成10年),岡本太郎の住宅兼アトリエを(私が何回か通った私宅が)改修され,5月に岡本太郎記念館をオープンした。
1999年 (平成11年),川崎市多摩区に川崎市岡本太郎美術館オープン,約1800点の作品が展示される事になった。
そして
2005年 (平成17年)4月,岡本振興財団の理事長,前に記したが岡本敏子さんは,惜しくも急逝したのである。

 今回,汐留に見学に行った時の私の感想はもちろん,入場料なしで,冒頭に記した様に日テレの企画で誰でも見る事が出来て,写真もOKであるが,入場に20?30分程並んだぐらいであった。

 「デカい!」最初の一言はこれに尽きる。縦5.5m,横30m,これ程の大画面は見た事がないが,確かに凄いと思った。
  私の絵画の鑑賞能力は,しれたものだと自分でも思っているが,この大作をじっと見ていると,描いている岡本太郎の身振りが伝わって来るような気がして来た。脚立に登って派手に手を動かしている姿が目に見えて来る思いである。説明を聞くと,モチーフは,「核兵器に焼かれる人間」という重いもののようだが,単純に戦争の悲惨さや世界平和を訴えている訳ではないと言う。本当の意味は逆であると言うし,この骸骨は,ゲラゲラ笑っていると言うのだ,核兵器に焼かれながらも,笑いながら,乗り越えて,明日に向かう……そんな岡本太郎の凄まじい人間観,世界観,宇宙観が表されていると言うのだ。
  悲惨なものを,ただ悲惨だ悲惨だと嘆いていても仕方がない。それを笑い飛ばして,お茶目なキャラクターを描き込んだりしている,彼一流の描き方なのだろう,と説明された。

※縦5.5メートル,横30メートル,の大壁画「明日の神話」世界初公開。とにかく,凄い画面である。

 何十年か前に東京のホテルで我が県で選出した議員の選挙後援パーティがあって参加した事があった。その席に岡本太郎画伯が出席しており,好奇心と勇気を出して,名刺を出し挨拶したら,気軽に応対してくれた。「どうしてこの席におられるのですか」と尋ねると,この議員が地方議員の時に仕事を依頼され,彫刻塔を制作,お世話になった事があると言う。結構,義理堅い所がある人だなあと感心した事があった。その時,良かったら青山にアトリエがあるから,来てもいいよと言われ,天に昇る思いですぐに行ったのはだいぶ昔の思い出である。
  青山のアトリエに行った時の感想は,部屋に居るだけで頭がおかしくなりそうな雰囲気であった。とにかく全ての置物,壁かけ,あるものすべてが岡本流の作り物であるのだ。たばこ皿,スタンド・花びん,庭先には変なおかしな彫刻が所狭しと,立っている物,転がっている物,全てが岡本流であった。
  もちろん尋ねた時は岡本画伯本人は居るわけはないと思っていた。その時部屋に案内してくれた人は,平野敏子様であり,養女となったと言う岡本敏子様である。
  それから何度か訪問したが,一度も岡本画伯には会った事はなかった。しかし行く度,どこかの男性が部屋のイスに無言で座っていた。一言も話をしないで出て行く事に不思議に思い敏子さんに訪ねると,こんな返事が返って来た。大会社の社長さん達が良く来ては瞑想の部屋として,30?40分ぐらい頭を冷やして行くと言う返事だった。なる程と感心した事も思い出された。まだ若かった私には岡本太郎作の作品に手の届く金額のものは無かったが,当時の大枚をはたいて買った「太陽の塔」等のネクタイが,3本ばかり残っている。派手で人前で出来るようなネクタイではないが,岡本太郎先生,岡本敏子様の亡くなった今,この「明日の神話」を見ながら,何回か,通った青山のアトリエを思い出しながら,「芸術は爆発だ!」とテレビ等で見た「岡本太郎」,今にも出て来そうな顔を思い出しながら,この大画面に陶酔し,時間が過ぎた。
  そして,両人の御冥福を祈りながら夕ぐれの新橋を後にした。

※この壁画を長らく探し続けて,やっと見つけた再会の微笑みの顔に見える。岡本敏子さん。
※この大壁画を見る為に並んでいる観客,30分程かかったが,無料であった。

 

(平成18年8月20日記)
 

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