東京木材問屋協同組合


文苑 随想



企業と家業と生業と

榎戸 勇

 一般に私共は中小企業といわれているが,私は全く別の視点から全ての営業体を企業と家業と生業に別けて考えている。

 企業の経営は常に増収,増益を目標にしなければならない。そうしなければ同業他社との競争に敗れてしまう。それは血みどろの生存競争である。日経新聞等の記事を読んでいると,その様子がよくわかる。しかし最近は時折増収よりも増益優先に軸足を移す企業も増えつつあるようだ。スーパーのイオンは最近国内ではその方向へ方向転換すると報じられている。国内の消費需要低迷の今日,それはやむを得ない,そして正しい方向であろう。しかし国内では増収を放棄しても海外へ展開して増益だけは守ろうとの強かさは流石である。企業としての強さが見られる。

 それでは家業とは何であろうか。私は次のように考えている。
  家業とは株主資本のほとんど全部が家族の出資であり,従って取締役,監査役等の役員も家族主体の事業体である。私共材木店や製材工場等はごく一部を除いて,そのほとんど全部が家業ではなかろうか。

 船に例えればそれは漁船のような小船である。小船は荒天の日や荒海の日には海に出ないで,港でじっとしている。台風等が来る時には船をしっかり縛って船を守る。増収や増益よりも安全が優先されるのである。勿論,増収も増益も望ましいが,それは結果として得られるもので,安全を守ったうえで得られる成果と考えているのである。

 家業は危険を避けて経営しなければならない。失敗したら家族もろとも奈落の底へ沈んでしまうのである。

 私は家族とは更に広く,従業員やその家族も自分の家族をとりまく一族と考えている。今日営業していられるのは従業員,そして彼等を後顧の憂いなく仕事に励むようにして下さっているその家族の方々のおかげである。
  私は,従業員の肩たたきをして会社都合でやめて貰うことはしない。60才定年,そして65才迄は嘱託として働いて貰うことにしている。そして会社として必要で且つ本人の希望があれば,その後も1年きざみで就業の道もないわけではない。まさに会社と従業員は一体なのである。

 その代り経済が右肩上がりで忙しい時も無やみに人を増やさない。現状の人々でできるだけの仕事をすることにしてきた。日の長い夏の日は6時すぎ迄働いて貰うこともあった。従業員も不平不満を言わず働いてくれた。最近は全く仕事が少ない。5時少し前に簡単な掃除をし,5時になるとシャッターを降ろして歸るようにしている。私もそうしている。用も無いのにぐずぐずしているのはかえってよくないと考えている。私の家業としての60年近い日々はそのような生活であった。

 それでは生業とは何であろうか。私はその日その日の生活のために働いている方々が生業だと思う。個人タクシーの方々や軽トラックに新鮮な魚を積んで街かどで売っている人達である。ある商店街のハズレで魚を売っている人が居る。仕入はやゝ少なめにし夕方5時すぎには全部売り切れるようにしているようだ。4時頃そこを通ると近所の奥さん方が大勢来て買っている。利巾を少なくし早めに全部売り切れるようにするのが商売のコツらしい。
  この商売を見ていて,随分以前のことだがNHKの大河ドラマの「おしん」を思い出した。おしんはそのようにしてたくわえたお金で,やがて店を持ち生業から家業へ進んだ。そしてやがて食品スーパーに発展したが,やがて大手の食品スーパーが増えて売上が減少してくると,店を閉じて老後は静かにのんびりと暮すようになった。当時,東南アジアの人々は日本にも昔はおしんの子供時代のような時代があったが,苦労してやがてあのように豊かな生活ができるようになったことで深い感銘を与えたとのことである。

 現在の新木場の木材業はおしんが店を閉じた時と同じような感じがする。すでに新木場木材団地面積の7割以上が木材業以外になっている。そして一軒,また一軒と閉店して昔の住居の旧木場へ,あるいは江戸川区やその他近隣地域へ店の看板を移している。私はそれでいいと思う。資産が有るうちに「おしん」のように撤退することのほうが,いつ迄も営業を続け赤字が累積して仕入先や銀行に迷惑をかけ,そして全財産を失うよりはるかによい。見栄を捨てて決断することも必要である。木材の需要もそして供給も,その中身も形態もすっかり変った。その変化に対応できるごく一部の家業の方々は企業への道を進んでいる。それは素晴しいことであるが誰でもできることではない。家業としての体力,資金力,人材,経営力を十分参酌して考えなければならない。社長にそれを経営する経営力があるのか,それを担う人材が社内に居るのか,もし居なければそのような人材を確保するあてがあるのか,そして資金は大丈夫なのか,家業から脱皮するのであれば少なくとも半分は自己資金でまかないたい。そして残りを金融機関から借入するとしても金利は成可く安く,しかも長期固定金利で調達する必要があろう。金融機関との話しあいは十分できているのか,その他色々のことを十分検討したうえでやる必要があろう。しかしこれは大変難しいことである。十分考え準備してやらないと命とりになる惧れがあると思う。

 本原稿は全て私の独断である。反論も沢山あろう。全て,こんな考えもあるのかとして読んで頂ければ幸いである。

(了)
H. 20. 4. 7

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