東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(12)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 先月18日に行われた「東海道ネットワークの会例会」は,高天神城趾,横須賀城趾の散策と,今NHK大河ドラマ(功名が辻)で脚光を浴びている掛川城の見学であった。
 高天神城は今川領の時代に武田信玄が侵略して武田領とした。信玄死亡後,徳川領の中に盲腸のように突き出た高天神城が目障りであった家康は,次第に衰えて行く勝頼の勢力が絶えるのを待てずに,城を取り囲み,その包囲網は,十間に一人の兵士を配置するという厳しさであった。
 作家新田次郎氏が,小説「武田勝頼」の中で高天神城の攻防について触れているが,大作家新田氏の心を揺さぶる程の激しい戦いであった,と見学に際し,秋庭会長から説明があった。小高い丘の頂上に神社があったが,それを移設して堅固な城が築かれた。四方が谷で,自然の要塞が攻め落すことを一層困難にしている。そこで家康は,兵站の補給路を絶ち,兵糧攻めで,体力の衰えを待つ持久戦とした。城中では,水,食糧が枯渇し,城兵は土壁を砕き,竹を編んだ紙のこよりを集めて,煮て,飢えを凌ぐ,という悲惨な状態であった。
 やがて城は落ちるのであるが,次のような逸話がある。
 城内の栗田刑部という武将から包囲軍に対し「寄手の陣営に幸若与三太夫という舞いの名手がおられるようだが,この世の思い出に一さし所望したい」という依頼が届いた。
 家康はこれに応じ,幸若与三太夫は,「高館」という曲を謡い,舞った。城兵たちは掘際まで寄って来て,舞いと謡いに感涙を流し,お礼に織物を贈ったという。
 横須賀城は高天神城と指呼の間にあった。従って,徳川軍が高天神城を攻略する拠点となった。城の下は海岸であったが,地殻変動によって,四百年後の今日,海岸は四粁米の彼方へ後退した。城の建物は全く残っておらず,僅かに斜面の石垣と水桶が当時を偲ぶよすがとなっている。広い敷地は公園になっており,お年寄りがゲートボールに興じている。
 案内役ネットワーク会員の長老氏は,大変な博学の人で,「この水桶は三和土(たたき)でできており,にがり,石灰,砂利を水で練って作られています。」と説明をされた。私も三和土(たたき)は言葉としては知っていたが,三つの要素から成る土で,今のコンクリートの元祖であることを教えられ,目から鱗が落ちる思いがした。
 最後の見学は掛川城,功名が辻の主人公,山内一豊,千代の人気は大変なもので,多くの人で賑わっている。
 ボランティア婦人の説明によると,掛川市に住む裕福な婦人が,掛川市長と対談していて,市長に今何が欲しいですか,と訊いた。市長は軽い冗談の積りで,城が欲しい,と云った処,それではと,ポンと五億円を出したという。それを元手として市民からも寄付が集まり,何んと二十億円になり,城が建てられたと云う。
 "瓢箪から駒"という譬えがあるが,これは将に冗談から城とでも云おうか。
 鏡台の中から,ポンと二十両を出し,一豊の出世の糸口を作った妻千代の内助の功に勝るとも劣らぬ,老婦人の心意気に思わず脱帽である。





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