東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.85

武蔵一宮
「氷川神社」参拝と「ときわ台」のお巡りさん

青木行雄


 日本人の初詣熱は年々高くなっているようである。物や生活が安定して来ても,益々それ以上に,神や仏にすがりたいと言う心のより所を求める人間の心理なのか,欲なのか,それともあまり深く考えずに何んとなく出かけているところもあるようにも思う。いやいや,安産や厄除け,交通安全も大きな要素であった。

 2007年(平成19年)の主催者側の発表で,警察庁が1月5日,正月三が日神社・仏閣の初詣客をまとめたところによると,今年は昨年を422万人上回る9,795万人だったとのことである。日本人口の75%に相当する。三が日の天気が全国的に大変良く,暖かかったせいもあるのかも知れない。
  最も多かったのは,さすがに東京の明治神宮で別表にも記したが何んと三が日で311万人であった,2位は千葉の成田山新勝寺の290万人と言うから,私の通勤する京成電車もかなり潤った事だろうと想像する。そして3位が川崎大師である。

 警察庁がまとめた2007年の正月三が日の初詣の人出数(ベスト10)

1. 明治神宮 東京 311万人
2. 成田山新勝寺 千葉(成田) 290万人
3. 川崎大師 神奈川 289万人
4. 伏見稲荷大社 京都 270万人
5. 熱田神宮 愛知(名古屋) 235万人
6. 鶴岡八幡宮 神奈川(鎌倉) 234万人
7. 住吉大社 大阪 231万人
8. 浅草寺 東京(浅草) 216万人
9. 大宰府天満宮 福岡 201万人
10. 大宮氷川神社 埼玉(大宮) 200万人

 序に観光地やテーマパークなどの行楽地では,さすがに東京ディズニーランド・ディズニーシーがトップで,34万6千人の入場者と言うから,ものすごい人出であった。

 さて,本題について記したいと思うが,私はこのベスト10で行っていない所は,なんと「氷川神社」だけであった。
  たまたま,私の異業種交流勉強会の会があって毎年初詣に行くのが定例であるが,今年は「氷川神社」と決まった。
  早速同行したが,2月10日の初詣は,ちょっと正月には時間がずれ過ぎて,今いちと言う所であったが,神前で厳かに神事の儀式を受けて,今年一年の無難をお願いすることが出来て幸いであった。
  この神社は,元神領の大宮公園を控え,広大な聖地として,境内の広さを社務所で聞くと3万坪あると言う。古杉老松に大きな楠の木が多くあり,聖地としての神社環境が整っている。なんと参道の長さは中山道の一の鳥居から約2キロメートルあると言うし,国道16号沿いの二の鳥居は高さ13メートルある,木造では関東一の高さであると言うから素晴らしい。境内には見事な木造の桜門があって,それに木造の舞殿(神楽殿とも言う)もあり,木造の神橋まである。池もあって神社の雰囲気十分であった。

 それでは,「氷川神社」について,神社略記より,記して見る。

 御祭神  須佐之男命

      稲田姫命

      大己貴命   の3命である

 今から2千4百有余年の昔,第5代孝昭天皇の御代3年4月の御創立で,聖武天皇の御代各国に一の宮の制を定められた時,武蔵一の宮と称えられ,醍醐天皇の朝に定められた延喜式には名神大社として月次新嘗案上官幣に預り,又臨時祭にも奉幣に預ったことが記されている。明治の御代に至っては元年(1868年)10月28日明治天皇当神社に行幸,御親祭なされ,当国の鎮守勅祭の社と定められ,次いで4年5月官幣大社に列せられ,年々の例大祭には勅使の御差遣,東游の御奉納などがあり,荘重厳粛な祭儀が行われますと少々難しい御由緒の記が書かれている。
  この氷川神社の名は大宮を中心に,埼玉県下及び東京都下,神奈川県下に及び,その数は280数社を数えると言う。武蔵国造りの子孫がこの大宮の地を本拠として民族的政治的に著しい発展をしたことを物語っているものと考えられると神社史には付け加えられている。

 社殿の沿革について,定かではないようだが,1180年(治承4年)源頼朝公が土肥次郎実平に命じて社殿を再建した。1595年(文禄5年)8月には徳川氏,伊奈備前守忠次を奉行として,社頭を残らず造営せしめ,次いで,1667年(寛文7年)3月には阿部豊後守を奉行として社殿の建立を行なった。以来幾度の御造営があって今の御社殿は昭和15年(1940年)6月の竣成で「流造り」であると記されている。


※すばらしい「流造り」の神殿である。

 「氷川神社」に見る「人生儀式案内」について参考までに記して見るが,最近はどこの神社も同じようで特長がなくなったように思う。

安産祈願 妊娠5ヶ月目の戌の日に安産祈願をし,岩田帯をしめる。
命名 誕生から7日目をお七夜の祝いといい,この日までに名付をする。
初宮詣 男児は31日目,女児は32日目又は33日目にお宮参りをする。
七五三祝 男女児とも3才を髪置,男児5才を袴着,女児7才を帯解の祝として,11月15日に神社に参拝する。
成人祝 男女とも満20才の年に成人式をして祝う。
厄除け祈願 女子は19才,33才,男子は25才,42才を厄年といい,厄除けの祈願をする。

「ときわ台」のお巡りさんについて
  東武東上線「ときわ台駅」近くのときわ台交番につとめる,宮本巡査部長は,すぐそばの東上線の遮断機の降りた踏切りに入った1人の女性を救おうと踏切の中に入った。宮本部長は踏切内にいた女性をいったん交番に連れ戻したが,女性は「死んだっていい」と制止を振り切り,再び踏切内に入ったのである。宮本部長は大きく手を振り急行電車に停止をうながすとともに,ホーム下の避難スペースに女性を押し込もうとしたが間に合わなかった。踏切への侵入を感知するセンサーは2人が移動を繰り返したために作動せず,ホームの通報ボタンも押されたが間に合わなかったのである。
  2007年2月6日午後7時半頃,東武東上線「ときわ台駅」構内の踏切事故での様子説明である。
  「ときわ台駅」は池袋から東武東上線の5つ目のローカル駅で,特急も急行も止まらない駅である。約10分間隔で普通電車が止る間に,私の行った時,2本の通過電車が通った。すぐ近くの事故のあった踏切は2?3分おきに遮断機の下りる昼間でも忙しい踏切である。その踏切のすぐ脇に宮本部長の務めた,古い,狭い交番らしくない交番はあった。

 宮本部長はその時,女性と共に下り急行電車にはねられたのである。そして,宮本部長は頭蓋骨骨折で緊急手術を受けたが,意識不明の状態が続いていたと言う。事故から,生死の境をさまよっていた宮本部長は6日目の12日ついに息を引き取ったのである。
  30年と4ケ月の警察官人生を地域住民に捧げた宮本さんの回復を願った多くの人々の祈りは届かなかった。そして「ときわ台駅」前の交番には13日も,記帳や献花に訪れた人の列が夜まで途切れなく続き,多くの人が涙したのである。亡くなられてから5日目の17日の午後,私は新木場から地下鉄「有楽町線」に乗り,池袋から東武東上線で5ツ目の「ときわ台駅」におりた。学校が何校もあって,学生が多く,人もかなりいたが駅前交番はすぐに分かった。5?6人の人でまだ記帳が続いていた。表に2人ずつ帳面が置いてあり,狭い交番の中には,宮本さんの写真と,献花で動きがとれない程である。宮本さんの事について尋ねる人も多く,申し訳ないような気がして,ちょっと尋ねて記帳を済ませて交番を後にした。


※「ときわ台駅前交番,上の方に横文字で「KOBAN」とあるのが現在風か?

 宮本さんは北海道出身で1976年(昭和51年)10月,警視庁に採用された。大森署を皮切りに,第六機動隊や千住署などを経て2004年(平成16年)2月から同署に勤務,この「ときわ台交番」には2005年(平成17年)から勤務していたと言う。警視庁は13日,宮本巡査部長を12日付で警部に2階級特進させたと発表した。
  宮本さんは,がっしりした体格で眼鏡をかけ笑顔の似合う顔であった,と記されているが,確かに交番の中にある写真も笑顔が似合いそうな顔をしていた。
  地域住民や子供たちに慕われており,人々に「宮本さん」と呼ばれていたようだ。
  話によると踏切で人を助けようとしたのは今回が初めてではなく,遮断機が下り,取り残されたお年寄りや子供の誘導はしばしばで,その姿を目撃した人は多くいると言う。
  13日の午後3時頃,この東上線ときわ台駅前を,宮本さんの遺体を乗せて,斎場に向け板橋署を出た車がゆっくり駅前ロータリーをめぐり,2年間勤めた「ときわ台駅前交番」に最後の別れを告げゆっくり通った。しっかり前を向いたまま,敬礼を送る4人の同僚達,駅前は人又人で溢れていた。静まり返る人々の中で生前の宮本さんを知る人達の中にすすり泣く声が絶えなかったと言う。
  正義と勇気に胸打たれ,宮本さんの人柄が人又人を呼び,交番に設けられた記帳台を訪れた人は13日までに1500人にも上ったと言う。13日の夜,安倍晋三首相が板橋署を弔問し,長男に「お父さんを見習って頑張って!」と声をかけられた。
  又首相は宮本さんに対して,「危険を顧みず人命救助にあたった宮本さんのような方を総理として日本人として誇りに思う」と称えられたと言う。

 宮本邦彦警部の略歴をまとめて見た。

昭和28年2月 札幌市に生まれる
51年3月 北海道学園大学経済学部を卒業
10月 警視庁に採用,上京
52年4月 大森署地域課(当時,警ら課)に配属
55年4月 第6機動隊に配属
58年9月 町田署地域課に配属,南大谷駐在所に勤務
平成6年12月 巡査部長に昇進
10年3月 千住署に配属,地域課や警務課留置係に勤務
16年2月 板橋署地域課に配属
17年2月 常盤台交番に勤務
19年2月 女性を助けようと電車にはねられ殉職,警部に2階級特進。
政府が正七位と旭日双光章の緊急叙勲を,東京都が知事
顕彰をそれぞれ決定
 宮本さんの無私の行動に多くの人々は心を揺さぶられ,感動した。
 そして「ときわ台」交番には,1万人以上もの人が記帳や献花のために列を作ったと言う。記帳台が無くなった後も献花に訪れる人は,絶えないと聞く。素晴らしい「正義感・警察官魂」を引き継いだのである。
 場合によっては,警察は何をしているのかなまぬるい,と思うこともあるが,日本の治安は宮本さんのように,地域住民と接しながら,地道に警察活動を続けている交番勤務のお巡りさんが支えているのである。有り難いことではありませんか。
 現在全国の警察官は約25万人いると言い。その内約5万人が交番に配属されているお巡りさんと言う。そんなお巡りさんが,今回のような事故で命を落とすのは,誠に残念なことであり,神の救いはなかったのか。

※「ときわ台駅」ローカル駅だが,朝夕のラッシュ時にはかなりの乗降客がいるらしい。

 人生には,3つの坂があると言う。
    1つは 登り坂であり,
    2つは 下り坂である。
    もう1つは 「マサカ」と言う坂である。
 この宮本邦彦さんはまだ53才であった。この「マサカ」と言う坂道に遭遇し,53才の若さで尊い命をなくしてしまったのである。


※この踏切で宮本さんは尊い命をおとされたのである。このすぐ左側の脇に交番はあった。

 この「まさか」と言う坂道が,最悪の坂道ではなく良い方の坂道でありますように祈るばかりである。
 そして,今年大宮「氷川神社」にお参りしたことが,この随想をお読みいただいた方々にも「まさか」の厄除けとなりますよう,お祈りする次第であります。

平成19年2月25日記
 

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