東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.84

「歴史探訪NO.48」
「江ノ島」と「龍口寺」

青木行雄


 江ノ電の江ノ島駅より一駅の腰越からすぐ近くに「龍口寺」はあった。
  正月の「鎌倉」「江ノ島」は参拝客等でかなりの人出でごった返していた。平成19年,3ヶ日の初詣客は鶴岡八幡宮だけで全国6位の234万人と発表されている。
  江島神社の狭い参道は満員電車の中のようであり,神殿まで入口より一時間以上かかった。
  江ノ島には行く機会は多いが,すぐ近くの「龍口寺」には以外と足を運ぶ人は少ないと思う。鎌倉幕府の鎌倉時代,幕府と日蓮との係わりは大きいし,私には大変興味のある場所でもあったので「龍口寺」に先に立ちよった。以前近くに住む友人に案内してもらった事もあったが,今回詳しく記して見たい。

 「寂光山龍口寺」(この界隈を竜の口ということから竜口寺ともいうと記されている)は江ノ島を望む片瀬山の眺望の良い南端にある。腰越のメーンストリートはこの寺の前から始まる。江ノ電はこの通りの真中を走っていたが,残念なことに商店街の多くはシャッターが閉まっていた。
  龍口寺のこの場所の一部は,もと鎌倉幕府の刑場があった場所で,刑場の碑が立っている。無数の人間がこの場所で刑罰を受け死刑(斬首)を受けたと言うから,この付近を掘れば,いまだ無数の遺骨が眠っているに違いないとも思った。ここに入れられ,死刑になっていないのは「日蓮」だけだと言う。
  この場所は以前波打ち際で砂浜でもあったのではないか。龍口寺のある高台は,山を削って平地とし,土を砂浜に広げた場所かも知れないと思う。
  石段を上がると,左手に日蓮の土牢というのが残されていて,戦時中で言う防空壕のような,又海蝕洞穴であろうか,新たに掘ったのか,日蓮が入れられたと言う穴があって,木枠越しに中を見ると,日蓮像が置かれており,私の宗派は違うが思わず手を合わせたくなる光景,情景であった。
  正月だからかは分からないが,出店がかなりあって,寺内では読経が続き,マイクを通して院内に大きく響き渡っていた。
  この龍口寺は,日蓮の霊地として,日蓮の死後55年後の1337年(延元2年)に草庵を結んだとある。その後,最初の僧侶に賛同する僧がいて,たちまち輪が広がり,それから20年の間に,ほぼ現在の原型となる大寺が完成したとなっている。
  竜口とは,江ノ島の洞窟に住むという竜神の入り口という意味と言うから,江ノ島とこの龍口寺はかかわりが深い事になる。
  この刑場での日蓮が救出された様子は詳しく記すが,江ノ島から飛来した鞠のような光り物は,この竜神の持つ球だったとする考えも伝わっていると言うから,なんと魅力的で神秘的な話ではないか。
  ドキュメント「竜口の法難」では,流星としているようだが,それが稲妻だとか,月光とか,いろいろ説はあるようである。
  竜口の法難から足かけ3年後の1274年(文永11年),日蓮は罷免され鎌倉に舞い戻ってきた。その後,幕府のいさめに対して自ら身延山に隠棲をするのである。そして方針を変更して,後継者,弟子の育成に努め,法華宗を日蓮宗に換え,壮大な法華曼荼羅を伝え,今日に至ったのは,日蓮に続く僧達であったのである。

 それでは,「龍口寺」縁起より,概略を記す。
  鎌倉時代の後期,日本中は内乱が続き,外には蒙古が攻め寄せるという武家政治の危機に瀕していた。民衆は飢餓に苦しみ,疫病が蔓延して,まさに生き地獄のような悲惨な状況下にあった頃のことである。
  日蓮は,この惨状を救わんとして「立正安国論」を撰述,幕府に奏上し,国の無謀な政策を諌め,法華経による国家の平和を願い,民衆救済の方法を提起した。
  幕府は,この宗教運動を理解せず,政策の中傷と誤解し,当時の法律である「貞永式目」に照らして,「悪口の咎」に当たる者と勝手に解釈した。1271年(文永八年)9月12日,鎌倉松葉谷の草庵で説法中の日蓮聖人を捕らえ,市中引回しのうえ,この地,龍の口刑場に連行したのである。当地の龍の口刑場は罪人すべてを斬首の刑に処した処刑場であった。
  ところが,日蓮聖人の場合,幕閣による評定(裁判)を経ずして,直接刑場に連行したため,有力な幕閣から大きな異議が出されたのである。夜中にもかかわらず,早速評定が開かれ,処刑中止を求める意見が多数を占めた。やむをえず幕府は夜半に至り,刑場に使者を送り,その旨を伝えた。刑場では,処刑役人が,幕府の決定を今か今かと待ちかねていたが,翌13日子丑刻(午前1時前後)に至り,日蓮聖人を土牢から引き出し,敷皮石(座布団状の石の上に皮を敷く)の上に座らせ,斬首の準備を整えた。このとき,日蓮聖人は,法華経の行者として法華経に命を捧げることは,むしろ喜びであると,泰然自若として,題目を大音声で唱え,首の座についたという。
  日蓮聖人の手紙には,『このとき江の島の方から満月のような光りもの』が飛来して,斬首役人は目を眩み,おののき,倒れたと記されている。伝説によると,このとき処刑に使われた蛇胴丸という名刀に,この光りものがかかり,三つに折れたともいう。いずれにせよ,幕府の使者が到着して,斬首の刑は中止されたのである。龍の口刑場へ連行されて,処刑中止となった人物は,歴史上日蓮聖人以外,誰も居ないと記されている。
  日蓮聖人は,その日のうちに依智の本間重連の館へ移され,やがて幕府の面目上佐渡へ遠島と決まり,赦免までの足かけ3ヶ年,流人生活を送ったのである。首の座の法難を体験した日蓮聖人は,ますます法華経の行者として自己の信念を確立した。さらに上行菩薩の再誕の身であると自覚し,立正安国の運動を推進したのである。篤信者四條金吾殿に充てた手紙には,「龍の口に日蓮が命をとどめおくことは,法華経の御故なれば,寂光土ともいうべきか」とあり,この龍の口の地こそ寂光土,すなわち仏のおはす極楽のような所だと述懐されている。
  日蓮聖人入滅ののち,直弟日法聖人が1337年(延元2年)に一堂を建立,自作の日蓮聖人像と首の座の敷皮石を安置したのが,この寺のはじまりだと記されている。爾来,この由緒をもって,寂光山龍口寺と称し,祖師堂を敷皮堂とよんだ。その後,連綿と法灯を継承し,日蓮聖人四大法難中,屈指の霊跡と称され,日蓮宗霊跡本山中随一の存在として,今日に至るとある。
  龍口寺では,昔から毎年9月11日・12日・13日を龍口法難会と定め,厳粛かつ盛大な大法要が営まれる。とくに,12日の夕刻から13日払暁にかけて,毎年近在講中の万灯数十基,参詣人数十万人が参集,門前には夜店が立ち並び,いまでも大変な賑わいであると言う。
  特に12日夜6時と13日午前0時の大法要には,日蓮聖人が龍の口へ連行される途次,鎌倉の桟敷尼が,鍋蓋に胡麻牡丹餅をのせて供養したという故事にちなみ,堂内で参詣者すべてにゆきわたる程の牡丹餅が撒かれる。この牡丹餅は,鎌倉時代の手法そのままに,講中の人々が題目を唱えながら手作りする。いつの間にか,この牡丹餅は難除け牡丹餅と呼ばれ,これを食すると年中無難,あらゆる災難を免れる効験があると喧伝された。

 以上が「龍口寺」の宣伝も兼ねた縁起のいわれであるが,日蓮聖人の鎌倉時代,幕府との関わりが多少お分かりかと思う。


※「龍口寺」本堂,正月の3日階段を登る前から,読経が,マイクを通して,寺内に大きく響き渡っていた。他寺にない雰囲気であった。

※日蓮が入れられていたと言う土牢。中には日蓮の座像がまつられており,花や,牡丹餅があげられていた。

 そして「龍口寺」を後にして,江ノ島へと移動していった。

 江ノ電の江ノ島駅から,江ノ島へ向って歩き始めた。東京オリンピックの1964年(昭和39年)ヨット会場になって立派な自動車道路が完成し,歩道も別に出来て大変良くなった。しかし正月,自動車での島行きは駐車場が少ないので,何時間もかかったようである。


※正月の江ノ島は車の行列であった。

 1891年(明治24年)に弁天橋が完成したとなっているが,歩道を通って10分以上かかっただろうか,「江島神社」の参道の入口についた。この「江ノ島弁財天」は鎌倉に幕府を開いた「源頼朝」が1182年(寿永元年)に「文覚上人」に命じて勧進したと言う。今も残るこの江島神社の参道は昔の面影が残り,参道が狭く,正月の初詣は人でごった返し,満員電車の中のようであったが,登山用エスカレーターが側面に出来て,上まで行くには,料金はかかるが楽になった。
  江戸時代の1862年(文久2年)「知らざ言って聞かせやしょう。名さえゆかりの弁天小僧菊之助たあ俺のことさ」と名セリフのたんかを切る歌舞伎「白波五人男」による弁財天参りを兼ねる物見遊山で,賑わいだしたと言うことらしい。全裸の弁財天像も人気となったようである。


※江島神社正面。正月かなりの行列で,お参りにかなりの時間がかかった。私の知人にも正月は必ず,この江島神社にお参りしなければ,一年が始まらないと言う人がいる。

 この江ノ島は藤沢市の行政で,歴史を見て江ノ島内の記事について記して見た。

 以前,江ノ島の頂上部に植物園があったらしい。これは与願寺の菜園だったのを,1869年(明治2年)に来日した英国人貿易商の「サミュエル・コッキン」が買取り,1882年(明治15年)から1885年(明治18年)にかけて自宅用の庭園として開園したものと言う。コッキンが建設した温室は1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊したと言うが,地下にその基礎が残っていることが判明し,藤沢市が発掘調査した。レンガを使ったしっかりしたものなので,サムエル・コッキング苑内に文化遺産として残された。コッキンはアイルランド生まれで横浜居留地での貿易事業が成功し,日本女性と結婚し,江ノ島に自宅を造ったと言う。よほど成功したのであろうか,当時の金で200万円だったと言うから,今だと100億ぐらいか?
  園内には灯台があったと言うが,第二次大戦中の落下傘練習塔を移設したものと言う。その後,老朽化が進んだため撤去され,新設計の灯台が跡地に新設された。
  2002年(平成14年)5月1日着工,12ヶ月かけて完成した。植物園は閉園して,サムエル・コッキング苑として蘇ったのである。

 以前からこの園内で縄文の土器などが出土していたため,本工事に先立ち藤沢市が園内を発掘調査したところ,8000?9000年前の住居址が20軒,夏島式土器,稲荷台式土器,黒曜石など,15,000点が発見されたと言うのだ。そんな大昔から人が住んでいたのである。

 本当に「江ノ島」は多彩の顔を持つ島で,昔から話題の多かった島であるようだ。又,広重の浮世絵にも出て来て,見たことがある。神社にお参りして,裏手に廻ると見る所多彩であり,一日あっても足りないので今回は参拝のみであった。帰りに島内の岩本楼の近く和食の店にて海の幸を堪能し,江ノ島を後にした。
  以上「江ノ島」と「龍口寺」について記して見たが,近年,江ノ島に新江ノ島水族館も開館しており,江ノ島は,新・旧の感動がこの目で,この耳で,この口で味わえる,素晴らしい場所である。

平成19年1月28日記
 

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