東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.93

「歴史探訪」No.48
「江戸築城550年目の証」

青木行雄


 2007年(平成19年)は,太田道灌公が江戸,今の皇居の辺りに江戸城を築城してから,550年目に当たり,いろいろな行事が行なわれた。
  皇居東御苑外堀・平川門の近くに「太田道灌公追慕の碑」があるのを知っている人は少ないと思う。
  昭和11年7月26日,当時の東京市長,牛塚虎太郎の名で昔の江戸城の石を利用して,造った「太田道灌公,追慕之碑」が建立されている。
  70年経ったこの碑は,大変大きな石碑ではあるが,刻まれた字は薄れ何の石碑か,全く分からない状態であった。この程,築城550年目に当たり,磨きを入れて,すぐ横に,「江戸城築城550年記念の標」の木枠を建てて,平成19年9月25日に,主催・江戸天下祭実行委員会,千代田区,千代田区観光協会,共催・後援団体:特定非営利活動法人 江戸城再建を目指す会,太田道灌公墓前祭実行委員会等による除幕式が行なわれた。
※富岡八幡宮の大鳥居を入った所の左側にある「忠敬像」,日本測量に出発する力強い意気込みが感じられる像である。
※除幕式に,除幕した千代田石川区長,高木観光協会会長等の面々である。
太田道灌公,追慕之碑に書かれている文面を記して見ると。

「寛正五年春,江戸ノ城将太田道灌公カ上洛参朝の際,居城ニツキ勅問ニ奉答シタルノ歌ニ

  吾庵は松原つつき海ちかく富士の高嶺を軒端にそ見る
ノ一首アリ 城ハ東ニ川ヲ帯ビ南ハ海ニ臨ミ西ハ丘陵起伏シテ遥ニ富士ノ秀峰ヲ仰ク歌ハ誠ニ能ク其ノ景勝要害ヲ盡クセリ

公名ハ持資関東管領上杉定正ノ重臣タリ幼ニシテ聡邁尊王ノ志篤ク文武ノ道ニ通シ兵馬ノ技ニ精シク築城ノ技ニ長セリ 長禄元年城ヲ江戸氏ノ館址ニ築キテ百代名城ノ基ヲ創メタリ 爾来此ニ居ルコト三十年能ク主家ヲ扶ケテ英名大ニ振ヒ八州ノ群豪風ヲ望ンデ来リ従ウ 常ニ力ヲ民治ニ效シ文事ヲ奨メ徳化四周ニ普ク遠近ノ士庶陸続トシテ来往シ店舗軒ヲ連ネ船舶河口ニ集ル

文明十八年公ハ讒ニ遭ヒテ相州糟屋ノ主家ニ斃レタリト雖 其ノ城池ハ依然トシテ関東第一ノ形勝タリ 徳川氏ノ覇府ヲ経テ明治ノ聖代ニ及ヒ畏クモ皇居ヲ此ニ奠メラレ江戸ハ東京ニ改称セラレテ日ニ月ニ殷賑ヲ加エ今ヤ世界第二ノ大都市トナレリ 是レ実ニ端ヲ公ノ築城ニ発シタルモノニシテ壱千古不朽ノ功業ナリト謂ウヘシ

茲ニ公ノ四百五十年祭ヲ行ウニ方リ 碑ヲ旧城ノ邊ニ建テ市民ノ永ク遺徳ヲ追頌スルヲ資セントス

昭和十一年七月二十六日
東京市長 牛塚虎太郎」

  以上が追慕之碑に記されている文面であるが,漢字と片仮名による文章であり,古い戦中の匂いがする。

  又,今回千代田区が,太田道灌公 江戸城築城550年記念の標の文面も紀して,550年の祝として残しておきたい。

記念の標
「江戸城築城 550年に当たって
左にある「追慕の碑」は,太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが,今年は,道灌公が長禄元年(1457年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから,丁度550年に当たります。
この記念すべき時に当たり,都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで,顕彰の標とします。
太田道灌(1432?86)は室町中期の武将で歌人,名は,資長(すけなが),道灌は法名。扇谷上杉家の重臣,1457年,この千代田の地に江戸城を築く,文武両道に優れ,30数戦して負け知らずの名将だったが,山内上杉家の策謀により主君に暗殺された,江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。
千代田区観光協会(協力)

七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき
平成19年9月25日
千代田区」

※この写真のように立札の文面が以上のように記されている。平川門のすぐ近くにある。
 太田道灌の略歴をかいつまんで記して見た。

 太田道灌(1432?86年)は,室町時代の中期,扇谷上杉定正に仕え,文武両道に優れた武将であった。幼名は鶴千代といい,抜群の天才的児童で鎌倉五山で関東最高の教育を受けた。元服して資長と名乗る。のち扇谷上杉持朝より名を源六郎持資と賜う。22才で従5位上左衛門大夫となる。1457(長禄元年)江戸城(現皇居)を築城し,26才で江戸城の城主となった。当時,関東は古河公方足利成氏と扇谷,山内両上杉家とが対立し,混乱と戦争が続いていた。道灌は扇谷上杉定正の重鎮として,関八州の要の地,武蔵野に築城した江戸城,この堅城により関東平定の為,転戦したと言われている。それまで城といえば山城で山塞という様なものに過ぎなかったが江戸城は平地に設けられたという点で画期的であり,かつ自然の地形と人工の堀を掘り,土居を築き,更に複数の郭を組み合わせる事によって防御力の点で従来の居館とは全く異なる,所謂「道灌がかり」と言って,攻守と共に優れた築城法で建てられている。

 そんな訳で,江戸城はこの時代としては型破りの壮大,堅固な城だったのである。そして城の前は,日比谷潟で海が迫り,後方には神田の山がそびえ,天然を利用した要塞でもあったのである。
  武将,築城家の道灌には,多くの人の知る所だが,こんな逸話も残されている。「山吹伝説」。
  道灌が狩りに行って雨に降られ,一軒のあばら家の娘に蓑(みの)の借用を申し出た。すると,娘は黙って,ヤマブキのひと枝を差し出した。意味が分からない道灌はそのまま館に帰った。娘は家に蓑が無い事を「七重八重 花は咲けども 山吹きの 実の(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」の古歌に託したのだ。
  不明を恥じた道灌はその後,和歌の勉学に励んだ,となっている。この時の娘も老婆であったとか,いろいろの説があるようだが,ここではかわいい娘としておこう。
  道灌は早くから家督を継いで歌道,合戦,築城に名をあげ,歌人としての名が京の都にまで,響いていたという。
  古今諸家の兵書を読み,世に軍法の師範と称され足軽戦法の創始者と言われたのである。
  1865年(寛正6年)上洛して,将軍義政の問いに答えて,又後花園上皇の問いに答えて,

「露おかぬかたもありけり
       夕立の空よりひろき 武蔵野の原」

「年ふれど我まだしらぬ都鳥
       すみだ河原に宿はあれども」

 上皇は非常に感心され,次の御歌を賜ったと伝えられる。

「むさし野は高がやのみと思いしに 
       かかることばの 花やさくらん」

 文武両道に秀でた道灌だが,1486年(文明18),今の神奈川県伊勢原市の館で主君に謀殺され,55歳の生涯を閉じた。しかし,謀殺経緯には様々な説があって謎に包まれていて,はっきりした事は18代子孫資暁さんも分らないと言う。
  それより,5百余年,江戸城は北条氏から徳川氏へと受け継がれ,現在になったのである。
  こうした道灌の業績や逸話にまつわる像や石碑など都内でも数多く見られる。

 新宿中央公園に山吹伝説に基づいた道灌と娘の像が建立され,豊島区の都電面影橋駅前にも山吹伝説の地として「山吹の里」の石碑がある。又有楽町の東京国際フォーラム内の立像や,JR日暮里駅前の騎馬像は勇姿を見せ,ありし日の道灌を思い出させる。
  熱川温泉の海岸や川越庁舎の前にも道灌の立像が見られ,弓矢を持った道灌の狩姿も勇ましい。
  この他,埼玉県越生町,千葉県佐原市など道灌ゆかりの地が随所にある。先にいろいろ出て来た,山吹伝説の場所も荒川区の町屋,横浜市金沢区にも言い伝えられると言うのである。
  そして,最も道灌と関わりが深いと言われる,北区赤羽の静勝寺には道灌の座像が安置されており,道灌が亡くなった日とされる,7月26日には毎年盛大に法要が行なわれ,道灌に関わりのある人達も大勢集まると言う。
  又,道灌が謀殺され,55歳の生涯を閉じた今の伊勢原市でも毎年「道灌まつり」が盛大に行なわれるが,伊勢原市内にある,大慈寺と洞昌院には,どう言う訳か,2寺に「太田道灌の墓」がある。
  平成16年10月に伊勢原市長に就任した,長塚幾子女史は,道灌ゆかりの地として,観光に力を入れ伊勢原市の売り込みに一生懸命であった。

 こうして道灌の行動や実績を調べて見ると,500年以上も昔,戦乱の室町時代に勇敢に活躍し,歌人でもあった道灌が,不慮の謀殺を受け,500年以上も経った今もなお,諸説が語り続けられていることは,今なおスーパースターであり続けられる所以かも知れないと思う。
  そして,江戸城最初の築城から550年経った今,江戸城再建の話が持ち上り,日増しにその声が高くなって,「江戸城再建を目指す会」(理事長小竹直隆)も,NPO法人の指定を受け,いろいろな行事を催し,他会にも参加,その熱気が浸透しつつある状況になった。是非,皇居に50mの天守閣の再建を実現したい,そして,江戸東京のシンボルとして,観光のメッカとして,世界の江戸東京として,日本の歴史と日本の伝統を東京皇居から発信したい,見る,聞く,探るの江戸城,しかも是非木造で建築実現したいと思う。幸い東京都には,うなる程切りたい木がある,これを使わない手はない。なんとか出来ないものかと単純に思っている私である。

※太田道灌,18代目の子孫,太田資暁氏と同席,太田道灌公墓前祭実行委員会会長,現在医療法人医親会理事長をなさっている。

  ※ 道灌の 歴史が語る あちこちに
           今も絶えない 山吹伝説

  ※ 七重八重 500年もの 歴史から
           語り継がれる 道灌の息

  ※ 江戸城の 再建目指し 天主跡
           力合わせて 乗り越えて行く

平成19年10月21日

 


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