東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.82

"明けまして,おめでとうございます。"

「歴史探訪 No.47」
「山岡鉄舟」と言う人物

青木行雄


 一口に言うと,江戸城の無血開城を実現した幕末の偉人「山岡鉄舟」と言うことになる。

 私の知人に,この「鉄舟」の曾孫にあたる人がいて,この話を聞き,大変興味を持ち谷中の山岡家の鉄舟が眠る「晋門山全生庵」と言うお寺を訪ねることになった。

 紅葉が進む11月のある日,JR「日暮里」駅南口を出て,小さな歩道の紅葉坂を登った。そこには有名な谷中霊園がある。歴史に興味があって,昔の有名人に郷愁を感じ,又また興味が深くて,好奇心の旺盛な方は,こたえられない場所かもしれないと思った。
  天王寺の毘沙門天を拝み,左に進むと,左に谷中五重塔跡があった。あの幸田露伴の小説「五重塔」のモデルであるが,昭和32年放火のため焼失したと言う。五重塔の跡と書かれた立札があった。誠に残念である。
  この辺から,谷中の桜並木は続く,かなりの老木ではあるが,春の桜の花は凄いだろうなあと思いながら,あたりを見ながら歩いた。川上音二郎,渋沢栄一,横山大観,長谷川一夫,等々の墓所に対面しながら,三崎坂を下り,「晋門山全生庵」に向った。谷中に寺が何拾寺あるか分からないが,右も左も寺ばかりである。その中に三崎坂の途中に「全生庵」はあった。今,歴史探訪がブームとかで,カルチャーセンターや,旅行社等でクラブやコース別に募集し,有名史跡を探訪する会がある。丁度この「全生庵」にも,「山岡鉄舟」の史跡探訪があって,何組かのチームが来ていた。私もこの案内人の話を横耳で聞きながら,「鉄舟」の話に聞き入った。丁度,鉄舟とも縁の深い三遊亭円朝の会合があって,寺内は,何代目かの円朝の会で賑わっていた。そして帰りは地下鉄日比谷線の「千駄木」駅まで歩いて,帰途についた。

 それでは,「山岡鉄舟」について,鉄舟史より,拾って記して見る。

「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)
  山岡鐵舟,子爵,鉄舟は号,他に一楽斎。
  通称-鉄太郎(鐵太郎)
  諱は-高歩(たかゆき)
  千葉周作門下の剣客で,江戸幕府剣術世話役,「勝海舟」,「高橋泥舟」とともに「幕末の三舟」と称されたと言う。

 1836年(天保7年)6月10日,江戸本所(今の墨田区)で御蔵奉行小野朝右衛門高福の四男として生まれている。母は塚原磯女。
  9歳の頃から久須美閑適斎と言う人に剣法を学び始めたようである。その後,飛騨郡代となった父に従い,飛騨高山に行ったのが,1845年(弘化2年)10歳の時となっている。
  そんな訳で幼少時代を飛騨高山で過ごした。書家で弘法大師流入木道(じゅぼくどう),五十一世の岩佐一亭と言う人に書法を習う。そして,15歳の時に,この書家の書法を受け継ぎ五十二世を引き受け,一楽斎と号した。
  16歳の時,母磯女が高山陣屋に四十一歳で病没した。
  この年,父の招請で高山に北辰一刀流井上清虎を招き,剣道の指南を受ける。
  父朝右衛門高福も,鉄舟17歳の時,高山陣屋にて七十九歳にて病没した。父の死後,弟らを連れて江戸に帰り,義兄,小野磯三郎の許に寄る。
  1855年(安政2年)講武所に入り,千葉周作について剣を学び,又同時期,山岡静山に槍術を学ぶ。静山急死のあと,静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり,静山妹,英子(ふさこ)と結婚した。結婚した当時,身長6尺2寸(188センチ),体重28貫(105キロ),当時としては並外れの体格であった。
  剣道の技倆抜群により,講武所の世話役となったのは,21歳の時であった。
  1857年(安政4年),清河八郎(清川とも書いた史書がある)ら15人と尊皇攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成した。
  1863年(文久3年)浪士組(浪士隊ともある)(新撰組の前身)取締役となり,将軍徳川家茂の先供として上洛するが,間もなく清河の動きに警戒した幕府により浪士組は呼び戻され,これを引き連れ江戸に帰った。同志清河八郎暗殺され,後は謹慎処分受ける。そして浪士組は,新徴組として再組織される。この頃,浅利又七郎に出会い剣を窮め一刀流の免許皆伝を許される。
  NHKのドラマ「新撰組」を見た人も多いと思うが,清河の動きに警戒した幕府が,浪士組を江戸に呼び戻す所等,目に浮ぶようである。

 1868年(慶応4年,明治元年)鉄舟33歳の時は精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した「勝海舟」と「西郷隆盛」の会談に先立ち,3月9日,官軍の駐留する駿府にたどり着き,単身で「西郷隆盛」と面会。このとき,官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来,山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったと記されている。そして,「西郷隆盛」との談判において江戸開城の基本条件について合意を取り付けることに成功したのである。その行動力は,「西郷隆盛」をして「金もいらぬ,名誉もいらぬ,命もいらぬ人は始末に困るが,そのような人でなければ,天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させたと言う有名な言葉が残っている。
  慶応4年3月13日〜14日の両日,「勝海舟」と「西郷隆盛」の江戸城開城の最終会談にも鉄舟は立ち合っている。その5月,若年寄格幹事となったとも記されていた。
  そして,この年の7月,江戸を東京と改称された。
  1868年,慶応4年が明治元年に改元した年であるが,大変革の年であり,資料を見るだけでも大変な年であった事がうかがえる。日本史年表(歴史学研究会編)を見ると,9月8日,「明治と改元し,一世一元の制を定める」と記されていた。
  明治維新後の明治2年(1869年),徳川家と共に鉄舟は静岡県に下り,静岡藩藩政補翼となり,清水次郎長と合い意気投合した,とも記されていた。鉄舟34歳の時であった。
  1871年(明治4年)廃藩置県に伴い,新政府に出仕す。そして静岡藩権大参事,茨城県参事,伊万里県権令(現在の知事)も歴任した。
  1872年(明治5年),西郷のたっての依頼により,宮中に出仕し,侍従番長となり,明治天皇の側近として奉仕もした。侍従時代こんな逸話もあるので記して見た。深酒して相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり,明治6年に皇居仮宮殿が炎上した際,淀橋の自宅からいち早く駆けつけ,安全をはかった等,いろいろとエピソードが記されている。
  1877年(明治十年)鉄舟42歳の時・2月,西南の役起こる。
  そして鉄舟は,宮内少丞,宮内大丞,宮内小輔を歴任した。
  明治大帝が国内巡幸の際は,御用掛として方々に同行又は先発として行っている。
  1882年(明治15年)鉄舟47歳の時,西郷との約束通り致仕,宮内省は辞したが,恩命により宮内省御用掛を受ける。
  そして明治20年5月24日,52歳の時,功績,特旨を以って華族に列せられ,勲功により「子爵」に任ぜられた。

 剣・祥・書の達人として知られ,剣術では一刀正伝無刀流(無刀流)を起こした。書も巧みで各地で鉄舟の書が散見されると言う。生涯に100万枚書いたという説もあるくらいである。また禅においても,30里離れた三島の竜沢寺,星定和尚のもとに3年間参禅し,箱根で大悟したと言う逸話もある,と記されている。禅道の弟子に「三遊亭円朝」等がいたと言う。こんな係わりから,鉄舟の墓のすぐ近くに円朝の墓があったのかも知れない。
  1883年(明治16年)鉄舟,48歳の時,維新に殉じた人々の菩提を弔うため,本人の墓のある台東区谷中に「普門山全生庵」を建立したのである。
  1888年(明治21年)53歳,2月,紀元節に最後の参内を果した。6月,従三位を贈られたが,その年の7月19日午前9時15分,皇居に向かって,座禅のまま絶命,大往生を遂げたのである。死因は胃癌であった,と言う。享年53,そして自分の建立した,谷中の「全生庵」に眠る。
  戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」と墓に記されていた。

※鉄舟本人を簡約表現すると。
1836年(天保7年)生れ
幕末徳川側人物,幕府家臣
武士,明治時代の政治家
一刀流剣術家(江戸幕府剣術世話役)
剣客(千葉周作門下の)

能書家
1888(明治21年)53歳で没

        「山岡鉄舟」          (18. 12. 3.)

     江戸の本所で四男として生れ
     幼少時代は飛騨高山で過ごし
     幕末の動乱で活躍をした
     新撰組にもかかわりあった
     幕末の幕府家臣で三舟と称される(勝海舟,高橋泥舟)
     無血開城を実現した
     一刀流の剣術家でもあった
     禅の道にも愛敬深く
     書に関しても達人級
     書いた枚数100万枚
     明治天皇ささえて努力
     自分の力で「子爵」までのぼり
     従三位まで贈られた
     「全生庵」のお寺も建てた
     皇居に向って,座禅をしつつ
     大往生の生涯を閉じる。


※ 東京都台東区谷中 5?4?7「普門山全生庵」 地下鉄千代田線「千駄木」駅下車徒歩5分
平成18年12月3日記
 

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