東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.100

「靖國神社」と「遊就館」参拝見学の記

青木行雄
※神社内の桜並木の下で,裏千家の野点を楽しむ人々,
大都会の癒しの一時である。
※神門の下から満開の桜の間に第三の鳥居の向こうに拝殿が
小さく見える。神門の扉の両方に直径1.5メートルある菊の
ご紋章があるが右上にちょっと見える。
※参集殿の2階より能楽堂方面を写す,散策する人々に桜の花
が微笑む。カラー写真でないのが残念である。
※地下鉄「九段下駅」から「靖国神社」の正門の第一鳥居の
下から参道の風景。大正10年,日本一の大鳥居として誕生し
た。現在のものは昭和49年に再建されたもので,高さ,25m
ある。
     春爛漫。桜,正に満開の日に靖國神社内,桜並木の下で,靖國神社裏千家茶道の野点の茶をゆったりと味わう茶道の真髄を垣間見た。その桜の美しさは,見事と言う他はないが,気象庁による東京の桜開花予想の基準になっている木,能楽堂の近くでの一時であった。
 靖國神社は,何かと世論の対象となり,意見も色々と別れるところだが,日本の為に命を無くされた246万6千余に及ぶ先人の御霊が祭られている。今の日本で,私達がこうして生きて行けるのも,先祖,先人のおかげだと感謝し,日本人の大切な神社として守り続けて行きたいものである。
 晴天の素晴らしい日に靖國で満開の桜に出合えた幸せを神社に感謝して,靖國に眠る御霊に手を合わす。
 靖國神社については,何百回となく話を聞き何回もお参りにも行った。そこで靖國神社について,詳しく調べて見た。
 靖國神社は,今から約130年前,1869年(明治2年)に建立した歴史のある神社である。
 日本は,ご存知の様に明治時代になる以前は,鎖国として,300年余りの長い間,世界との国交を絶っていた。
 1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航以来,次第に外国の圧力で開国が迫って来た。そして幕末の動乱期を迎える事になるのである。この激動の歴史の中で,「安政の大獄」が持つ歴史的意義は極めて大きい,幕府の絶対的権威を盛り返す事によってこの国を守ろうとした大老井伊直弼は,この方針に反する志士を弾圧する。大獄翌年の「桜田門外の変」,そして公武合体,討幕と駆け足で歴史は流れる。この様に日本が大きく生まれ変わろうとする中で,不幸な国内の争い「戊辰戦争」が起こり,国の為に生命を落した人が多勢出た。こうした新らしい国づくりの中で起った「明治維新」で亡くなった人々の事を,いつの世までも伝える為に,明治天皇は1869年(明治2年)6月ここ東京・九段に「招魂社」という名の,社を建てられた。そして1879年(明治12年)いまの「靖國神社」の名に改められたのである。

 靖國神社には幕末維新の国事殉難者も多勢合祀されている。
 吉田松陰命,坂本龍馬命,橋本左内命をはじめ,幕末維新時に国事に奔走して殉難された志士たち,明治8年,太政官,内務省の達示に基づき明治16年5月5日の第13回合祀祭において,武市半平太命,坂本龍馬命,中岡慎太郎命以下土佐藩国事殉難者80柱が合祀されたのをはじめ4,000柱を超える幕末維新国事殉難者が順次合祀されていったのである。
 後程触れて見たいと思うが,昭和になってからの「大東亜戦争」(第二次世界大戦)後の合祀について,問題はあるにしても,幕末の日本を建て直した日本の志士たちにも感謝の気持を捧げ,手を合わす心の余裕もあって欲しいと思う1人である。

 そして,日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守る為に維新後,外国との戦いも何度か起こったのである。明治時代には「日清戦争」「日露戦争」,そして大正時代には「第一次世界大戦」,昭和になっては,「満州事変」,「支那事変」,そして「大東亜戦争(第2次世界大戦)」と次々に悲しい戦争が続いたのである。
 戦争は本当に悲しい出来事であるが,日本の独立をしっかり守り,平和な国として,周りのアジアの国々と共に栄えて行く為に当時の成行きで,こうなったのかとも思うのだが,こうして尊い生命を捧げた,人々の帰り着いた所がこの靖國神社なのではないか。
 幕末の志士達から,第二次世界大戦の御霊まで入れると,何と246万6千余柱が祀られているのである。この中には,維新の志士をはじめ,大正・昭和の戦争で戦死した多くの軍人の他に,女性の御霊も5万7千余柱もあると言うのである。
 女性の御霊についてちょっと記して見ると……
 第二次世界大戦で,沖縄にアメリカ軍が攻めてきた時,軍人と一緒に立ち向かった中学生達がいた。ふるさと沖縄を守るため,沖縄師範学校や県立第一中学,第二中学など九校の男子生徒1,600余人が「鉄血勤皇隊」などの名を付け,軍人と同じように戦った。「ひめゆり部隊」,「白梅部隊」などの名を付けた県立第一高女,第二高女,首里高女など七校の女子生徒460余人が,看護婦として戦場で働き,弾丸や食料を背負って戦場を走り回った男子,女子生徒達も殆どが戦死したと言う。
 この沖縄から,鹿児島へ疎開のために「対馬丸」で航行中,敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて悲しい最後を遂げた700数拾人の小学校児童も含まれている。
 それに,従軍看護婦,軍の輸送船の船員,戦場で取材の新聞記者やカメラマンも祀られているのである。
 そしていつも,論争となる,大東亜戦争が終わった後,戦争の責任を背負って自ら命を絶った方々,更に戦後,日本と戦った連合軍(アメリカ,イギリス,オランダ,中国など)の,形ばかりの裁判によって一方的に"戦争犯罪人"とされ,無残にも生命を絶たれた千数拾人の方々……靖國神社では,これらの人々を「昭和殉難者」と呼んでいると言うが,これらの方々も,一緒に合祀されているのである。

  靖國神社はこの様な訳で毎日多くの人々が参拝しており,いつも賑わっている。中でも一番重要なお祭りの日には,何万人かの参拝者が来るが,多いのは春と秋の「例大祭」である,春は4月21?23日の間,秋は10月17?20日まで,この例大祭には天皇陛下が勅使(天皇陛下のお使い)を神社に差し向けられ,皇族の方々も親しくお参りに来られると言う。とにかく靖國神社はいつ行っても大変賑わっている。

  九段下から地下鉄を降りて,靖國神社の大鳥居高さ25mある第一鳥居を入ると雰囲気は一変する,正面に「大村益次郎」の銅像がそびえ建っていた。靖國神社の創建に尽力した人,明治26年,日本で最初の西洋式銅像として建てられている。
 両側の桜や緑を眺めながら休憩所を通りすぎ,立ち並ぶ売店等を見ながら,第二鳥居をくぐる。すると,正面に神門と言う,ひのき造りの立派なご門がある,昭和9年に完成したと言うが,扉の両面に直径1.5メートルもある菊の花のご紋章が輝いていた。平成6年には屋根銅板葺替などの修復工事が行なわれている。その神門を通ると正面にドーンと立派な拝殿がある。その拝殿の右側に立派な参集殿があって,大勢の待合所となっている。その前側に桜の木があって「能楽堂」があるが,ここの桜の木が気象庁が指定している「東京桜開花予想の木」がある。拝殿の正面より更に参集殿を通り右に進むと「遊就館」があった。展示舘の入口より入場する。

 「遊就館」は,靖國神社に鎮まる英霊の遺書や遺品をはじめ,英霊のまごころや事蹟を今に伝える貴重な史・資料を展示している。
遊就館の入口より写す。この館の中には十万点に及ぶ収蔵品
が保管されていると言う,又遺族からの提供により,7,000人
に及ぶ,御霊の写真が並んでいる。
※入口の玄関ホールに支那事変から大東亜戦争を通して使用
したと言う海軍の主力戦闘機「零式艦上戦闘機」がデーンと
あった。

 遊就館の拝観のしおりによると…
 当館の歴史は,「掲額及び武器陳列所として開館した明治15年まで遡り,十万点に及ぶ収蔵品の中には,絵画や美術品,武具甲冑,武器類なども数多く含まれています」,「館名の"遊就"は,高潔な人物に交わり学ぶという意味ですが,展示された1つひとつの品々には,遊就館と命名した先人の願いや"安らかな国づくり"のために尊い命を捧げられた英霊のまごころがこめられています」と書かれている。
 この遊就館をゆっくり説明まで読んで見て廻るには3?4時間は掛かると思うが,尊い命を捧げられた英霊へ,遠く離れた祖国,愛する故郷,愛する家族の為に命を捧げた御霊のまごころや事蹟に直接触れる事によって,大切な何かを人によって違うが,学ぶ事が出来たのではと思った次第である。
 展示施設の案内までは説明出来ないが,西南戦争から,明治維新,日清戦争,日露戦争から満洲事変,支那事変と順を追って展示があり,わかりやすい。又大東亜戦争では1から5展示まで詳しく説明がされており,靖國の神々展示室には3展示室があって,遺族からの提供で7,000余人の写真が掲示されていると言う。圧倒されて思わず頭が下がり,手を合わせた。近くに居た老人は写真の前で,立ちすくむ光景も見られた。子供であろうか,兄弟であろうか。

 「トラトラトラの電文」の展示や戦跡収集品等十万点と言うから,大変な「遊就館」なのである。
 拝観料大人800円,臨時休館日はあるようだが,年中無休となっている。

 日本に神社はたくさんあるが靖國神社にも正式参拝して,遊就館を1日かけてじっくり見るのもいい。

 日本の歩いた歴史の道をこの目で確かめる。
 靖國神社には,日本の戦争と歴史の道程が,詳しく山積されており,考えさせられる。先祖・先人を知り,苦労に感謝と幸を報告する,日本の道標かも知れないとも思う。

平成20年4月20日記


 お陰さまで20年7月号で「見たり,聞いたり,探ったり」が「100号」目を迎える事が出来ました。本当に,ありがとうございます。
 これもひとえに発行人の吉条理事長様を始め,月報編集部や,関係者の方々のお陰と深く感謝申し上げます。
 これまでに掲載させて頂いた件数は,「お城等」も入れると,今までに延べ300篇になりました。
 そして掲載の場を提供頂いている組合と,少しでも目を通して下さる組合員の方々に感謝を申し上げ,拙文ながら文面の向上に努力しながら続けさせて頂きたいと思っております。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。
                  平成20年7月1日  青木行雄
 

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