東京木材問屋協同組合


文苑 随想

歴 史 探 訪 No.46

「福島正則」と言う戦国武将の生涯

歴史 訪人

 平成18年6月新緑の頃,長野県の小布施町を訪ねたことがある。千曲川沿いの小さな美しい町で,おいしい果物の豊富な所であり,何故だか歴史をとても感じさせる雰囲気の町であった。
 北斎翁大鳳凰図のある寺,「岩松院」を訪ねた。そして,そこで戦国武将「福島正則」最期の地,廟処に出会ったのである。
 あの豊臣秀吉の第一家臣として,武将筆頭として,その名をとどろかし,播磨龍野城,国府城,尾張清洲城,安芸広島城(50万石)と歴任した大大名がどうして,その墓所がこの長野の田舎町のこの寺にあるのか,私は知らなかった。
 人の一生には夫々いろいろなこともあるが,この「福島正則」こそ"波瀾万丈"と言う言葉がピッタリと当てはまる戦国武将だったと思う。
 戦国武将とは,こんな運命を辿るものかも知れない。

 「福島正則」についてその経歴を追って見た。
 1561年(永禄4年)尾張国海東郡二寺村に生まれる。幼名は「市松」と言った。
 父・福島正信,母・豊臣秀吉の叔母,であったらしい。弟に福島高晴がいる。そして子供は,福島忠勝,福島正利,養子に福島正之がいた。
 正則は生れがはっきりしない所もあって,桶屋の倅とする説もあるらしいが,母が叔母の縁から,幼少の頃から羽柴秀吉に仕え,播磨国,三木城攻めを初陣に,因幡国,鳥取城攻め,中国遠征や山崎の合戦に従軍等軍功を立てた。
 1578年(天正6年)に2百石で秀吉に仕えて,1582年(天正10年)9月播磨国神東郡内に5百石を与えられたと言う。
 1583年(天正11年)の賤ヶ岳の合戦では柴田勝家方の豪将・拝郷五左衛門を討ち取る大活躍を見せて「賤ヶ岳の七本槍」の中で筆頭と賞され,他の面々を上回る五千石の恩賞を与えられた。その七本槍とは,1に正則,2に加藤清正,脇坂安治,加藤嘉明,片桐且元,平野長泰,糟屋武則の勇名のことを言った。
 1585年(天正13年)7月従五位下左衛門大夫に任ぜられている。
 その後,小牧・長久手の合戦,紀伊征伐の和泉国畠中城攻め,朝鮮出兵などで活躍した。九州征伐では肥後国の代官や検地奉行を務めた。
 1587年(天正15年)9月に四国の伊予国湯築(今治)11万3千石(他に豊臣直轄地9万石も管理)を与えられている。
 1590年(天正18年)の小田原征伐では伊豆国韮山城に北条氏規を攻めた。
 所領では,兵農分離・水軍の編成を図った。
 1595年(文禄4年)7月には24万石を受け,尾張国・清洲城主となっている。また関白・豊臣秀次が高野山で切腹を命じられた際には,その検死役を命じられた。そして羽柴姓の名乗りを許されるなど「秀吉」からの信頼は大変強かったようである。
 秀吉の没後1599年(慶長4年)1月,徳川家康と私婚を約したことにより石田三成と対立し,激しい憎悪の仲となる。
 その私婚とは,正則の養子・正之と家康の養女・満天姫(松平康元の娘)と婚約のことである。
 関ヶ原の戦いでは東軍(家康軍)の先鋒をつとめ,岐阜城の織田秀信を攻め,これを陥落するなど戦功は大であった。
 そのようなことで,戦後,安芸・備後49万8千石を領する広島城の城主に栄転したのである。
 以後,正則は他の大名と同じく徳川家に恭順する。豊臣恩顧の大名と徳川家の仲介役となり,自身も家康の養女(牧野康成の娘)を後妻に迎えるが,豊臣家に取り立てられた恩も忘れてはいなかった。
 だが豊臣家が衰退して行くさまと徳川家康の独裁的態度にたえながらも,1614年(慶長19年)よりの「大坂冬・夏の陣」においては,江戸城の留守居役を命じられた。これは,豊臣家を思うことの厚い正則を危険視したための処置とも言われている。
 大坂の陣終結後,いよいよ徳川の天下は固まって行ったのである。
 1619年(元和5年)6月に,洪水で破損した広島城を幕府から正式な許可を得ないままに修築したため,「武家諸法度」の適用により改易の第一号は皮肉にも福島正則本人であった。
 旗本に傲慢な態度を取るなど徳川家を軽んじる態度が原因だとも言われていたらしいが,初めに陸奥津軽4万5千石へ減封処分を受けたのである。だが幕府の配慮により転封先を信濃川中島4万5千石,冒頭の「小布施」へ変更され,蟄居を命じられたのであった。
 1620年(元和6年),転封の翌年に嫡男・忠勝死去に伴い2万5千石を幕府に返上する。減封から5年後の1624年(寛永元年)7月13日に病没したと言われている。
 死後,家臣が正則の遺体を幕府の検死役の到着前に火葬してしまい,その事から咎められた福島家は領地没収・改易され3千石の旗本にまで成り下がってしまったのである。

 福島正則は戦場ではその剛勇を恐れられる猛将としてその名を馳せたようだが,稀に見る人情の深さを持ち合わせていたと言う。恩を受けた秀吉の母・大政所が病の床についた時には不眠の看病に当ったともいい,秀次の切腹に立ち合った時には,その哀れな運命に涙を流したという。また尾張国に転封された際に,少年時代に可愛がってくれた甚目寺という寺の老尼を探し出し,かつての恩に報いる為に米や味噌を送り続けたと記されている。そして関ヶ原の役の後に広島に移ることになった時,替わって清洲の領主となる松平忠吉の家老にその旨を話し,自分に代わって従来どおり老尼の面倒を見てほしいと,くれぐれも頼んでいったという逸話もあると記されていた。
 豊臣秀吉の死後,豊臣家から徳川家に権力が移行しようとしていた際での出来事であるが,1611年(慶長16年)3月,家康は豊臣秀頼に対し,会見をしたいので二条城に挨拶に来るよう命じた。今なお豊臣家が主筋と自負する淀殿は強硬に反対したが,豊臣恩顧の正則,加藤清正が説得し,清正は懐剣を忍ばせて秀頼に供奉して二条城での対面に同席し,また正則は枚方から京の御道筋まで1万人の軍勢を揃え,変事に備えたと言われる。正則としては,秀頼の威福は今なお健在であることを家康に誇示したつもりであったが,秀頼に対する京の人達の熱烈な歓迎ぶりや,福島・加藤両氏の豊臣恩顧大名のこうした行動を目の当りにした家康は強いショックを受け,豊臣家や付随する恩顧大名の始末を考える様になった切っ掛けになったと記されている。前にも記したが,こんな事が切っ掛けかも知れないが,大坂の陣では正則は徳川への従軍は許されず,江戸留守番役を命じられ,そして豊臣家は滅亡に至ったのである。
 また,家康が重病になると,正則は駿府の家康を見舞ったが,そのとき家康は「一度安芸に帰られるがよい。将軍家(秀忠)に不満があれば,遠慮せず,兵を出せばよい」と冷たく言い放ち,その時,正則は一言も言えなかった,と言われている。
 家康の死後まもなく1619年(元和5年),前にも記したが,広島城を無断で修理したとの事から,安芸・備後49万石を没収され,信濃国4万5千石に減封された。これも家康の遺命を守った幕府の方針であった。この一件は幕府の陰謀説が強いと言われている。(実はきちんと届け出ていて,幕府重臣にも報告していたとも言われる)
 豊臣家が滅亡後,豊臣恩顧の大名を潰すことにより,幕府勢力を安定化させる為の一環であるとも言われ,加藤清正の子・忠広もほぼ同時期に改易処分に処されたと言う。
 このような処遇を受けた正則は,その気性から大暴れして抵抗するものと思われたようだが,「俺は弓だ,戦国の世では弓は重宝されるが,太平の世では土蔵にしまわれてしまう」といって,おとなしく命に従ったと言う。また広島城では主人の留守中の出来事に激動した正則家臣が城に篭って抵抗したが,正則はここでもおとなしく城を引き渡すよう文章を送ったと言う。
 そして福島正則が広島49万8千石の大名から,信濃国川中島に流転したのは1619年(元和5年)の11月のことであった。徳川幕府の豊臣大名を排除していく政策の犠牲者で,子の忠勝と家臣少人数を連れただけの失意の小布施入りだったのである。
 領主となった正則は,領内の検地や新田開発や,治水などを行ったと言われており,特に松川築堤工事が,その一部が大夫の千両堤として残り,町の史跡として残っていた。
 小布施での足掛け6年間,悲運の晩年を送った「福島正則」は前にも記したが,1624年(寛永元年)7月13日,64歳でその生涯を終えたのである。
 岩松院の裏山に松や杉の木立に囲まれた所に廟処はあった。さみしい晩年であったことが,良くわかる,これが,戦国武将「福島正則」の波瀾万丈の生涯であった。
 

 「福島正則」
時代  戦国時代から江戸時代前期
生誕  1561年(永禄4年)
死没  1624年(寛永元年)7月13日
別名  市松(幼名)
戒名(法名) 海福寺殿月翁正印大居士
官位  従五位下,従三位。左衛門大夫
父母  父:福島正信,母:豊臣秀吉の叔母
兄弟  弟:福島高晴
子   福島忠勝,福島正利,養子:福島正之

 墓所
※長野県小布施町の梅洞山岩松院に正則廟がある。
※東京都港区三田の正覚院
※京都市右京区の正法山妙心寺の搭頭寺院である海福寺
※和歌山県高野町の高野山悉地院
※広島市東区の新日山不動院
※ 愛知県海部郡美和町二ツ寺菊泉院
 
※ 小布施町史跡としての立カンバン
※ この岩松院の裏庭に正則の霊廟はあった
(平成18年8月15日記)



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