東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀♪」

其の35(神剣の受難)

愛三木材・名 倉 敬 世

(正倉院宝物・金銀螺鈿唐太刀)
 
  第十代・崇神天皇(564〜637=在位73なるも,これは皇紀年号に付,実年と合わず)の時,鍛冶屋の祖である天目一箇神の子孫に,天叢雲剣を模造させた新剣が,三種の神器の一つとして宮中に留め置かれたが,その新剣の運命は如何なる事に成り候や,と申しますと…。
  この新剣も不幸な運命を辿った。壇の浦で平家一門が全滅した元暦二年(1185)3月24日,平清盛の未亡人で二位禅尼時子が,新剣を抱いて海中にザンブと投じた。驚いた源氏では近くの海女を総動員して海底を探らせたが,ムダ〃〃無駄にて,以後,本日迄行方知れず。

 安徳天皇は寿永二年(1183)7月25日,平家と三種神器を携え西走の途に出られたが,朝廷では「帝位は一日たりとも空位には出来ませんぞ」と,翌八月二十日にわずか四歳の後鳥羽天皇が三種神器が皆無なのに即位されて帝位に就かれた。これも前代未聞だが後日この事が前例となり,南北両朝の皇位争奪大合戦の大義名分となり,活力の源となる。
  この82代後鳥羽天皇(のち上皇)も不運な方で,承久の乱で幕府の転覆を企てるが失敗し,上(天)皇の身で本邦初の流罪(隠岐島)の第一号となる。これも前代未聞のことである。
併し刀剣が大好きで,まだ上皇として京都で院政を敷いていた頃は各地の名のある刀工を御所に呼び,その鍛えた太刀に自らが焼刃をして毛彫りで菊紋を施し近侍の公家や北面・西面の武士に与えた,これを「御所焼き」と称し品格と値段がベラボーに高い太刀である。

後鳥羽上皇画像(水無瀬宮) 国司・播磨守有忠の観刀図

 この後鳥羽天皇の御所での相手をした鍛冶を「御番鍛冶」と呼び,二ヶ月交代の輪番で,始めは12名だったが時代が下るにつれ段々に増え最後は24名となった。上皇が隠岐に配流された後も隠岐番だと云う鍛冶の名もあるが,これは多分に後世の勇み足であろう。
  [後鳥羽院・番鍛冶](観智院本院銘尽)
    正 ・二月  備前・則宗 備中・貞次
    三 ・四月  備前・延房 粟田口・藤三郎国安
    五 ・六月  備中・恒次 粟田口・国友
    七 ・八月  備前・宗吉 備中・次家
    九 ・十月  備前・助宗 備前・行国
   十一・十二月  備前・助成 備前・助近
  以上の12名であり,メンバーは備前の一文字派が最も多く,備中の青江派と京,山城の粟田口派が続いて居るが,これは前時代に続いてなお備前鍛冶の隆盛を物語るものである。

太刀 菊御作(二十四葉菊花紋がある)東京国立博物館蔵

 太刀 無銘 菊御作 刃長77.27cm(二尺五寸五分)反り3cm(1寸)鎌倉時代(13世紀)。
この太刀は五摂家の一である九条家に伝来したもので,後に明治天皇に献上されたものだが,24花弁の菊はこの太刀だけ,後は全て16花弁,これらの太刀を総称して「菊一文字」と呼ぶ。尚,皇室の「菊紋」の使用は後鳥羽上皇(1190)からで,それ以前は全て「桐紋」オンリーである。

 さて,後鳥羽天皇〜土御門天皇の25年間は本来は清涼殿にある昼御座御剣を以って,神器の代理とされていたが,順徳天皇が承元四年(1210)11月25日に代理の神剣を持って即位されると,翌月,伊勢神宮から夢のお告げがあったとして,蒔絵太刀を献上して来た。以後はこれを以って,三種の神器の一の神剣とされる事になった。
  しかし,その後も政局の動向によって,幾多の波瀾は絶え間なく続いて行くのである。先ず,元弘の乱では後醍醐天皇が笠置山に籠り倒幕の挙に出られると,執権・北条高時は光厳天皇を元弘元年(1331)九月二十日帝位に就かせた。三種の神器は敵方の後醍醐天皇の手許に有ったので,後鳥羽天皇の前例が有るとして神器なしで即位を決行したのである。
  笠置山が陥落し,囚われの身になった後醍醐天皇に迫り,神器を光厳天皇に譲らせたが,しかし,それは偽物であった,本物はこの様な事が有るのを予想して密かに隠匿していて,同時に偽物も周到に用意をしていた。

後醍醐天皇画像 足利尊氏の木像

 後醍醐天皇は足利尊氏の寝返りによって鎌倉幕府(北条氏)を倒した後も,尊氏の反逆に悩まされ続け,結局,尊氏に武力で負けて,神器も北朝の光明天皇に譲る事になるのだが,この時も,又もや予ねて用意のニセ物を渡し,本物は渡さなかった。そして南朝は意外に
頑張るのである。それは後の南朝の後村上天皇の歌に「四つの海浪もおさまるしるしとて,
三つのたから身にぞ伝ふる」とある様に,本物はこちらにあり皇室の正当性も南朝に有る,という強烈な自負があったからこそトータルで56年間も頑張れたのである。
 しかし,後醍醐天皇は偽物を渡した翌々月に夜陰に紛れて,京都を脱出することになる。ご自身は女房姿になり,三種の神器は女官の勾当内侍が持ち,築地の破れから抜け出ると,外に刑部大輔景繁が馬を引いて待っており,天皇は天馬に飛び乗り吉野を目指して一目散。
  それから十年後,足利尊氏は南から南朝,北から弟の直義に攻められ窮地に陥ったので,正平六年(1351)十月,偽って南朝に降り,神器を南朝に返還したが南朝ではそれが偽物と広く世に知らしめる目的もあり,剣と鏡を近臣に与え,勾玉はポイとポイ捨てをしてしまう。

 しかし,それらは偽物では無かった,と云う説もある。建武三年(1336)に後醍醐帝から光明天皇に渡された時,足利方でも神器を見知りの公卿達に鑑定をさせた。油小路隆蔭や正親町実継らが点検をして,櫃への納め方,封印の方法,神剣の石突の脱落,勾玉の箱の紐が少々切れている処まで子細にチェックして,「異常はござらん」と報告をしている。
  この事は,当時の足利方の実権を握っていた光厳上皇の日記にも記されて有る事なので,偽物では無かったという説も有るが,当時は魑魅魍魎の世界でウソも800以上でござった。
  しかし,この時これは本物と判定を下されていたらどうなったか,多くの天皇の即位は否定されて「皇統譜」それ自体が成立せず,想定外の連続となりひょっとすると,現世は熊沢天皇系の治世と成っていたカモ。…等と申すとコレデ貴方は立派な不敬罪でござんす。又々,しかし,この時点での「三種の神器」の有様も報告を致しておきましょう。
I.「草薙剣」 本物は熱田神宮で永久保存,コピーも平家と共に海中へ,後は貰い物の剣。
I.「八咫鏡」 三度の火災に会い寛弘二年(1005)の火災で原形はパァー,破片の残欠が少々。
I.「勾 玉」 石の種別は不明だが形状が幸いして伝世品が残っている。石は翡翠が最上。
  因って,三種の内,健全なのは一種のみ→3割3分3厘+残欠。これでは総会は通らん。

 後醍醐天皇が延元元年(1336)の暮れに本物の神器を持って吉野に潜幸し南朝を開いた後,後村上・長慶・後亀山の三帝を経て,明徳三年(1392)十月ようやく南北両朝の和議が成立し,約60年に亘る日本を二分した騒乱に終止符が打たれた。

国宝 上杉謙信 愛刀(南北朝期)

〜この60年間が日本刀の完成期で史上で一番,重厚長大な素晴らしい太刀が造られている。

 これより,北朝の後小松天皇が即位するが,この和議の条件として帝位は今後は両朝が,交互に継承するハズであったが,北朝はこれを守らず,この後も称光天皇・後花園天皇と北朝系の天皇ばかりが続いた,これは北朝が南朝を全く舐め切っていたからに他ならない。
  そして足利義満が征夷大将軍となり,室町第に幕府を開設,花の御所の応永時代となり,各々,将軍を中心とした,北山文化(義満)〜この間,約100年〜東山文化(義政)が栄える。

漆絵競馬太刀大小拵え(重文・巌島神社)

 併し,当然ペロ〃〃と舐められて遺臣は怒った,嘉吉三年(1443)9月23日の夜半
楠 次郎,日野有光に率いられた300名程が宮中に乱入し,神剣と勾玉を奪い御殿に火を掛けて逃走し比叡山に立て籠もったが,僧徒に追われ尊秀王も日野有光も討死を遂げる。
  残党は神剣と勾玉を持ち逃走するが,神剣は長過ぎて隠しおおせぬ為に清水寺の堂中に,「大内の三種神器にて候,返し申され候へかし,わろくせられて,罰あたられ候まじく候」との手紙を残して逃げた。これを清水寺の心月坊が手紙と一緒に神剣を宮中に返しに来た。
  神剣はこうして無事に帰ったが,勾玉は隠し易いので遺臣達は吉野に持って帰って来た。そして,南朝の皇胤である一宮を奉じて立て籠もった。それから15年後の長禄二年(1458),赤松家(嘉吉元年(1441)6月,赤松満祐が六代将軍・足利義教を殺害して断絶)の遺臣らが吉野宮を襲い勾玉を奪取し幕府に献上した。その功により断絶をしていた赤松家は再興を果たし,恩賞として加賀の半国を賜った。その時の当主は四歳の法師丸だが,これが後の備前伝の名手で,備前・播磨・美作の大守,赤松政則その人である。

刀銘 兵部少輔源朝臣政則作 長享三年八月十六日

 剣璽(剣と勾玉)は当時は常に天皇の御座所(居間)に置かれていたが,御座所が時代により平安時代は,仁壽殿,清涼殿,寝所の二階,室町時代では新設された剣璽の間や常の御殿,幕末(安政)の頃には夜の御殿(寝所)の天井に吊るしてあったと云う記録も残っている。
  明治になって皇居が東京に移ってからは,やはり常の御殿の上段の間に安置されていた。現在の新宮殿になってからも,似たような形式のハズである。

 天皇は普段に紫宸殿に出御される時にでも,剣璽を携帯される事になっていて剣璽役の典侍(女官)が「剣璽の間」から取り出して来て内侍(上級女官)に渡す,その受取った内侍は天皇より前方を歩き,他の内侍が勾玉を受け取って天皇の後から行く事になっている。
紫宸殿では天皇は南面して立たれ,神剣を捧持した内侍が西に立つ。天皇が着座されると,神剣は天皇の左の前,勾玉は右の前の卓上に置く事になっている。
  新帝が即位する「剣璽渡御」の儀式の時だけは,内侍が直接に神剣を取り出しても可となっている。天皇の行幸の時も内侍が剣璽を捧持して行くが,その介添えとして近衛中将・少将が付き従って,天皇が着座されると神剣の柄を右に刃を外にして置く,勾玉は神剣の内側に置く定めである。
  明治以降,現在は剣璽役は女官から男性の侍従に替り,天皇が歩行される場合は侍従が神剣を捧持して,天皇より先行する事になっている。

剣璽捧持の内侍

※ 次回はメデタ〃〃のお正月ですので,「天皇のお守り刀」のご説明を申し上げます。



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