東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀♪」

其の34

愛三木材・名 倉 敬 世

 (先月号で紹介する予定でしたが,紙面の都合により今回にまわりました。)

 「守り刀,そのII,…これは現皇太子の誕生した折の記念の品です」

 短刀 銘 昭和三十八年八月吉日 龍泉貞次謹作 浩宮様御守刀以余鉄
高橋貞次 人間国宝 愛媛県 昭和三十九年愛媛県登録 白鞘入り 百六十五万。
 刃長 八寸五分(25・7cm)元巾 八分九厘 重ね 一分九厘 金無垢二重ハバキ

 皇家に子が生まれると,子の健やかな成長を願い,天皇から「守り刀」が贈られる。
 これを「賜剣の儀」と云う。昭和35年2月23日誕生の皇太子・浩宮徳仁親王殿下の
守り刀を鍛えたのは,昭和三〇年に愛媛県松山市の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された,高橋貞次師であった。
 この短刀はその余鉄で造られた作で,長さは献上の守り刀と寸分違わぬ八寸五分である。地肌は小板目が詰み,地景が繊細に入り,地沸が均一に付いて淡く沸映りが立ち,玉鋼の質の良さが現れている。刃文は直刃で,差表は刃境に金線が稲妻状に躍る。裏は小沸付き小足が入り匂いで澄む。帽子は翁の髭の金線を伴って小丸に返り,極上の仕上がりである。中心の刃区の下の棟に隠し鏨がある,地刃共に澄み傑出した出来映え,天皇家の守り刀の実像を伝える貴重な作品である。
 この短刀の様に注文打ちの余鉄で造られた作品は実際はかなりの数がある。昔はこれを影打ちといって本科と一緒に注文主に納めたが,現在は刀匠の貴重な副収入となっていて,実数は案外多い。横綱の手数入りの太刀はよく売りに出る,土俵入りは一本有れば良いが,贔屓筋からのお祝として何本も届くので,それが全国を駆け巡る。様式が武家太刀なので同じ様に見え刀身の銘迄は確認しないので,10本の内の9本迄がゴッサン!となる。

 
武家太刀様式
(神剣)

 「もののけ姫」の故郷のタタラ場の奥に隠してあった,八岐大蛇の尻尾から出た「都牟刈」(1)の剣は須佐之男命に分捕られて戦利品として姉の天照大神に献上され,「天叢雲剣」(2)と改名されて,長らく宮中に秘蔵されていたが,第十代の崇神天皇の時に神器と同殿同床は,恐れ多いと天目一箇神(鍛冶の租神)の後裔に模造させ,その新剣を宮中に留め置いて,本物は神鏡と共に大和の笠縫村に移し,皇女の豊鍬入姫命に祀らせた,併し,笠縫村とは奈良県磯城郡多村大字新木,同郡三輪町三輪の檜原神社,同郡上之郷村大字笠の坊笠山荒神の地,等と定かで無い。
  ここから始まって,この神剣(天叢雲剣)は以下の如く日本中を転〃とするのである。
第十一代垂仁天皇は,皇女倭姫に命じ剣鏡の二器を伊勢の五十鈴川の畔に移させたと云う。しかし,笠縫山を否定して宮中からダイレクトに伊勢に移したという説,丹後国の吉佐宮,大和国の伊豆加志本宮,紀伊国の奈久浜宮,吉備国の名方浜宮,大和国の弥和御室嶺上宮,等を廻り回ってようやく伊勢に落ち着いたのだとも云われているが,これも定かでは無い。
  他に大和国宇陀の阿貴宮・佐々波多宮,伊賀国の穴穂宮・阿閉拓植宮,近江国の坂田宮,美濃国の伊久良賀宮,伊勢国の桑名野代宮・飯野高宮・多気佐々牟延宮・玉岐波流磯宮,
等を経て,五十鈴川の畔に定着した等と異説も多い。

 次の持主の日本武尊は,第十二代景行天皇の皇子なるも天皇に疎まれ,各地に派遣され初め西国の熊襲を討ち,後に東国の蝦夷を討つたと云う伝説上の人物。
  東征の命令を受けた,日本武尊はその途中で伊勢神宮の斎宮であった伯母の倭姫の許に立ち寄り,倭姫より神剣(天叢雲剣)と火打石の入った袋を貰い,尾張国に入り尾張の国造の娘の美夜受姫と結婚の約束をして,駿河の焼津に至り賊に焼き殺されるところを剣で草を薙ぎ払い,火打石で迎火をして助かった。これより剣の名を「草薙剣」(3)と改名をした。
※ 斎宮(いつきのみや)=伊勢神宮のトップ,代々が皇族の未婚の姫が就く官職,但し生涯独身。

(日本武尊)焼津の図

 以降,日本武尊は敵を追い相模(観音崎・走水)から上総(木更津)に渡海するのだが,この時に海が荒れ船が漂流し死を覚悟するが,妻の弟橘媛が人身御供となり入水したので神の怒りが収まり,九死に一生を得る。
  後に入水した弟橘媛を思い「あづまはや?」(ああ我が妻よ?)と嘆いた詩を歌ったと云う。詩は箱根の足柄峠でと云う説もある,以来,東国を「吾妻…あづま→東」と呼称する次第。

(弟橘媛)入水の図

 次に武尊は,甲斐,科野を平定して漸く尾張に着き,約束を守り美夜受姫と結婚するが,新婚生活をエンジョイする間も無く,伊吹山の賊(白猪)を退治しに出掛ける事になる。
  この時に「草薙剣」を美夜受姫の元に忘れていったので,神の怒りに触れて伊吹山では氷雨に降られ苦戦となり疲れが嵩じて半死半生となるが,居寝の地で清水を飲み生き返る,当芸野では足がたぎ〃〃しく歩行困難となり,杖をついて歩いた坂が杖衝坂,疲れて足が三重に曲がったのが三重の鈎で,これが三重県の県名の由来となる。ようやく能頬野まで来た時に故郷を偲んで歌ったのが,後世に残る有名な,「大和は国の真秀ろば,畳なづく,青垣,山籠もれる 大和し美し」の詩である。

 前述の如く,日本武尊の失敗は最後の遠征で,草薙剣を身に着けて行かなかったことで,これが命取りになってしまった事にある。この剣は伊勢神宮の神威の表象であり皇祖神に仕える斎宮の霊力が籠もった呪器である。この倭媛の霊力により守護されていたのであるが,これを身に着けなかった時,日本武尊は霊威を失い,もはや死を迎えるしかなかった。
  伊勢国の能頬野が臨終の地となるが,大和し美し?の歌を詠った後に危篤状態に陥いり,最後の気力を絞り,「嬢子の床の辺に,我が置きし,つるぎ太刀,その太刀はや?」と詠い,詠い終わるや否や,息絶えとなりそのまま亡くなってしまった,と記紀は伝えている。
  其の後,親族縁者の多数が大和より駆けつけ,盛大な葬儀を営なみ巨大な御陵も造るが,魂は白鳥となり飛び去り河内国の志幾に留まる,ここが現在もある白鳥の御陵であるが,ここも瞬時の滞留で又もや日本武尊の霊魂は飛び立ち,今度は天国に向った様でござる。
  さて,其の後の草薙太刀はどうなったかが問題であるが,「平日之約を違へず独り御床を守りて」,神剣を安置した美夜受姫が,その霊威が未だ依然として盛んなるにより,新旧を曾集めて相協議をした結果,尾張の熱田杜に奉納した。その事により以後,「草薙剣」が
熱田神宮のご神体となり今日に至っている。

 第三十八代天智天皇の御代に,新羅の僧の道行が神剣を盗んで新羅に持ち帰ろうとした,しかし,神罰が当たり,乗船が台風にあって押し戻され難波に漂着し,道行は捕らえられ斬に処せられ首が無くなった。以降,熱田神宮では危ないとなり,皇居に留めおかれたが,第四十代天武天皇(673?685)が病になり,陰陽師に占わせたところ,神剣の祟りと出たので,早速,熱田神宮に返還された。以来,連綿として今日まで同社に鎮座ましましている。
  現在,草薙剣はご神体の為,拝見は叶わないが,平安末期の安元二年(1176)に現物を見た大中臣親俊が描いた図(図1)によると,両刃の剣になっている。鍔のところには「鉄鍔」,柄のところには「絹纏」と注記されている。
  江戸時代の末期頃に熱田神宮の祠官であった,松岡正直から聞いた記録では,土用殿に長さ五尺程の箱が有り,その中に石の箱があって,蓋を開けると,楠の木を刳り貫き中に黄金の延べ板が張ってあり,神剣が安置されていた。長さが二尺七?八寸で,菖蒲の葉の形をしており中央に鎬があり,元の方の六寸ばかりは魚の背骨のように筋立っていたとの事であるので,そこが柄のはずであろう。さすれば,これは間違い無く両刃の剣であり,
色は全体に白っぽかったとの事なので,青銅製の剣だったと云うことになる。そうなると,これは正に神話の世界で,隋・唐(600?900)時代の鋼と錫と鉛の合金の佐波理製の剣で今に残る,越王・鈎践の剣と同じ物と云う事も考えられる。さすれば,チョー国宝だがゃ…。

 明治の始め,フェノロサ等の提唱により,日本全国の古社寺等の調査が行われた折には,神官たちも斎戒沐浴して勅使が到着するのを待って,いざ,オープンとなる寸前に主席の役人が怖気づき,「もう一度,斎戒してからにしよう」と中止を申し渡し,作業を中止したところに,太政大臣の三条実美の「開函中止!」の急使が来た。それで折角のチャンスを
逸し現在に至っている。

熱田神宮(熱田社)=名古屋市熱田区神宮1?1?1
祭神 熱田大神=天照大神・日本武尊 延喜式では伊勢神宮に次ぐ由緒とある。官幣大社。
  垂仁天皇の皇女・倭姫命が天照大神をお祀りするとして,伊勢の五十鈴川の畔に鎮座する。七世紀後半の天武・持続朝(673?696)の時に倭王権の皇祖神としてその地位を確立した。元来は尾張の国造の一族である大宮司家が管理しており伊勢神宮と同じ神明造りの古社。源頼朝の母が大宮司家の出のため,鎌倉幕府の尊崇が事のほか厚く,その後も足利,織田,豊臣,徳川の各氏から崇敬された。特に永禄三年(1560)織田信長が祈願し桶狭間の戦にて今川義元を倒し大勝を得た為に一躍その名を高めた。20年毎の式年遷宮がチョー有名だわ。
宝物4000点,内,平安期?現代迄の刀剣類が360点。…国宝,重文,県文,計32口…。

重要文化財

  脇差 銘(裏・葵紋)奉納 尾州熱田大明神
               両御所様被召出於武州江戸御剣作御
               紋康之字被下四能上刻籠越前康継

又,日本武尊のお后の美夜受比売(宮酢媛)は死後に「氷上姉子社の天神」となる。
  愛知県海部郡甚目寺町上萱津 萱津神社 村社。



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