東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか 大黒柱♪」

其の44(妖刀・村正 III)

愛三木材・名 倉 敬 世

 地鉄は小板目肌が流れて地沸が付き肌立つ感があり鎬地は柾目肌である。
刃文は腰開きの五の目乱で乱れの谷が特に長く刃文の形が表裏に良く揃っている,特にこれを「村正刃」と云う。刃文は皆焼や直刃もある。帽子は地蔵になり,返りの深い物が多いが,火炎風や小丸もある。


刃長 八寸五分(25.8cm)

中心はタナゴ腹であるが,中心の先に近い所から急に細くなるという特徴がある。これを「村正中心」と呼ぶ。銘は「村正」と二字が多いが,時に「勢州桑名住」や苗字の「藤原」を入れた長銘もある。年号を切る物は稀であるが,文亀(1501)より永正,大永,天文,天正,慶長,寛文,と江戸の初期(1661)迄ある。

短刀 村正 地鉄板目美しく刃文表裏揃った五ノ目乱れ僅かに尖り刃交る。健全な村正の代表作で銘振り一段と美事である。

 

 なぜ,「村正」だけが千年を超す長い歴史のある「日本刀」の中で第一級の妖刀として,確固たる地位を確立したのか,その根源的要因は数々ござるが結局のところ当時の万民が熱狂してこよなく愛した,歌舞・音曲,即ち「歌舞伎」に行き着きます。

 その歌舞伎の外題を見ても「村正」の妖刀観は庶民の間に浸透して行ったのが良く分る。曰く,「八幡祭小望月賑」・「木間星箱根鹿笛」・「青楼詩合鏡」・「敵討天下茶屋聚」・「籠釣瓶」・「切籠形京都紅染」・「籠釣瓶花街酔醒」・「花菖蒲佐野八橋」・「赤格子血汐船越」,これらは全てが「村正」が絡んだストーリーであって,花の江戸と上方の桧舞台で大当りを取ると,その後は日本全国津〃浦〃の小屋に掛けられ,面白おかしく演じられて,今日に至るまで半永久的に飯の種になった訳なのであります。
 当時は田舎ではロクな娯楽も無く旅回りの素人芝居とは申せ,「村正」は妖刀ダ〃〃〃と云う芝居を年中観せられれば,何時の間にか脳味噌が洗脳されてしまう訳でございやして,演目としてはいつ掛けてもハズレの無い,「忠臣蔵」と同じ安全パイと云う訳でござんす。因って,この二つの芝居は類似の筋書きが無数に現れたと云う事でも良く似ております。
始めに載せた河竹黙阿弥の「八幡祭小望月賑」は(切られ与三)をアレンジしているので,紺屋新助が惚れた辰巳芸者のお美代が自分の妹とは知らずに,村正の短刀で殺してしまい,後で自責の念から自分も割腹して果てると云う,すざましい話でありますが,この主旨は「村正」と云う刀は「一旦抜いたら血を見なければ鞘には納まらない」という,古くからの伝承がキィーポイントに成っております。

 それと,「妖刀・村正」をバックアップしていたのは,洋の東西を問わずどの国でも古代より占いの中に「剣相」と云うジャンルが有り,これは人相や家相と同じ様に,刀を観てその吉凶を占う方法ですが,その絶好のターゲットになったのが「村正」と云う訳でして,正しく「村正」はこの「剣相術」という占い方にその条件がピッタリと納まるのでござる。その条件とは多分に綯交で輻輳してはおりますが,次の諸条件が加味されている訳です。
(1)斬れるが安い末古刀の為,刀剣としてのランクは低く,噂のターゲットには最適。
(2)鍛刀地が伊勢なので,三重,三河,尾張,等の周辺での使用頻度は格段に高かった。
(3)平安,鎌倉期の宝刀と違い,妖刀と名指しで呼んでも何処からも苦情は出ず。
(4)実際,徳川家に崇った実績が有り,「潰すべき物」のお触書が多大な効果を与えた。
併し歴史とは皮肉なもので,これらの事柄が幕末には一転して全てプラスの要素と化した。

 さて,戦も無くなり世の中が落着いて来ると,刀も切れ味では無く出来具合にて諸事を占う事が流行り出した。尤も古代社会に於いては何事も占いで吉凶の判断をしていたので,その意味では「剣相術」は鑑定術より古くからあったという事は正しい,併しその精神の在り方が古代と近世では大いに異なる,古代に於いて吉凶を占うという事は国家の命運が掛る事であるが,近世に於いてはタダ単なる暇つぶしの遊びなのである。
 室町初期の「観智院本銘尽」には天国,安綱,月山,などは主を嫌う(選り好みする),菊作は不浄を消す,と記されている。室町末期に書かれた「新刊秘伝抄」にも刀の祟りを鎮めるには,銘の周りにボロンという梵字を持主の年の数だけ書けば良い,と記してある。
 剣相術が体系化されて流派を生じたのは江戸期に入ってからであるが,その発祥は早く室町中期の文亀頃(1500)にさかのぼり,「戸次流剣相秘録」によれば戸次流は九州豊後で既に一派を成していたと云われている。豊後には宇佐八幡に伝わる宇佐流が有り,それに拠れば大河内頼仲が天正参年(1575)に伝授したのが初見とされているが,実際の流行は世の中が落ち着いた,江戸も中期以降の享保(1716)から幕末(1868)迄の間である。
 その150年の間に前述の戸次,宇佐,の他,山形,小笠原,山本,和田,岡部,宅間,木下,不動,等の流派が起り,競いあって吉凶禍福を論じその的確さで優劣を競っている。
 剣相術の原理は陰陽五行説と占星術の応用で,焼刃に日や月の形をした飛焼きが有れば大吉で有ると褒め,逆足が有れば物事が後戻りする凶相であるとし,乱足が入っていれば夫婦仲の良い吉相だと言う。現在から見れば愚にも付かぬ噴飯物となるが,当時の大衆はそれを真面目に信じていたのだから偉い。併し今でもこの様な信奉者は少なからずである。

八寸九分八厘 平造り三ツ棟,身巾広く先反り付く,板目肌,肌立ち白ける,刃文五ノ目乱,尖り刃など交り,乱の谷刃先にせまり匂口締って,地刃の出来良し。鋩子小丸返り長し。 表裏同一の刃紋となる傾向が強い。

 「村正」の作もこの「剣相術」に照らせば,不吉!と言われても仕方が無い箇所はある。例えば,焼刃の乱れと乱れの間の刃が狭くなり,焼刃が消えかかったり駆け出したりする手癖がある。この様な焼刃を山形流では不吉として祝儀の席には差して行くなとしている。「村正」の作には腰刃という鍔元の焼刃が大きく乱れる特徴がある。これも小笠原流では不吉の相と断じていて佩用者は高慢となり,主君に無礼を働くとしている。これは焼刃の「乱れ」を態度の「乱れ」に掛けたもので,語呂あわせみたいなものである。別に不変の真理で言っている訳では無い。同じ刃文でも真逆にとらえて説明をしている流派もある。例えば,前述の乱れの間が狭くなっている癖も,岡部流では「前後に乗り上げる格好」は「福の強い吉相」としている。要スルニ,物ハ考エ様,卵ハ切リ様,トノ事デ,御猿。

 かくして,名刀「村正」は「歌舞伎」と「剣相家」の影響で,妖刀「村正」に変身する,ある愛刀家は村正を買ってからどうも不祥事が増えたので,縁起を担ぎ「寺に納める」と時の首相であった寺内正毅陸軍大将に贈った。寺内家なら寺に納めた事になるという変なこじ付けであるが,そしたら間も無くその寺内大将が死んでしまった,という実話がある。
 実際,色々な事で寺に納めた刀も多かった様で,それを詠み込んだ川柳も伝わっている。
 村正を和尚一腰(振り)餅に搗く。
 村正を和尚とう〃〃餅に搗き。(餅に搗くとは持て余して売却した,と云う事なり)。

 その様な「村正」にも,色々な意味での愛好者が居た。その第一人者が誰れ有ろう時の文壇の第一人者で尾崎紅葉の一番弟子の妖怪が大好き人間であった,泉鏡花大先生である。鏡花は,怪奇物の傑作である「高野聖」を始め,お蔦?主税の歌にもなり,婦女子の紅涙を絞らせた「婦系図」や「歌行灯」「照葉狂言」を作り当時のベストセラー作家でごわした。
 その泉鏡花先生が新作の稿を練り執筆に向かう時は,家人の寝るのを待ち端座をして,懐紙を口にして秘蔵の「村正」を抜き放ち鑑刀三昧の境地に入った後,一気可成に書上げるのが常であったと云う。

 この泉鏡花の如く「村正」の妖の部分に惹かれる者は珍しいが,「切れ味」と「反徳川」に分れるのが大半であり,「切れ味」に惚れたのは,時の将軍義政の弟で伊豆まで来て居て,鎌倉には入れず伊豆の堀越に長期に亘り滞在して「堀越公方」と称された足利政知という。但し,未だ当時の「村正」は新作刀で列位も低く,将軍の弟の佩刀となるには疑問が残る。秀吉と前田利家は恩賞用として常に携行していて,軍功が顕著なる者には自ら与えていた。福島正則も「村正」のフアンで太刀と共に二間半の長柄の槍を手許に置いて愛用していた。正則は広島城の修理で失脚をするが,他家に出た家臣に与えた「村正」の数は非常に多い。
 尚,秀吉の遺品中の刀剣は166口の多数だが,その内でも「村正」は三振しか無くて,それぞれ形見として,堀内安房守氏善(紀州新宮・2万7千石)赤松上総介(但馬・一万石)加加江孫八郎重望(秀吉近習・石高不明)の三名が拝領をしている。これ等は小名ばかりで,当時の「村正」のランクを示していて興味深い。関ヶ原では全員西軍に組し断絶している。
 特に加加江孫八郎重望は石田三成と親交が有ったので,関ヶ原の役が起ると刺客として家康の小山の陣に潜入したが警備が厳しく家康に近寄れず,空しく帰る途中に三州三河の池鯉鮒(知立)で顔見知りの堀尾茂助にばったり出会った。そして,堀尾に「これから近くの刈屋城主・水野忠重の馳走になるので,一緒に行かまいか?」と誘われたので,渡りに船と同道する事にした。そこで咄嗟に考えた,この儘おめおめと帰っては三成に合す顔が無い,然らば堀尾は徳川方だし水野忠重は家康の叔父なれば,「二人を討取って土産にしよう」とやにわに孫八郎は秀吉の形見の「村正」の大脇差を抜いて,先ず忠重をバッサリとやった。酔い寝の茂助はこの物音に飛び起きて孫八郎と渡り合い,激闘の末に何とか斬り伏せた。堀尾茂助は一豊と同じく秀吉には恩義があったが,家名の存続を考え徳川方となっていた。
 後に土佐20万石拝領の基と成ったと言われている,小山の陣での山内一豊の名文句の「我が掛川城を充分にお使い下され!」と云う家康へのゴマスリ演説の本来は,堀尾の倅忠氏が思案した文句だったが,一豊に話したのが裏目に出て先に使われ出し遅れの証文で臍を噛んだと言う次第。尚,堀尾家は浜松1万2千石の城主であったが,後代で断絶した。

 又,先月号に記載の,佐野政言の江戸城での大量殺傷事件で使われた大脇差は「村正」であったが届出は「一竿子忠綱」。従って深川の霊巌寺で焼けたのも「忠綱」で ある,これは,「村正」だと罪科が倍加するため,藤岡甚五兵衛が中身を忠綱にすり替えたとの説があり,その後この「村正」は藤岡から松前の泊源七郎に渡り,源七郎は露国の狼藉者二名の首を刎ね子息の勘六郎に譲り,勘六郎は江戸に上り麹町で道場を開き文化六年(1809)に千住で渕上と云う友人の仇を討ち,その後に佐倉の浪士富津某に渡るが富津は戊辰の役で薩摩に加わり壮烈な戦死を遂げる,死屍と刀は長年世話をした根津の豆腐屋の銀次が引取ったが,豆腐屋に刀は無用なので懇望されるまま浅野某に譲ったが,明治九年の廃刀令で武士にも刀は無用の長物となり,浅野から某華族に移り,華族より刀剣鑑定家の本阿弥某の許へ,そして,「村正の傑作ならば,値段は問わない」と云う玄洋社の杉山茂丸の手の内に納まる。杉山は気に入った刀ならば,先祖の墓を質に入れても買った,と云う逸話の主でござった。
 早速,この刀も桂太郎公爵の処に質に入れて,その借金で支払いを済ませたが,どうも不思議な事にそれから桂家に病人が絶えない,この刀を早く引き取ってくれ!と云われて,杉山は今度は時の総理である伊藤博文に見せたら無闇に欲しがったのでロハで贈呈した。そして,二年後に伊藤はハルピン駅頭で狙撃されて落命。エライコッチャ〃〃となった。これは実際の刀の変遷史であり,為に「村正」の妖刀視は今だに勢いは衰えぬのでご猿。実はシィーだが,当家には未だ「村正」の師匠や親戚縁者の作刀がタント有るのでご猿で何時の日にか,その切れ味を十二分に確かめて見んと遺憾?と思っとるところだはなぁ〜。

勤皇刀としての「村正」外伝。
 時は幕末,幕府が弱体化し巷は「勤皇&左幕」の日替わりメニューの如き有様となった。そこで,両手を挙げて受けに入ったのが,刀屋と倒幕を狙う維新の志士。これらが争って徳川家に祟る「村正」と,勤皇刀工として有名となった「源清麿」を求めた。この二刀は羽根が生えて飛ぶ様に売れる事になったが,何分「村正」は前述の如くで残存刀が少なく,「清麿」も腕は抜群に良いが酒好きが嵩じアル中になり,42歳の若さで自刀して果てる,両刀は古刀と新〃刀なので接点は無いのだが,唯一「よう切れる」と云う類似点はある。特に清麿は今では超レァーなシルバーカード物となり,「虎徹」と同値が付けられている。

西郷南洲の鉄扇
仕込みの村正

 西郷隆盛(南州)も右記の如くの鉄扇仕込みの村正を愛用していた,両刃造りの短刀で中心に「村正」と銘が刻まれていた。
 鉄扇の親骨には,次の様な詩が彫られていた。

   首腰間に鳴り 粛々として北風起る
   平生壮士の心  以て寒水を照す可し

  これは,刑珂という壮士が,秦王を倒すと云う使命を帯びて,
  易水を出発するときに歌った故事によるものと云われている。

さて,次号は…シト〃〃ピッチャンの子連れ狼の「同田貫」見参!…と参りましょうか。



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