東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.87

「伊東温泉」と「木下杢太郎」

青木行雄


 相模灘に注ぐ松川の河口に湧く伊東温泉は,熱海と並ぶ伊豆を代表する温泉であった。発見は平安時代か,それ以前と言われているようであるが,年代で言うと1650年(慶安 3)頃と記されている。800もの泉源から湧き上がる豊富な温泉を有する伊東温泉ではあるが,旅館街は歯抜けの町となって一時の賑わいは見られない。湯治場として栄えた江戸時代から,その名泉は今に伝えているが,まだ,共同湯はあちこちに残っており,がんばっている旅館もまだまだあるようである。
 伊東の湯は3代将軍徳川家光に献上され,その名は江戸中期以降は湯治場として栄えたのである。最も本格的な温泉場としての発展は新しい,と記されていて,1938年(昭和13)に伊東線が開通してからであるらしい。
 伊東温泉に行ったら200円程度で入浴できる共同浴場に入るのも伊東を知る楽しみのひとつである。10ヶ所程の共同浴場があるらしいが,そのひとつに玖須美温泉通りの「和田湯」は伊東の本家と言ってもいい存在のようである。「将軍献上の湯大名方入湯,伊東最古の歴史を誇る和田の大湯」との看板が掲げられていた。
 最近,地方温泉地の経営は決して楽ではないらしい。ひと時の繁栄は夢のようで,格差もかなりあるが,伊東温泉も例外ではないのである。
 私は伊東に行く時は「陽気館」と言う1910年(明治43)創業の旅館をよく利用している。まず伊東温泉の火を消す事の無いよう一生懸命にがんばっていて意気込みが感じられる。和室19室の味わい豊かな宿は,当館の豊かな湯量もさることながら,専用登山電車で行き,伊東市街を一望する大露天風呂も旅心をくすぐる。伊豆石造りの大浴槽から川のように溢れる湯は実に柔らかい。山の中腹に出来た旅館が,上階の方へ食事を運ぶ為に設けた登山電車が変身して客用になったと言うが,4〜5人ぐらい乗れて実に風情がある。各部屋は昔ながらの純和風の木造で,次の間があって昔風の鏡まで用意してあった。社員教育も行き届いており,作務衣着用の全社員は誠に親切である。
 そして,何よりも嬉しいのは,名物専用登山列車で行く大野天風呂が水着禁止の混浴露天風呂であり,風呂から伊東市街を一望出来て,湯は透明掛け流し湯であるということ。時間制限はあるが,伊東温泉での混浴は,ここ1軒のようである。それにまたまた嬉しいのは,適度の値段であることだ。当旅館は,JR伊東駅から車で10分ぐらいの所にあるが,往復タクシー代も旅館側で持ってくれた。夏は伊東旅館組合が共同で,宿泊客にサービスとして行っている伊東海岸での引網の無料体験も出来た。今,伊東温泉は生き残りに,巻き返しに一生懸命である。


※伊藤温泉の玄関口、JR伊東駅前、かっての賑わいはないが。

※伊藤の浜辺で引網の風景、2手に分かれてロープを引く、1人に魚3〜4匹ぐらいもらえて皆、大満足。

 伊東に行ったら,どうしても見ておきたい,私のおすすめの建物が2つある。1つは「東海館」と他は「木下杢太郎記念館」である。

 「東海館」は伊東温泉を流れる松川河畔にあって,大正末期から昭和初期の温泉情緒を今に残す木造三階建ての温泉旅館群の一つであるが,川の土手から見る風景は素晴らしい眺めであった。1928年(昭和3)に創業したと言う木造の建物である。そして1938年(昭和13)頃増築をしたとあるが,この頃,伊東線が開通して伊東温泉は大変な賑わいだったと言う。1949年(昭和24)頃にも望楼の増築など,幾度かの増改築を行ないながら旅館業を繁栄させて来たのである。しかし1997年(平成9年),諸般の事情があって70年近く続いた旅館の長い歴史に幕を下した。
その後,伊東温泉情緒を残す町並みとしての保存要望等がもち上り,所有者から建物が伊東市に寄贈されることになった。そして,1999年(平成11)に,昭和初期の旅館建築の代表的な建造物として文化財的価値をもち,戦前からの温泉情緒を残す景観として保存し,後世に残す必要があると言う理由から,市の文化財に指定されたと言うことであった。
そして,1999年(平成11)から,2001年(平成13)にかけて約3年間保存改修工事が行われ,2001年(平成13)7月26日,伊東温泉観光・文化施設「東海館」として開館したのである。開館した当時は入館料は無料であったが,今年の入館時は大人200円,小人100円が必要であった。

  創業者の稲葉安太郎氏は材木商であったと言うが,相当の資産家で,木造建築に明るく和風建築には金に糸目をつけなかったと思われる。ここの案内人から聞くところによると,1938年(昭和13)頃に建築された部分では,3人の棟梁を各階ごとに競作させたと言い,各部屋は全部間取りも違って,国内外の高級木材,内装材,銘木をふんだんに使用し仕上げている。廊下の創り窓や階段の手すりの柱などにそれぞれ違った職人の技と凝った意匠を見ることができる。他にも,玄関の豪快で力強い彫刻や書院障子の組木のデザイン,照明器具など見事と言う外はない。凝った木造・和風建築に興味のある方は是非見て欲しい木造建築の秀作である。

※風格のある唐破風の玄関には旭と鶴の彫り物が飾られている。いかにお金をかけているか、ひと目でわかる。

※松川の河口から見た「東海館」、木造三階建て望楼が見える。温泉旅館の情緒がうかがえる。

※内部廊下の一部、ここをみただけでもいかに凝った建物かが判ると思う。同じ造作はない、全部違った造りである。

  次に「木下杢太郎」の記念館について…。

 伊東市立木下杢太郎記念館には,杢太郎の著書,絵画,写真をはじめ,森鴎外・夏目漱石・北原白秋・石川啄木など,杢太郎と交流のあった文学者等の書簡や作品,杢太郎の生家である太田家の人々の遺愛品や当時の生活道具が展示されていた。館内では,オリジナルビデオ「木下杢太郎の生涯」(約12分)も鑑賞できた。
 木下杢太郎とは,知る人ぞ知る,伊東市出身の医学者であると共に,詩文学,美術など幅広い分野で優れた功績を残した人物である。
 又 この記念館は,杢太郎〔本名・太田正雄・1885年(明治18)〜1945年(昭和20)〕をたたえ,その資料を展示公開し,教育文化の振興に寄与するため,1985年(昭和60)10月,杢太郎生誕100年を記念して開館した建物である。
 記念館の外観は,上掲の写真のごとく,1907年(明治40)の建築をそのままに,土蔵造りになまこ壁を配し,いかにも長い歳月,100年の経過を物語って,重みのある外観がうかがえる。
 記念館の奥には,1835年(天保6)に建てられたと言う170年にもなる杢太郎の生家が当時のままの状態で保存されている,その家をこの目で見られた事は田舎を思い出して大変興味深かった。伊東市内では現存する最古の民家として市指定文化財となっている。

 では「杢太郎」の生いたちについて述べてみる。
杢太郎は,呉服や雑貨を扱う素封家の商家「米惣」の7人兄弟の末子として,1885年(明治18)8月1日に今の伊東市湯川(静岡県賀茂郡湯川村)にて誕生した。
家には江戸時代の絵草紙があり,書籍も販売していたため,少年期から江戸文化と明治の近代文化等になじんでいたようである。
杢太郎は1898年(明治31)13歳の時に上京し,独逸学協会中学(独協中学)に入学,そして卒業後,一高を経て,1906年(明治39)21歳の時,東京帝国大学医学部に入学した。1911年(明治44)医学部を卒業したが,在学中から彼の文学熱は大変旺盛で「明星」に参加し,与謝野寛・晶子,北原白秋,石川啄木らの詩人と友交を深めている。
その後,1908年(明治41)に白秋らと新詩社を脱退し新たに「スバル」を創刊,また画家たちと「パンの会」を結成,さらに耽美主義の隆盛をめざし「屋上庭園」を発刊している。この頃,森鴎外の観潮楼歌会にも出席し,公私にわたる鴎外の指導を得,鴎外に傾倒していった,と記されている。
この時期(明治40年〜大正5年)の10年間が杢太郎の文芸活動の最盛期であり,日本近代詩に異国情調と江戸文化趣味を融合した詩風をもって,白秋と並び称される新風を吹きこんだと言うことだ。
杢太郎は詩作品のほかに,小説,戯曲,美術評論,吉利支丹史研究など各分野で優れた業績を残したと言う。また,6か国語に通じる語学力を活かして世界各地に旅をした文人画家,文明批評家でもあった,と記されている。何と多才の持主であったか,驚くばかりである。
また,医学者太田正雄としての存在も記しておきたい。
親達は,正雄を医者にすることを考え,中学からドイツ語を教える東京の独協中学に入れた。しかし,正雄は医者になることを嫌ったが森鴎外の勧めもあって,医学も勉強したのであった。
東大卒業後は,南満医学堂,愛知医科大学,東北帝国大学,東京帝国大学教授を歴任している。
正雄(杢太郎)の研究は皮膚絲状菌,レプラ,皮膚腫瘍などに関するもので,その業績は国際的にも高く評価され,フランス政府から名誉勲章を受けたと言う。すごい頭脳の持主であったのである。


※杢太郎が描いたつばきの絵が、入館券についている。

 題名とはちょっと離れて長くなるが,どうしてもここに記しておきたい事がある。それは関東大震災の復興に心血をそそいだ人物のことであるが…。
 その人の名は木下杢太郎の兄・太田円三氏であった。
 円三氏ももちろん,杢太郎と同じ湯川村(伊東市)の生れで,杢太郎とは4つ違いの兄であり,東京の学生時代には,同居もして,仲の良い兄弟であったと言う。
 1922年(大正12),関東大震災により東京は壊滅状態となった。その東京を復興させるため,帝都復興院が設置された。
 この復興院で土木局長に抜擢されたのが,杢太郎の兄の円三であった。円三は区画整理や隅田川六橋の設計などに大変尽力したと言う。また,道路の拡張・新設や,高速鉄道・地下鉄の必要性を説き,近代都市東京の基礎を築いたのである。
 帝都復興に心血を注いだ円三は,着手4年後の1926年(大正15),志半ばにして自ら命を絶ったのである。区画整理に対する無理解や,復興局疑獄事件の発覚などによる心労のためであったと言われる。
 46歳の若さでこの世を去った兄円三であったが,仲良しであった杢太郎の心境ははかり知れない。その時の詩が書かれてあったが,ここでは省略する。しかし,彼の偉業は現在,土木界で知る人ぞ知るものである。円三については主題ではないので省略するが,杢太郎とともに,天才的技術者で,彼のアイデアは今尚,東京の建設にも生き続けている,と言われている。


※杢太郎は8人兄弟の末子であり、円三はすぐ上の兄だった。

 伊東温泉は温暖で人情味のある気候風土であるが故に,木下杢太郎等の多才な人物が生れたのかも知れない。
志半ばにして命を絶った円三が私達の住む東京を,大震災の再建に大いに,力を注いでくれたと言う事実は,史料を見てとても感心をさせられるものであった。
今,温泉はもちろんだが,材木商稲葉安太郎氏が大資金を投入して木造の芸術とも思える見事な旅館の「東海館」と多才な能力を持った杢太郎の「木下杢太郎記念館」は伊東市が誇る重要な観光ポイントとなっているのではないだろうか。

平成19年4月30日記
 


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