東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(21)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 キリスト十二使徒の一人,聖ヤコブが今のスペイン,サンティアゴという処で布教活動をし,その後,故郷エルサレムでヘロデ王の手に掛かり殉教しました。その遺骸がヤコブの弟子達によって運び出され,サンティアゴに葬られたという古い伝説がありました。遺骸は9世紀の初めに奇跡的に発見され,欧州に多くの信者を擁する教会から発表されると,ヤコブが布教した聖地を訪ねて歩く約800kmの路が巡礼路と呼ばれるようになりました。
 何故サンティアゴ巡礼路を知ったかと云いますと,私が共に東海道はじめ五街道を歩いた萱原画伯から,彼の仕事の関係先の吉田さんが約50日かけて巡礼路を歩いた記録と共に,旅行で出会った風景や旅人の写真を編集した貴重な冊子を頂いたからであります。
 世界中から巡礼人がやってきますが,フランス西部にあるサン・ジャンの巡礼事務所で登録手続をし,巡礼手帳をもらうと,誰もが巡礼路を歩き,行く先々で宿泊,聖地に於ける礼拝等で特典を得ることが出来ます。旅の動機は「宗教」「観光」「スポーツ」を問いません。日本の四国八十八ヶ所巡りを彷彿させますが,私と吉田さんは不思議な縁(えにし)によって結ばれていたことが分かりました。
 実は,私は1994年の2月,一念発起して,日本橋を振出しに東海道五十三次の旅に出掛けました。休日の日のみ行動し,初日は日本橋から歩き出して,行ける処まで行って,戻って来ます。次の休日は前回の最終地点から行ける処まで,という具合に,尺取り虫のように,京都まで延べ30日以上かけて,出発から250日後に三条大橋に立つことができました。箱根の石畳道を越えて沼津の辺りまでは土地勘もありましたので,一人で何とか約10日かけて行けました。ところが,その先は未知の世界でしたので,一計を案じました。中学時代からの友人である萱原画伯に声をかけ,何回目かの誘い出しに成功したのが,初めての一泊旅行になった原宿から吉原宿にかけてのときでした。
 私は只歩くだけでしたが,画伯はスケッチブックと鉛筆を携行し,到る処で風物を書き留め,以後,弥次喜多道中となって,京都に到着後,画伯のスケッチに私の文章を添えて「ぶらり東海道旅日記」を出版しました。
 海道歩きは,始めると楽しくて仲々やめられないものです。以後,中山道,日光街道,奥州街道,甲州街道と,2000年までに五街道を踏破することができました。私達の旅日記に刺激を受けて,同じく五街道を歩いたのが,萱原画伯の友人の友人,吉田さんです。しかし,吉田さんの凄い処は,奥州街道は遙か青森の龍飛岬まで行ったことであります。
 私も奥州街道を歩き出したときは,青森まで800km以上を行く積りでした。ところが,江戸幕府が定めた五街道の奥州街道は白河の小峰城までであることが分かり,途中で挫折し,あとは老後の楽しみに,と云って未だそのままになっております。私はそのことにある種のうしろめたさを感じています。
 私達の街道歩きが刺激となって,吉田さんは,五街道踏破,そして海外に雄飛,サンティアゴ巡礼路を行ったことでしょう。しかし,今は吉田さんの快挙により,逆に私が刺激を受けています。吉田さんは,今から10年前に「巡礼の道絵巻」(ロマネスク彫刻紀行-池田宗弘著,形文社)という本に出会い,周到な計画と準備の上実行したことを,氏の著書の序文で述べておられます。
 私には欧州巡礼路は到底無理でしょうが,弘法大師が弟子達と歩き,聖地を定めた,日本版巡礼路,四国八十八ヶ所巡りは,生涯かけて実現し度いと念じております。




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