東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(16)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 今年の桜の開花は例年より早い,と云われていたが,気象庁のデータインプットミスや寒の戻り等で,見ごろは,3月31日,4月1日の土,日のみであった。
  『明日あると思ふこころのあだ桜 夜半にあらしの吹かぬものかは』
  渋谷から国道246号線を西へ行くと,三軒茶屋で二股に岐れ,分岐点に道標が立っている。1700年頃作られたという高さ2.4米の石碑の左面に「右富士,世田谷,登戸道」,右面に「此方二子道」と大きく刻まれている。ここに,石橋屋,田中屋,角屋という三軒の茶屋があったことから,そのまま地名となった。
  道標は必ずしも昔と同じ位置にあるとは限らない。道路工事,街の変遷によって,取り除かれたり,移設されることもある。
  この他に,道祖神,庚申塔,馬頭観音等の石碑が,近隣の人達の厚志によって保存され,私達が散策する際,昔と今を結ぶよすがとなっている。
  道祖神は旅人の安全,まちの治安を祈って立てられた。庚申塔は暦の神と云われ,例えば60年に一度大地震が来るから,注意と対策を怠るな,と諭したり,庚申(かのえさる)の夜,近隣の人々が寄り合って談笑し,眠ると三尸(さんし)の虫が天に昇って,天帝に告げ口して,命を縮めるから,徹夜をしてそれを防ぐという道教の教えによる信仰の対象となっていた。馬頭観音は,道路,旅行,馬の守護神である。
  三軒茶屋の岐れ道を右に行くと,世田谷通り,区役所入口バス停辺りから1.5粁ほどがボロ市通りと云われ,毎年12月と1月の15,16日に市が立ち,冬の風物詩となっている。起源は天正6年(1578)からと云う。代官屋敷前の道は,小田原と江戸を結ぶ大山街道で,物資の中間市場として世田谷宿は発展し,吉良氏が統治していた時代に,北条氏政が六斎市として開かせたのがボロ市の起源である。
  今では夏に代官屋敷を開放し,蛍を放って鷺草と蛍祭が開かれている。世田谷第七代城主頼康と,城主の寵愛を受けた側室常盤姫にまつわる悲話,鷺草伝説が今に伝わり,これに因んで鷺草は区の花に指定されたという。
  世田谷の南を流れている多摩川流域の左岸には,古代から人々が住みつき集落を形成し,古墳もある。野毛の大塚古墳は南関東最大の前方後円墳である。
  谷沢川の浸食により等々力渓谷が出来,ここにも三基の横穴古墳がある。周辺は武蔵野の自然が色濃く残っており,私のお気に入りの散策コースである。今でも渓谷から水が湧き出ており,この滝に打たれて行をする修行僧が遠くからもやって来た。等々力の地名はこの滝に轟く音から付けられた。
  滝の上にある等々力不動は,紀州から興教大師が来て開基したという。戦国時代に吉良氏がここで戦勝祈願をした。今の等々力不動は至って平和で,私が行った4月7日は,花祭りの前日で,境内は花で飾られ,小さなお釈迦様の像に甘茶を柄杓でかけてお詣りする善男善女で賑わっていた。




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