東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.95

江戸の香りが息づく町散策 No.2
谷中界隈と朝倉彫塑館

青木行雄

 江戸のある街,谷中界隈は実に江戸のムードを味わえる所が満載である。
 JR日暮里駅を降りて,谷中に入る。小さな階段を登ると,もみじ坂,そして谷中五重塔跡桜並木通りと続くのだが,今,日暮里駅は大修理中で駅の中は,ごった返している。いずれ立派な駅に生れ変わるのが楽しみである。
 とにかく谷中は,岡倉天心,幸田露伴,夏目漱石等の旧居,山岡鉄舟,三遊亭円朝,長谷川一夫,獅子文六,横山大観,川上音二郎,徳川慶喜等の墓もある。歴史の銀座街であるのだ。そして近くには,根津神社や,森鴎外荘のある水月ホテルもある。また近くには上野公園があって,その中には寛永寺もある。上野の美術館等を歩けば,それこそ何日あっても足りない位だが,今回はその中の朝倉彫塑館を記してみたい。

※朝倉宅の旧宅を美術館にした質素な建物。台東区の運営。
 入館料大人 400円,小中学生 150円。

 日暮里駅を出て御殿坂を登り,幸田露伴旧宅跡を通って先の十字路を左に折れてすぐの所に朝倉彫塑館はあった。昔の古い旧宅と言う感じの館であるが,そのはずで本人の旧宅を改造した美術館である。

 建物は,鉄筋コンクリート造りのアトリエと丸太と竹をモチーフにした数奇屋造り3階建の住居で構成されている。この建物は台東区に寄贈された台東区の登録文化財となっている。
 館内には,朝倉文夫の代表作である「墓守」,「進化」,「時の流れ」等の他に,「大隈重信像」,「九世団十郎之像」など有名な人物像や猫などの動物像を約50点常時展示している。中に同じ大分県の出身である宇佐の二葉山関に来てもらい,座って貰ったと言う座椅子があったが,わざわざあつらえたと言うばかでかい椅子で,私も座らせて貰った。
 それでは,「朝倉文夫」と言う彫刻家のプロフィールを記して見る。

 1883年(明治16年),大分県大野郡上井田村(現在,大野郡は2005年(平成17年)3月30日の時点で近郊5町2村が合併して,大野郡は消滅し,豊後大野市となった)の村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)10才の時に朝倉種彦(衆議院議員朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが,入学した大分尋常中学校竹田分校(現大分県立竹田高等学校)を三度も落第し,いたたまれなくなった母キミにより,1902年(明治35年)当時,既に東京で新進気鋭の彫刻家として活躍していた9才年上の兄,渡辺長男を頼って上京することになる。初めは俳句を志して,正岡子規に師事しようと願っていたが,上京した当日,9月20日が子規の通夜であった為に諦めた。
 結果的に兄の許で彫塑に魅せられた文夫は必死の受験勉強の末,翌年,東京美術学校(現,東京芸術大学)彫刻選科に入学,寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金がない為に,上野動物園に通って動物のスケッチをするうち,たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始め,ほぼ一日に一体のペースで卒業までに,1200体以上に及んだと言う。この頃,当時の海軍省が募集していた三海将の銅像に「仁礼景範中将像」で応募し,一等を射止め注目される事になったと記されている。
 1907年(明治40年),卒業制作として「進化」を発表し研究科へと進み,谷中天王寺町にアトリエ,朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。また,文部省が美術奨励のために開いていた第二回文展に「闇」を出展し,最高賞である二等となり翌年も「山から来た男」で三等賞を得る。「闇」の出展で無名の青年作家・朝倉は一躍世に知られる事となったのである。
 そして,忠実な自然観照により制作された第4回文展出品2等賞の「墓守」は,彼の代表作になった。
 以来,朝倉は自然主義的写実主義を貫き,日本の近代彫塑の技法を確立すると共に,1916年(大正5年)には33才にして文展審査委員に任命されている。
 1921年(大正10年)に東京美術学校の教授に就任(昭和19年退官するまで,24年間の長期にわたり母校後輩の指導にあたっている。)ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮になった。
 1934年(昭和9年)にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」を作る。アトリエは戦災をくぐりぬけるが,戦時中の金属供出の為に,400点余りの朝倉の作品は殆ど消滅して,原型が300点余りが残されただけであった。
 戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精彩な表現姿勢を一貫して保ち続け,1948年(昭和23年)には第6回文化勲章を受ける。1952年(昭和27年)に文化功労者に,1958年(昭和33年)には日展の顧問に就任した。彼の作品は非常に多作であり,全国各地に数多くの像を残した人である。そして教育者としての活動も盛んに行なったと言われる。
 1964年(昭和39年)4月18日,急性骨髄性白血病にて死去する。享年81。墓所は谷中霊園にある天王寺の飛地にあると言う。

 朝倉彫塑館について…
 朝倉文夫がこの谷中に居を構えたのは,東京美術学校を卒業した1907年(明治40年),24才の時となっている。初めは小さなアトリエと住居であったが,その後,増改築を繰り返し,この建物は昭和3年から7年の歳月を掛けて新築した,朝倉自らの設計によるものと言われる。
 当初はアトリエ・住居そして朝倉彫塑塾の教場として建てられたが,彼自身アサクリックと称した,独特の様式や居室の佇まい,造園の妙味は,朝倉芸術全体を表現していると記されている。一階の茶室,三階の朝陽の間は,純日本風建築の中に豪華さが加味された見応えのする日本間であった。
 アトリエの館内には,朝倉の代表作である「墓守」,「進化」,「時の流れ」等の他,「大隈重信像」,「九世団十郎之像」など有名な人物像や猫などの動物像を約50点常時展示している。また平成13年には,「墓守」の石膏原型が国の重要文化財に指定されている。
 また,俳句,南画,華道や茶道にも優れた才能を発揮した朝倉の手造りの茶杓,南画などの他,遺愛品や彼の美意識により収集した書画,陶器などのコレクションも多数展示公開されている。

 この彫塑館の中央には,自然の湧水を利用した日本庭園がある。
  この中庭は,朝倉が自己反省の場として設計したと言う「五典の水庭」と呼ばれ,儒教の5常を象徴した,仁・義・礼・智・信の5つの巨石が配されており,また四季折々の白い花をつける木が植えられていると言う。

   「仁」も過れば弱となる
   「義」も過れば頑となる
   「礼」も過れば諂となる
   「智」も過れば詐となる
   「信」も過れば損となる

 同じ大分県竹田出身の瀧廉太郎とも縁があって朝倉文夫は,竹田高等小学校での廉太郎の後輩にあたる。
 瀧は1892年(明治25年),大分県尋常師範学校附属小学校高等科から竹田の高等小学校に転入した時,瀧は13歳であった。
 瀧が4年生のとき,11歳の朝倉文夫が入学する。瀧はその10年後に逝去するが,朝倉は同窓生として過ごした1年間の印象を基に,57年後の1950年(昭和25年),大分市の公園内に瀧の像を制作している。
 東京駅の近くに東京都庁本庁舎があった時,庁舎前に「太田道灌」像があったのを知る人は少なくなったと思うが,都庁が新宿に移転した後,今,東京国際フォーラム内に道灌像は健在である。もちろん朝倉文夫作で1952年(昭和27年)作の立像である。
 朝倉彫塑館の3階の「朝陽の間」は純和風の内装で日本建築に興味のある方は是非見て欲しいと思う。粋を凝らした内装造作,数奇屋造りの佇まい,日本庭園と共に日本人の伝統心をそのままに表現した様な,高級感があって上品だが,質素に落ちついたユニークな美術館である。

※根津神社,正面入口,大鳥居,この真黄色の銀杏の紅葉,カラーでないのが
  残念です。

 この彫塑館を堪能した後,全生庵に眠る「山岡鉄舟」の墓に花を供えた後,森鴎外の旧宅にて食事を済ませ,根津神社へ向う。神社内には,銀杏の葉が最高の紅葉であった。ちらちらと落ちる紅葉を楽しみつつ,今日歩いた場所を顧みれば,屋外パーティにも花が咲く。今日の無事に感謝を込めて根津神社を後にする。

平成20年1月6日記

 

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