東京木材問屋協同組合


文苑 随想


田沼意次と松平定信(1)
-今日の問題として-

榎戸 勇

 田沼意次(1719?88)は遠江の国相良の藩主であるが,明和4年(1767)に老中になり幕政の実権を握った。この年から天明6年(1786)までは田沼時代と呼ばれている。

 実は友人が「田沼意次と松平定信」(童門冬二著)という本を貸してくれたので,休日に一気に読了した。大変面白くまた読みやすい本であるが,読了したあと,バブルとその崩壊,そして崩壊から立ち直ろうとしている現在の経済社会の動きと重ね合わせて色々考えさせられたので,この一文にまとめてみた次第である。

 田沼意次は米本位経済から貨幣経済へ時代が進行したことを直視していた。従って衣食住の全てにわたって付加価値を加え,更にこれを内需化させようとした。人々の生活を贅沢にし,その贅沢さがそのまま経済の伸長をもたらすと考えた。つまり個人消費の拡大で経済成長をさせようとしたのである。勿論,全ての人々が貧しさから解放されたわけではないが,ある程度の富を得て潜在していた自己能力を発揮した人々も沢山あり,多くの学者や芸術家が生まれた。言論が自由になったので生活が生き生きとしたのである。しかし,これは江戸や京,大阪のことで農村は貧困にあえぎ,百姓一揆も頻発している。貧富の差の拡大は,現在の中国社会を連想させられる。経済社会が大きく変化する時は,上手に変化に適応できた人は豊かになるが,取り残された人々は貧しいまま取り残されてしまうのである。

 田沼意次は賄賂(まいない)を取ったことでも知られている。例えば長崎奉行の職などは3千両で売買されたという。長崎奉行は港に入る輸入品の検査に手心を加えれば,貿易業者が珍しい物を届けてくれるので,それを売り払って巨利を得ることができた。長崎奉行を数年務めれば一生楽に暮らせるといわれた。そして良い役を与えてくれるのは田沼様しかないということで,田沼邸には猟官運動をする大名や直参旗本,一手に幕府の土木建築や幕府への物品納入をしたいと願う商人達で門前市をなしたという。
  当時の幕政は全て譜代の大名で固められており,外様大名は幕政の外側におかれていた。外様大名は加賀前田家の百万石,薩摩島津家の77万石,仙台伊達家の66万石等大々名が多いが幕府の政治には一切参与できなかった。そして外様大名には幕府の治山治水等の土木工事を費用自分持ちで行わせた。私共の身近には仙台堀という運河が今も残っている。江戸から明治,大正,そして昭和50年代迄水運の水路として活用され,製材品を積んだダルマ船や丸太の筏が旧木場の木材問屋や製材工場に運ばれていたことは記憶に新しい。
 一方,譜代大名は5万石から10万石の小大名で藩の収入も乏しかった。田沼の相良藩も6万石の小大名である。田沼はこう考えた。農民は貧しいなかから年貢米を納めているのに貨幣経済が進んで金貸しや商人が儲けているのに,彼等が何の負担もしていないのは可笑しいではないか。商人共が冥加金を持ってくるのは税の一種だから受取ることにしているのだ。(江戸後期には幕府が業者の株仲間に上納金として課して納めさせるようになった。)理屈は色々つくものである。

 田沼時代は国内の人流,物流が活発になり各藩は自藩の特産品を売り自藩に無い物を購入することが多くなったので,商人達が各地を歩き活発に商いをしたため経済は活況を呈した。しかし役人の末端に至るまで賄賂が横行し,賄賂なしでは仕事が進まなくなったようである。
「役人の子はニギニギをよくおぼえ」
「この鳥金華山に巣を食う。名をまいない鳥という。つねに金銀を食うことおびただしという」。このような市井の落首が数多くでた。
 このような世情に人々はうんざりし「田や沼や汚れた御世をあらためて清く澄ませ白河の水」との世論がおこり田沼は老中職を退いた。(田や沼や=田沼,白河の水=白河藩主松平定信)

 現在,江東区中央の西,隅田川を起点に西から清澄1?3丁目,そして清澄通りを東へ超えると西から白河1?3丁目(三ツ目通りを超えた白河4丁目は元加賀町(元は加賀藩の下屋敷が有ったとのことで小学校は現在も元加賀小学校と稱している。)である。清澄町,白河町の町名は「清く澄ませ=清澄町,白河の水=白河町」の町名の由来らしい。そして松平定信(楽翁)の墓が白河1丁目の霊岸寺にあることは広く知られている。

 振返って見て田沼時代は元禄時代再現ともいわれ,江戸,京大阪は芝居小屋も花街も,そして街全体が生き生きと躍動していた。街の職人達は仕事が多いので日銭が沢山入り,町人は売上が多いので儲かった。田沼は大奥の出費を青天井にして使っただけ支給したので,京の友禅染の呉服や立派な器,美味しい宇治茶,そして灘の清酒等々も京大阪から沢山運ばれた。消費都市の江戸は消費経済で華やかであった。しかし幕府の財政が逼迫し金蔵が底をつきそうになったので,田沼は金貨を改鋳して金の含有割合を大巾に減らした。
 つまり,田沼バブル経済である。そして,バブルはいずれ清算されねばならない。幕府内でも反田沼の重臣が次第に増え,経済再建のため名君の誉高い白河藩主松平定信を田沼に代って老中筆頭にしようという気運が良識派の中に次第に広がった。松平定信は8代将軍徳川吉宗の血を引いた田安家の当主で,故あって奥州白河の藩主になった人であり,血統は申し分ない。こうして田沼の失脚後定信が幕政を担うことになったのである。
 長文になったので定信の経済再建については次号で述べることにして,ひとまず筆を擱くことにする。

(H.19. 6. 28記)



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