東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.92

江戸の香りが息づく町散策No.1
堀割に下町情緒が漂う町「深川」

青木行雄


 平成19年8月26日(日),気温37℃(?)という猛暑の日,「伊能忠敬」が全国測量に出る時,必ず富岡八幡宮に参詣してから出発したと言う,八幡宮の「忠敬像」の前に集合して,私達の深川散策は始まった。

※富岡八幡宮の大鳥居を入った所の左側にある「忠敬像」,日本測量に出発する力強い意気込みが感じられる像である。
 ちょうど,八幡宮の境内には「古市」が始まっていて,人々でごったがえしており,静かな八幡宮の様子は一変して,お賽銭を上げてお参りするような雰囲気では無かったが,手を合わせての出発である。
 平成13年10月21日富岡八幡宮において「伊能忠敬」の銅像除幕式が行われ,迫力ある銅像がこの八幡宮にお目見えし,名碑がまた1つ増えたのである。
 忠敬は1745年(延享2年)下総国,現在の千葉県九十九里町に生まれ,17歳の時,下総国佐原村,現在の千葉県佐原町の酒造業を営む豪商・資産家の伊能家の婿養子となったが,傾きかけた商家の建て直し事業を成功させた。
 1795年(寛政7年)49歳で隠居,家業を長男に譲り上京,深川黒江町・現在の門前仲町1丁目18番地に居を構えたとあるので,我々一行は,富岡八幡宮より,深川公園を横切り,葛西橋通りの旧黒江町,忠敬住居跡,石碑にやって来た。ここから浅草竹町・現在の浅草橋3丁目にあったと言う,幕府天文方暦局の高橋至時先生宅に通ったのかと思いをはせ,江戸の町を想像しながら忠敬先生を偲んだのであった。
 この度の散策の発端は忠敬が九州測量の折に我が九州大分県中津市耶馬渓町の片田舎にも実測の為に,何泊かしていた事実を我が友人から聞き,耶馬渓町史を調べたが分からなかったので,改めてその偉人に会いに来たと言う訳である。
 伊能忠敬測量日記からの郷土史によれば,忠敬が大分県下毛,玖珠の両郡を測量したのは,1812年(文化9年)7月である。この年の2月には宇佐,下毛両郡に亘り百姓一揆が起っている。伊能忠敬の測量日記より郷土関係についての記述を以下抜粋する。
 昔々 私の故郷に住所は豊前国中津領下毛郡野仲庄平田村字小友田。
「文化九年(1812)7月7日
 朝曇五ツ頃より小晴先手七ツ半頃後手六ツ後御料所西谷村出立」
 先手,後手とあるから,2班に別れて測量が行われたのであろう。
 そして「中津領曽木村,冠石野村,平田村字宮ノ馬場先手八九ツ前,後手は羅漢寺立寄九ツ半頃豊前国下毛郡野仲庄平田村宮ノ馬場着。止宿神主甲斐飛弾,坂部正蔵下役茂助此日も午後雷雨あり,着後中津使者山田両右衛門来る。中津候より送物あり此夜晴天」
「同年7月8日柿坂村を通り宮園村に入る」
「宮園村の止宿,庄屋治右衛門新宅造作」
とあるが,豊前国下毛郡宮園村の庄屋,後の有名な財閥「朝吹治右衛門」宅である,こんな先祖を持つ今回の深川探索の同行者,中西氏の意向も大きい。

 

 横道にそれてしまったが,歩きながらの散策続きを進めて行くと。

 忠敬住居跡のすぐ近くには,水運に恵まれた深川の堀を挟んだ両岸に,倉庫が今でも多く残っていた,日本資本主義経済の始祖といわれた「渋沢栄一」の存在は大きいが,この永代通りの右側に昭和3年に建設されたコンクリートの渋沢倉庫があったが,平成15年に現在風の高層ビルに変ってしまった。福住から佐賀町の堀の両側は今でも倉庫が多いが高層マンションにもかなり変っている。そこから清澄方面へ向かって歩くと,明治・大正時代に活躍した浅野総一郎が,日本で初めてセメントを造った場所が見えて来た。後のセメント王,資源再生王,臨海工業地帯開発の父と呼ばれ,一代にして浅野財閥を築いた実業家,「本邦セメント工業発祥之地」の碑があって,入口には,「浅野総一郎」の銅像がある,太平洋セメント(株)清澄ビルがあったが,周辺は,マンションが建っていて,2?3年前よりかなり風景が変っていた。
  そしてこの近くに清澄庭園があって,一般者150円(65歳以上は70円)払って入園する。

※ 8万1千m2もある広大な清澄庭園は素晴らしい,東京都の管理する,名園である。
 近くの江東区三好の成等院に墓があるが,江戸の豪商,紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられている。その後,1716?1736年,享保年間に下総国,関宿の城主久世大和守の下屋敷となり庭園の原形が造られたようである。
  1878年(明治11年)に岩崎彌太郎がこの邸地を社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画,1880年(明治13年)に「深川親睦園」を開園したとなっている。その後も造園工事は進められ,隅田川の水を引いた大泉水をはじめ築山,枯山水を中心に,周囲には全国から取り寄せた名石を配して明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」として完成した。1979年(昭和54年)3月31日には東京都の名勝に指定されている。
  なお,1923年(大正12年)9月の関東大震災や,1945年(昭和20年)3月の大空襲の時には避難場所として多くの命を救ったのである。
  訪庭した日は真夏の37℃?,日陰欲しさに傘亭に飛び込んだが,何んと何んと,喧しい程の蝉の声に気が付いた。あの名句はあまりにも有名だが「閑さや,岩にしみ入る,蝉の声」の蝉を思い浮かべたが,「この暑さ,肌にしみ入る,蝉の声」の心境であった。また,護岸工事のときに,この庭園内に移したと言う,芭蕉の句碑「古池や かはづ飛び込む 水の音」の名碑を見る事が出来た。
  この後,清澄庭園を出て近くの江東区三好の成等院に向かった,紀伊国屋文左衛門(紀文)の墓のある寺である。

※ 紀文の石碑であるが,左隣りに小さく見える立石が,紀文の墓である。昭和33年に出来たと言うこの大きな石碑を覆うようにある青木が,紀文の出身地の紀州みかんの木であるが実が鈴なりになっていた。
 数奇な運命を歩いた紀文は最後に一文なしの身となりこの江東区の成等院の寺に眠ったと言うが,余りにもお粗末な最後で今では考えられない結末であったと言える。
 紀文は1669年(寛文9年)に紀州に生まれ,みかんを江戸に運び,大儲けした事は事実のようである,「沖の暗いのに白帆がみえる,あれは紀州のみかん船」という俗謡は紀文の代名詞として知られている。
 紀文は,みかんで儲けた財を利用し,時の幕府の要人,老中・柳沢吉保に取り入り,上野寛永寺根本中堂の建築材の納入で莫大な利益を手にしたとなっている。これが材木商として財を築いたきっかけとなった。江戸の開発も進み,木材の消費も当時半端では無かった様だが,彼の貯財も半端では無く,散財も見事と言われ,吉原での豪遊ぶりも半端では無かったと紀文の逸話には語り伝えられている。
  八幡宮の神輿や,仏像等の奉納等も記録に残され,永代橋の築造も紀文と言うから,凄い。
  紀文については,この辺で中断するが,時代を風靡した紀文がこんな末寺で最後なのかと信じられないが,事実である。
  成等院の紀文にご冥福の手を合わせ,すぐ近くの深川江戸資料館に立ち寄った。
  お店が並ぶ江戸深川の町並みを再現し,懐かしい庶民の生活再現展示や,深川の町が育む人情と心意気の深川情緒が感じられる。音響効果を利用して,街並に「にわとり」が時を告げ,町の木戸が開き,あさり売りの声が響く,夜明けとともに始まる江戸深川の一日,時間の流れとともに情景が変り,屋根には「ねこ」が時間おきに泣いていたり,一日の様子を25分程に集約し,暮れ六つの鐘が鳴ると,もう夕暮れである。音と光がかもしだす江戸庶民の生活を表現している。
  江戸時代にタイムスリップして表に出たら,おなかがグウ?と鳴いた。江戸時代には,深川で取れたと言う,館内のあさり売りの声に誘われて,早速「深川めし」を賞味,今日は江戸時代にどっぷりである。

 そして深川は,我が国の文学史上偉大な業績を留めた松尾芭蕉の「ゆかり」の地でもある。
  江戸資料館を出て,あさりの「深川めし」をたっぷり食して,今後は俳句の世界,芭蕉に思いを馳せた。
  芭蕉は,1680年(延宝8年)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ様である。
  そして,この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し,多くの名句や「奥の細道」などの紀行文を残したのである。この草庵は,門人から贈られた芭蕉の株が生い茂った所から"芭蕉庵"と呼ばれ,芭蕉没後,この近くの武家屋敷内に保存されていたらしい。
  その後,いろいろの経過はあるが,江東区常盤1?6?3に1981年(昭和56年)4月19日に芭蕉記念館が出来て,そこに立ち寄ったのである。
  入館のその前に近くにある芭蕉史跡庭園に立ち寄った,庭園内には芭蕉翁像や芭蕉庵のレリーフを配し,往時を偲ぶ事が出来た。そして持参の焼酎を芭蕉翁と一緒に飲もうと広げて見たが『病気になるよ』と仲間の反対もあって,なにしろ暑い日で日陰もなく炎天下の為,ゆっくり飲める場所(場合)では無かったのである。場所は隅田川と小名木川の隣接地とかで,素晴らしい眺めであった。


※ 芭蕉翁像であるが,隅田川の流れを見ながら,どんな俳句が生まれるのか。

※ この近くから,舟で旅に出た場所らしい。芭蕉翁が毎日見ている風景である。
 炎天下の芭蕉史跡庭園から,すぐ近くの江東芭蕉記念館に汗をかきかき移動し,涼しいと思う館内に入ったのだが,あまりの熱さにクーラーもあまり効いていない所から掃除のおばさんに,このくそ熱いのによくも歩きの散策が出来るはね?と冷やかされ,またまた下町の悪言葉に閉口である。
  館内の芭蕉の歩いた道を辿りながら,俳句の雰囲気を味わったが,奥の細道は,1689年(元禄2年)3月27日に江戸深川を出発してから,その道のりは,約600里(2400Km)およそ150日の旅とされているが,その年の8月下旬大垣に到着したと言う,その旅先々で俳句が多数紹介されている。
  せっかくだから,今日歩いた場所を5?6句にまとめて見た。

  参加友人たちの作品
(1) 清澄の 水辺騒がす 蝉しぐれ
              (1) 立ち寄れば 猛暑に喘ぐ 芭蕉像
(1) 秋風や 出会い深まる どじょう鍋
              (1) ひとひねり 熱さにめげず 芭蕉追う
(1) 古希の人 深川めぐり 江戸探し
              (1) この暑さ 肌にしみ入る 蝉の声


※ この地図は深川江戸資料館のパンフより
  記載させて頂きました。
1.富岡八幡宮から始まり→2.深川公園→

3.伊能忠敬深川住居跡→4.渋沢倉庫跡→

5.浅野総一郎セメント工場発祥の地→

6.清澄庭園→7.成等院紀文の墓→

8.江戸資料館→9.深川めし→

10.芭蕉史跡庭園→11.芭蕉記念館→

12.高橋どじょう→解散
最後に,古い歴史のある高橋の「どじょう鍋」で又又盛り上がり,最後の宴会となる。
 あっという間の深川散策の1日であったが,炎天下の猛暑の日にも関わらず,偉大な先人達の偉業に触れ,江戸情緒に対面,深川めしに,高橋どじょうを堪能,江戸にタイムスリップ出来た幸せな下町散策の1日であった。

平成19年9月2日記

 


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