東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.80

豊後高田「昭和の町」(大分県)

青木行雄

 大分県豊後高田市は人口2万6101人(平成17年3月末調べ)の小さな日本のどこにもあるような田舎町であった。
  歴史的には,大分県の県北にあたり,国東半島の北の入り口に位置していたため,西瀬戸地域の交流の結節点として,また国東半島の玄関口の商業都市として機能してきた。そしてすぐ近くには,奈良・京都に次ぐ千年の仏国として六郷満山と呼ばれる仏教文化の華が咲き誇ったことのある国東半島は,石仏石塔の宝庫としても広く知られている。
  特に豊後高田には,日本最大級の圧倒的なスケールを誇る「熊野磨崖仏」や,その名の通り国東半島オリジナルの「国東塔」など,六郷満山の寺々をはじめ山,谷,里の至る所に数多くの石仏石塔が残されている。中でも千年の仏国を護る仁王石像の数は日本最多であると言われる。
  千年の時を超えて野ざらしの祈りを今に伝える石の,御仏たちは,まるで野の花のごとく国東半島の大地にあちこちと咲き誇っていると言える程多数見かけるのである。
  この仏の数を見ても歴史的には,大変繁栄して来たであろう町が,時代の変化,社会情勢の変革からその機能を失い,町の商店街は方々で良く見かけるシャッター通りと変り,かつては人通りの多かった町並も人影もなく,犬・猫が何匹が通る程の寂れた町と変化していったのであった。
  そんな中,地元商店会の有志が発奮して,平成13年,今から5年程前,商店街再生プロジェクトとして,いろいろ検討した結果,「昭和の町」として,新たな時代の変化への対応に挑戦し始めたのである。
  そして「昭和の町」再生プロジェクトは,地元商工会議所が中心となり,建築・歴史・商品・商人の「四つの再生」をキーワードとして取り組み,地域住民の生活文化を反映させた「生きた商店街」にしたいと情熱が燃え始めたのであった。
  現存する昭和の建築物,ちょっと言い方は悪いかも知れないが,戦後,昭和20?30年頃に建築した木造の建物はだんだんがたが来て,建て替えたい所だが,建て替える資金もなく,そのまま放置されていたと言うのが現状であった。部分的にはシヤシ等に取替えた所もあったが。
  そんな中の「昭和の町」プロジェクトは,この建物の再生に目をつけたのである。
  当時の町並みをより忠実に再現するべく,イメージに合わないサッシなどを取り替え,昭和30年代の町並みに取り組んで行ったのである。
  小銭を持った子供が,商店街に買い物へ,そんな子供に声を掛けながら,笑ってお釣りを手渡す店の主人,かつては東京の下町でも見られた風景であるが,そんなに遠い昔ではない,昭和のあの頃,夕暮れ時によく見られた風景でもあった。
  そんな雰囲気の町,昭和の香りがする商店街を再現したのがこの豊後高田市の商店街なのである。
  商店,商工会議所,行政が一体となり,この町づくりに取り組んだ結果,犬・猫5?6匹の町が平成18年では年間30万人以上の観光客が集まる町へと生まれ変ったのである。何んと凄い事ではありませんか。
  各商店には,"一店一宝"として,手芸店には,「未だ現役の足踏みミシン」があり,電機店には「昭和30年代の3種の神器・テレビ,冷蔵庫・洗濯機などのお宝がある。また,一店一品として金物店では「亀の子たわし」,食堂では「昭和値段のチャンポン」などが売られている。けっこう昭和の懐しい物に出合える商店街になっている。

 昭和の町に行って馴染むまでにはちょっと時間がかかったが,見て廻る内にだんだん昔の事が思い出され,どっぷりはまってしまった。
  そして昭和の町の中心スポットは,「昭和ロマン蔵」と言う,博物館や美術館があった。
  この蔵は大分県でも有数の豪商,野村家の蔵を改装し,平成13年10月に設立された。
  昭和の生活を伝える博物館,生活用品からオート三輪車や紙芝居まで,昭和30年代の品々が展示されている外,木製の机が置かれた小学校の教室を再現したスペースもあってここに一歩入るだけで,ちょうど高度成長期のまっただ中であったあの頃,昭和30年代の元気な時代に,そう言えば,東京では,東京タワーが建った頃かも知れないが,「3丁目の夕日」の映画に出て来るオート三輪車,リヤカー,駄菓子屋,食堂等も見ることが出来て,あの頃にタイムスリップしているようであった。
  特に,40代以上の人にとっては数々の"懐かしい物"に出合え,私の田舎は農家であったのでこれ,我が家にもあったなあと思える農機具や台所用品等,懐かしく感慨もひとしおだった。
  また「昭和ロマン蔵」の中には「駄菓子屋の夢博物館」がある。昭和30年代のオモチャを中心に,20万点の中から約5万点以上が展示されていると言うから凄い。その他懐かしい雰囲気の「昭和の茶の間」,少年少女に戻ってビー玉やお手玉で遊べる「昭和の子ども部屋」もあって昭和子には大変懐かしい。又入口付近には,「懐かし屋」という駄菓子屋さんもある。
  館長の小宮裕宣さんがいろいろと案内してくれるし,古き佳き日本の姿が残されていて大変興味深く見ることが出来た。
  又この「駄菓子屋の夢博物館」のとなりに,平成17年2月1日からオープンしたと言う「昭和の絵本美術館」がある。
  この美術館は昭和の町のロゴマークとして使われている「オシックラ」をする男の子と女の子の童画を描いた黒崎義介画伯の遺作である「かぐや姫」「笠地蔵」などの絵本の原画や童画作品など多数の作品が展示されている。時間に追われ,毎日をせかせかと過ごしている都会の人達に,昔懐かしい絵本をゆっくり眺めて見るのも癒やしのひと時かも知れないと思った。

※旧銀行の建物であるが、昭和以前の建築物で頑丈そうな雰囲気である。

 豊後高田と言えば,どうしても観光に外せない,先にも触れたが,寺や石仏を案内したい。
  六郷満山を代表する"山の寺"の一つである胎蔵寺から鬼が一夜で築いたと伝えられる石段がある。けっこう長い石段ででこぼこで歩きにくいが登りきると,忽然と視界が開け,日本最大級の圧倒的なスケールを誇る「熊野磨崖仏」が現われる。凄いと言う他はないが,ちょっと詳しく記して見たい。
  磨崖仏とは岩壁に彫られた石仏のことで,平安時代中期この磨崖仏は作られた,と記されているが,写真で説明が出来ないので行くしかない。鎌倉時代前期の作と言われていて,2体あるが,左側の不動明王像が高さ8m,右側の大日如来像が高さ7mある。いずれも肩から下は彫りが浅く,ほとんどその姿が現されていない。これは鬼が住むと恐れられていたこの山中を修業の場に選んだ胎蔵寺の僧が心の鬼を追い払って悟りの境地に達し,今まさに岩壁から現れんとする,御仏の姿を描き出そうとしたからだと言われている,と記されている。
  又,一夜で鬼が作ったと言う石段の昔ばなしもあるので記して見たい。
  昔,ここには鬼がいて,熊野権現に「田染の里の人を食いたい」と許しを求めた。権現は「それなら一夜で百段の石段を造れ,できれば食うのを許そう」といった。鬼は力を尽くし,あちらこちらと石を集め運んできては石段を築いて行った。そして,鬼が九十九段までできたところで,これでは人間が食われてしまうと,あわてて権現が鶏の鳴き声をまねした。
  鬼は最後の石をになって立石という所まできていたが,鶏の鳴き声を真似すると,それを聞いた鬼はびっくりして逃げていき,百段の石段は完成しなかったと記されている。
  しかし,私が歩いて見ると数えたわけではないが,けっこう時間が掛かったので,2?3百段はあるのではとも思った。
  他に数々の石仏・神社・寺等があるが,どうしても記しておきたい寺がある。
  六郷満山を代表する"里の寺"伝乗寺は,宇佐神宮が領主の威光を示すため田染荘と呼ばれる領地(荘苑)の中心に里の風景を見渡すように開いた寺院で,かつては都の大寺院と肩を並べられるくらいの華麗な堂塔が軒を連ねていたと言われているが,今は廃寺となり当時の面影はまったくないと言うが,その寺に祀られていた平安時代中期から後期にかけての都の仏師の作と言われる9体の古仏は,この村の村人たちが真木大堂と呼ばれるお堂で大切に守り継ぎ,千年の祈りを今に伝えている,これも仏像に興味がある人なら何時間対面しても飽きない凄い仏だと思う。なにしろ平安時代の仏像だから。

 伝乗寺(真木大堂)とともに六郷満山を代表する"里の寺"富貴寺は,九州きっての大領主であった宇佐神宮の大宮司が一族の祈願所として開いた寺院で,彼らの別荘地であったとも想像させるのどかな里の風景のなか,現存する九州最古の木造建築(平安時代後期),(規模は小さいが,古木造建等に興味のある方なら,たまらなくしびれる建築物である)である国宝の大堂が都の平等院鳳凰堂を思わせるような優雅な姿でたたずんでいる。また,堂内の壁画には同じく平安時代後期の都の絵師の作と言われる国指定重要文化財の壁画が極楽浄土の姿を描き出して満面を彩り,あの世の極楽往生をこの世で果たそうとした大宮司一族の祈りを今に伝えていると記されているから凄い。
  このような寺が国東半島のこの場所だけでも六郷満山には,65ヶ寺あったと言うから,いかに仏都のメッカであったかがうかがえる。

 昭和の町の案内から,石仏や寺院について記して来たが,国東半島がいかに仏教で栄えた時代があって,変遷して来たかを伝え,今「昭和の町」として,訪れる人々に街の魅力を訴える,「生きた商店街」の再生に取り組む豊後高田市努力中の紹介であった。

※昭和30年代のガソリンスタンド。ガソリンが46円となっている。灯油21円。
※スズキのミゼットがあったが、今でも動くという、映画の「三丁目の夕日」が思い出される。

「昭和の町」豊後高田 (平成18年9月16日)

昭和30年代の町にやって来た
鈴木ミゼットや丸い郵便ポストが
昭和町を象徴している
お菓子屋もゲタ屋もとうふ屋も
昭和の雰囲気が漂よっていた
お茶やのお茶紙包装紙がなつかしい
昭和のガソリンスタンドが46円になっている
電気屋には昔のテレビ,冷蔵庫,洗濯機
全国から集めた昭和の機具が
なんと2拾万点にのぼると言う
町ぐるみの努力が実った
豊後高田は昭和の町並

 

平成18年9月24日記
 

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