東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀・すかっと爽やか 日本刀♪」

其の38(名刀・名刀・名刀・天下の名刀列伝)

愛三木材・名 倉 敬 世

  さて,前回までは天皇家の刀のご紹介でしたので,緊張の余り文意がえろう固く成り,大変に判じ難く失礼を致しやした。そこで今回は現存する日本の名刀などを順次に柔かく紹介を申し上げ貴台の耳目のご参考に供し度く存じやす。
錦包糸巻太刀拵 [刀身 無銘(号 小烏丸)]

 日本も神代の時代が終わり(この時代は中国・朝鮮よりの渡来物が多く100%が直刀だす),数多くの抗争…物部VS蘇我で蘇我のV,その蘇我と中大兄皇子[天智天皇]で天皇の勝ちの大化の改新,皇軍と唐+新羅の連合軍が朝鮮の白村江で戦い我軍の負け,天智天皇の弟の大海人皇子[天武天皇]と倅の大友皇子[弘文天皇]が戦い天武天皇の勝ち(壬申の乱)…を経て,実戦の体験より世界に例を見ない反りの有る湾刀が,「日本刀」として出現するに至った。
  この時期は平将門や藤原純友の大乱の起きた,天慶三年(940)前後と思われるが,そこで直刀と湾刀の要素を合せ持つ平家の重宝である,「小烏丸」がその当時の作と云われている。
  「小烏丸」は平家相伝の名剣で嫡流のシンボルと云われ,作者は天国と伝わっているが,これはどうも信じ難く眉ツバの要素が強いが,約500年続いた摂関政治を武力によって
打破し,始めて武家の政権を立ち挙げたのが平清盛であり,そのパワーの源が「小烏丸」?。

※ 刃長62.7cm 反り1.3cm 平安時代(10世紀) 付・錦包糸巻太刀拵(総長93.5cm・明治時代)。
(刀身形状)両刃造り,庵棟,腰元から茎にかけ強く反るが上半身にほとんど反りが付かない。表裏に太目の樋を棟方に薙刀樋を掻き流す。茎は生ぶ,栗尻,目釘穴1。
(鍛え)小板目が肌立ちごころに詰み,流れ肌まじり,地沸が映り状に良く付く,特に上半身に地景が顕著。
(刃文)直刃,刃巾は低くうるみこころにほつれるが,小沸づき特に上半身は砂流し金筋かかり中程で表裏匂い切れて,下半身はほつれて沸のみで繋がる。帽子は小丸に先き掃き掛け金筋かかる。
(刀装形状)鞘,紺地錦雲龍文,柄巻・渡巻,茶糸平巻,鍔,木瓜形漆塗金覆輪付大切羽,銅地黒漆塗り,目貫,金二匹獅子容彫。
(御物 宮内庁,現在の保管は上野の東京国立博物館。)

 この小烏丸の命名に係わる云い伝えは数多く有りますが,その中でも目ぼしい説を少〃。
(1)源為義(八幡太郎義家の孫)は多田満中より相伝の,吼丸,獅子の子,と云う名剣を二振り持っていたが,熊野神社の別当教真を婿とした折に,吼丸を引出物として与えてしもうた。併し,為義は「獅子の子だけでは寂しい,片手を無くした様である」と嘆き,そっくりな太刀を播磨(岡山)の名匠に作らせた。これが余程の名人だった様で素晴らしい出来であった。喜んだ為義はそれに立派な太刀拵えを仕立て,柄には烏の目貫を付け「小烏丸」と呼んで愛蔵していた。後にこの剣は倅の義朝に渡ったが,義朝は平治二年正月四日尾張の野間で家来筋の長田忠致に風呂場で謀殺された。
  これでは源氏の伝来となるが,「平治物語」には殺される二月前に「平重盛が佩いていた」と云う記述が見える。……(後記。)
(2)「桓武天皇」(782?805)命名説。
  ある日,桓武天皇(平安京に遷都)が南殿で遠望中に「大神宮の使い」だと云う一羽の烏が舞い降りて来て,羽根の下より一振りの剣を出し飛び去った。この剣を天皇は烏が運んで来たのだか「小烏丸」が良かろうと名付た。…この烏は神武東征の折の八咫烏という…
  これは,鎌倉期の武将で簗刑部左衛門入道円阿の著わした,「宇都宮三河入道目利書」に記載されていた為,このオトギ話は昔はかなり信用されていたフシがあり,時々目にする。
(3)ある時,重盛は紫宸殿の前で,義朝の長子悪源太義平と一騎打ちを演じた。その有様を「赤地の錦の直垂に櫨の匂の鎧,蝶の下金物打ちたるに,竜頭の冑の緒を締めて,小烏と云う太刀を帯び…」と描写している。すると小烏丸は元々平家重代の刀と見るのが正しい,と云う事になる。よって多くの刀剣書「平家物語」(長門本)・「源平盛衰記」・「前太平記」は古くから,この説を採っている。…これは剣名の由来より,実存の証明である…
(4)「平将門・藤原純友の乱(共に939)」に於ける「節刀」説。
  将門(桓武天皇より五代の末孫)が関東に新皇と称して反した折り,朝廷は貞盛(従兄弟)を討伐軍司令官に任命し節刀として「小烏丸」を授けた。連戦連敗だった貞盛もその霊力と百足退治で有名な俵藤太秀郷の助人を得て,下総の猿島に追い詰め分身の術を使う将門を煙り攻めにして討ち取った。
  併し,将門は矢傷でOUTが定説で刀傷説は×,水戸光圀の「大日本史」もこの説は採らず。
(5)木枯らし(平家の重宝)説
  「木枯らし」,とは平家の重宝の「抜丸」の事である。コガラシ→コガラス→小烏○。
(6)韓鋤(カラサビ)説
  これは韓国の鋤に形状が似ている事からの推察。
※ 他にも呼称からの付会と思われるものが流布されているが,結論とすれば一番まともと思われるのが,?の為義の「烏の目貫」説であろう。

 さて,「小烏丸」は如何なつたか,平家一門は義仲に京都より追われ神戸の生田の陣では義経に鵯越の逆落としで対岸の屋島まで追い飛ばされて,ここから持ち主が替わります。
  維盛という大将は平家九代の嫡流ながら,とにかく合戦には弱かった。源氏が都に上る緒戦の富士川の戦いでは水鳥の羽音に驚いて背走し,木曽義仲との倶梨伽羅峠の戦いでは「火牛術」という奇襲に大敗し,命からがら京都に逃げ帰った事でも有名な大将ですが,当時,彼は桜梅少将と称される程の容姿端麗な貴公子でした,平氏も始祖の桓武天皇から発して,葛原親王−高見王−高望(坂東下向)−国香−貞盛(従弟の将門を討ちその功により朝廷より小烏丸の剣を賜い,平将軍と称す)−維衡−正度−正衡−正盛−忠盛−清盛−重盛−維盛(九代目),因みに織田信長は維盛の弟の資盛より発祥して22代目になります。
  この様に平氏も清盛迄は武門の棟梁として武張つておりましたが,清盛が位人身を極め「平氏にあらずんば人に有らず」となった途端にアッーと云う間に公家化し軟弱となつた。維盛もやんごとなき姫君や公達相手の優雅な日々から平家一門の総大将にされ,東夷の荒くれ男との合戦ではさぞかし目を回した事だろうと想像すると,同情この上ないのですが,これが人の世の定めという事なのでありましょう。
  結局,維盛には荷が重すぎて,都が恋しく懐かしく…都に絶世の美女である妻と息子とを残して来ていた…厭戦気分も手伝って,総大将自ら屋島の戦場からドロンをして戦線離脱,高野山に登り滝口入道を訪ね出家の後,那智の浦にドブンして天国に旅立ってしまいます。
  この時に供をしていた舎人の武里に平家への遺言を頼んだ,「小烏の太刀と唐皮の鎧は,この先,平家の運が再び開け都に帰る事が出来た暁には,嫡男の六代に伝える様に?」と。
…「平家物語,維盛,高野熊野参詣」…。

沢潟威残欠鎧(重要文化財)愛媛県・大山祇神社所蔵。
出土品以外では最古の鎧で,「延喜(901?992)の鎧」と云われる物で,まことに古体を示し,奈良朝時代の桂甲手法からようやく大鎧の祖型に至ったという感じである。「伴大納言絵詞」に描かれている検非違使の随兵の鎧を彷彿させる。承平・天慶の乱の頃のものではなかろうか,日本の甲冑の変遷史上重要な遺品で,大鎧の祖型として第一位に置くべき鎧であろう。
平家の重宝の唐皮もこの様な様式であったと思われる。

 武里は維盛の入水を見届けて屋島に引返し,維盛の弟の新三位中将の知盛に報告をした。よつて,この時点で「小烏丸」は次の平家の大将となった知盛の手許に有ったと思われる。
  この平家の最後の総大将となつた知盛は平家一門の中でも,最も知られた猛将なので,散々に義経を追い廻したが一寸届かず味方は敗軍。「今は是まで,波の下にも都ぞあろう?」の安徳天皇以下の入水を見届けて,鎧二領を身に着け乳母子の伊賀守平内左衛門家長と共に覚悟のドボンをして,平家は歴史の上からオドロ〃〃〃しくも恨みを残して消えて行きます。
  この時,三種の神器と共に「小烏丸」も間違い無く海の藻屑と成り果てたハズです…。

 が,ところがギッチョン,「小烏丸」はそれより600年も後の天明五年(1785)に忽然と花のお江戸に現れます。この件は次回と云う事にて,今回はこれでthe ENDにて候。




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