東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀・スカッーと爽やか 日本刀♪」

其の42(妖刀・村正)

愛三木材・名 倉 敬 世

 今回は丁度お盆でもあり季節もドン!ピタリですので,古来より名刀,迷刀,妖刀と講談や芝居で馴染みの深い「千子(千五は×)村正に出場を願う事に致しやした。

 時は戦国末世のド真中の文亀(1500)頃,同銘が数代続き特に二〜三代の評価が高く,「折れず,曲らず,良く切れて,安い」という時代の要請を受け,共に隣国ではござるが尾張よりも岡崎を中心にした三河地方の地侍に評価が高かった。
  昔より三河武士とは名乗るが尾張武士の名乗りは無い,因みに当家の遠祖も参州・三河!。
  「村正」の本籍は「焼き蛤」で有名な伊勢の桑名(三重県桑名市内),屋敷の跡と称される場所は数ヶ所残ってますが,直系の子孫は断絶していて連絡つかず,同名が数軒あります。
(1)桑名市走井山観音堂。 近鉄北勢線の馬道駅の北,走井山公園(矢田城址)勧学寺内。
(2)桑名郡東方村字尾畑。 村正の脇差「勢州桑名住東方村正」の銘文有り,尾畑城の跡。
(3)桑名総社に「勢州桑名郡益田庄藤原朝臣村正作,天正十二天葵卯五月日」の奉納刀が現存しているが,益田庄は広大な地域のため郡や庄では屋敷の位置の確定は出来ない。
(4)三重県四日市市宮田地区茂福村と云う説もあるが,これは室町期に朝倉氏が一時期茂福城主として威を張っていた場所で,その時に招かれて鍛刀したものと思われる。
(5)江戸期になると,桑名城下も整備され村正の一族も片町に居を構えて,墓も南魚町の仏眼院に明治三十年頃まで,「隠音妙台」と刻まれた初代の墓のほか十数基が有った。併し,今より180年も前に村正家は断絶し無縁となり墓碑も撤去されてしまったが,昭和九年に仏眼院の墓域に於いて,「千子宗入禅定門承応四乙亥年正月十六日」という千子新右衛門の墓が土中に半ば埋もれているのを,刀剣研究家の水谷長之助氏が発見。
 其れにより,長らく不明であった村正家の自暦が解明され公式に認知される事となった。

村正の屋敷跡
(×印,桑名市走井山麓)
 特にこの下克上の時代の三河は東に上洛を狙う駿河の今川義元,西に尾張の織田信秀,国内は一向一揆(浄土真宗→親鸞・蓮如)が吹き荒れ,さながら現在のパレスチナの如し。
  その時に三河でも山間僻地である松平郷より突如現れ瞬時に岡崎・安城を平定したのが松平二郎三郎清康(家康の祖父),清康は知略・軍略共に優れ西三河の希望の星であったが,天文四年(1535)十二月五日,信秀(信長の親父)と対戦中の尾張の守山の陣で寝ボケた家臣の阿部弥七郎正豊(親父は清康の重臣・阿部大蔵大輔定吉)の為に切り殺された。

松平清康像
清康は松平氏七代目で,家康の祖父にあたる。永正八年(一五一一)に生まれ,十三才で家督を継いだあと二五才で世を去るまで三河統一に邁進した。武将として天稟の資質を備えた人で,『三河物語』は清康が三十才まで生きておれば天下を掌握したであろうと評している。法名善徳院殿年叟道甫。

 阿部弥七郎は父の大蔵が敵方に内通している,との噂を耳にしていたので前夜は朝方迄心配で眠れず,ようやくウッラ〃〃〃した時に「それ逃がすな,捕らえよ?」との清康の声に驚きてっきり父が殺されるものと早合点して背後から清康を二尺七寸の村正で一刀の下に斬り倒した,清康は当然即死である。…が,ここで皆を驚かしたのは右肩から左脇に袈裟掛けに斬った,その鮮やかな切り口とその刀が村正であったという事である。そして未だ自分が誰を斬ったかさえ解らずに居た弥七郎は「弥七郎,乱心したか!」の声と共に植村新六郎栄安に斬り伏せられENDとなる。この植村にも後に不思議な縁が廻って来る。
  こうして中興の祖であった清康は僅か25才の若さで家臣の手に掛かって散っていった。そうして,全く馬鹿げた事だがこの騒動の因は清康の乗馬が守山城中(城主は織田信定で本来は敵方,なれど清康の威勢にビビリ寝返っていた)で放馬となり駆け回った事である。

 この事件を「守山崩れ」と云うが,この後も松平家(後の徳川家)には同じ様な事件が続き版図拡大の絶好な機会を逸し,幼少の松千代(家康)にも苦難の時代が続く事になる。

 (2)次の事件は,実父の広忠が天文14年(1545)3月20日,譜代の臣であるが酒乱で
有名な岩松八弥に脇差で太腿を刺された。この時,広忠は午睡中であったが,人の気配で目を開けた途端に太腿の辺りに痛みを感じて跳ね起きた。「曲者ダ!出会え」と大声で叫び追いかけたが足が効かず取り逃がしかけた,その時,再び前出の植村新六郎栄安が運良く来合わせた。植村は主君の声に変事を察し,又も一刀の許に八弥を斬り伏せ事なきを得た。この時に弥八がしたたか酩酊していたのは確かの様である。本来,弥八は岩松弥八と称し徳川譜代の臣で僻目なれど豪の者として知られ戦場では「片目が出た」と恐れられていた。彼が戦場で挙げた首の数はかなりの数であったが,何れも見事に掻き切ってあったという。それは全て村正の脇差を以ってした事であり,広忠を刺したのもその「村正」の脇差なり。
  この時に命拾いをした広忠も薄命で四年後に24才の若さで没。家康が八才の時である。

 (3)この後,父無き家康は今川の人質となり12年間を過ごす。駿河の宮ケ先に居た時に小刀で手を怪我をしてかなりの激痛が走ったというが,この小柄も「村正」であった。

 (4)桶狭間の戦で今川義元が討死をすると家康は漸く岡崎に戻れたが,今度は織田信長の厳命で自分の妻(築山殿,今川の重臣の娘で義元の養女)と長男(信康)を殺す事になる。容疑は二人が武田信玄に通じ信長の打倒を企てたる事。証拠が多く弁明は棄却。判決・死刑。
  築山殿は浜松近くの佐鳴湖で野中三五郎重政の手で,信康は天正七年(1579)九月十五日,遠州二俣城で切腹,介錯は服部半蔵守綱の役目なれどヒビリ,天方山城守通興の手で…。後日,報告にあがった通興に家康は気になっていた介錯刀を尋ねると「…村正にて候」。
刀 銘 村正 2尺5分3厘 二代村正の典型作,高松宮家伝来

☆ ここで流石の家康も「村正は当家にとっては不吉なり,残らず取り捨てよ!」となる。併し,これ以後この「村正ギライ」が勝手に独り歩きをして,「村正廃棄令」となるのだが,どこまでのものか甚だ疑問な点が多く有ります。家康の形見分けの「駿河御分物」の中に御三家・筆頭・尾張義直様分として「村正」刀が御座るのである。この刀は写真の如くに現在でも尾張・徳川家の名品を集めた,名古屋の(財)徳川美術館に展示をされている。

「駿河御分物」の「村正 2尺2寸7分」 名古屋・徳川美術館蔵
2尺2寸7分 初代,徳川家康に忌避された村正の刀が尾張徳川家にあると云うのは面白く,刀剣係も,この刀,作が良いので捨てかねて保存したのであろう。

 因って,これはどう考えても?でしょう。家康は幕府にとっては東照大権現と云う神です。その神様が決めた掟ならその子供(七男)である義直は何としても守らねばなりません。守らねば神罰が下り尾張・徳川家は「終わり名古屋の金の鯱」(上り)となってしまいます。

 (6)「天下分け目の関が原」に於いて,織田河内守長孝は西軍の戸田武蔵野守重政と云う大物を討取った。「河内守の槍は武蔵野守の冑の鉢を左から右に突き通したが,少しの傷も付かなかった」と聞いて,家康は早速その槍を取寄せて見聞したが一寸したハズミで取り落として手を傷つけた。「この槍は村正の作であろう」と云うと,長孝の父の織田有楽斉が,「如何にも」と答え,不興を買ったので織田親子はこの名槍を散々に打ち折ってしまった。

 (7)駿河大納言忠長は家康の孫で三代将軍家家光の舎弟であるが,とにかく仲が悪かった,遂に乱行が過ぎたとの咎で大逆罪となり,高崎城に蟄居を命じられ自刃して果てるのだが,この時,忠長は小姓に酒肴の用意を命じ,小姓が立ち去ると忠長は白衣に着替えた後に,頸を半ば貫きこと切れたと云う。この時の得物もやはり「村正」の短刀であったとの事。
☆「村正廃棄令」が事実なら,将軍の弟が持っているハズは無いんだわ,ネェ?。

 (8)江戸後期の記録を見ても,前期の尾張徳川家を始めとしてかなりの武家の蔵刀の中に「村正」又は村正銘を改竄して,正広や広正,村忠,に直した銘を多く見るが,これらは
幕府がいくら村正を禁令?としても依然として村正の愛好者が数多た居た証拠であろう。
  時代に関係なく愛好者を見ると…。
豊臣秀吉は「正宗」同様,戦さ働きの「論功行賞」として多くの「村正」を使っている。
  形見としては,堀内安房守氏善,赤松上総介則房,加加江孫八郎重望,へ下賜。
関白豊臣秀次,前田利家,佐久間盛政,長束大蔵正家,浮田秀家,足利政知(堀越公方),蜂須賀小六,福島政則,鍋島勝茂(前出の題目村正),石田三成,木村長門守,真田幸村,松平光通(家康の孫,越前福井の藩主),松平定信(老中),西郷隆盛(鉄扇仕込)。

 
村正を正広と改作したもの
 では何故,天下の業物「千子・村正」が今に至るまで妖刀視をされているのか,この点をジックリ次回に解説を致しましょう。



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