東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(15)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 世田谷に住んで40年になるが,自宅の周辺を歩き,徒歩圏内でも歴史探訪ができる。
  平安時代,承平年間(931?937)の『和名抄』という書物のなかに,多摩十郷のうち「勢多郷」という地名が出て来る。これがもとで世田谷となった。
  毎朝,地下鉄の用賀駅から電車で通勤しているが,用賀という地名は鎌倉時代からあったようだ。戦国時代に小田原北条氏の家臣であった飯田帯刀,図書父子が土着し,駅前にある真福寺を開基した。以来飯田家は名主として付近を統治していた。今でも大きな屋敷を構え,造園業を営んでいる。
  忠臣蔵で悪役となった吉良上野介の始祖は上野国(栃木県)足利庄を領した源氏の雄,足利義氏であった。この系統から尊氏が出て室町幕府を開く。義氏の次男長氏は三河国。吉良庄を領した。同じ系統の長氏から五代目治家が,1376年,世田谷上弦巻の所領半分を鎌倉鶴岡八幡宮に寄進した。吉良氏が世田谷に城を構えたのは,小田原北条氏に属していた時代であった。北条征伐で小田原落城後,世田谷吉良氏は滅亡した。その後,世田谷は彦根藩井伊家の所領となり,大場家が代官を勤めた。前区長大場啓二氏はその末裔である。
  幕末,桜田門外の変で,水戸浪士の凶刃に倒れた。大老井伊直弼の墓は豪徳寺にある。
  直弼は朝廷の勅許を取り付けずに,日米和親条約を締結したが,尊皇攘夷派の人達が反対し,これらを弾圧し,多くの人が処罰された。安政の大獄である。吉田松陰は開国派であったが,国禁を犯して黒船に乗ろうとして捕えられ,伝馬町の牢屋敷で処刑された。遺体は小塚原に葬られたが,高杉晋作,伊藤博文らが引き取り,松陰神社に改葬された。弾圧した直弼と処刑された松陰が指呼の間に祀られているのは歴史の因縁であろうか。
  瀬田,岡本,鎌田地域に旧今川家家臣の小泉次大夫が幕命により六郷用水を開鑿し,多くの田畑を潤した。喜多見にある次大夫堀公園は小泉氏の功績を讃え,古民家と共に当時のままの堀が保存されている。近代的なコンクリート造りにしなかった為,環境に優しくトンボの幼虫や魚が棲み,市民の憩の場となっている。造園の大家で前農業大学の学長進士五十八氏も著書の中で絶賛しておられる。
  世田谷の南,多摩に沿って「筏道」と云われている道があった。江戸の町づくりのため奥多摩から伐り出された木材は,青梅や五日市で筏に組まれ,多摩川を下って大田区六郷まで運ばれた。深川木場の問屋に木材を渡した筏師たちが帰りに歩いた道である。尾山台から二子玉川を通り,多摩堤通りに架る鎌田橋を渡って北上,狛江,調布へと続いていた。多摩川の筏流しは,幕末から明治30年代までで,その後,川の水量の減少等により姿を消したという。意外なところで,世田谷と木場の接点を発見したが,今後も検証し,石碑等を立ててもらう運動を起こそうと考えている。




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