東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.104

「深川富岡八幡宮本祭り」“ワッショイ”

青木行雄
※ 八幡宮の門前で御祓いを受ける,神輿連
※ 八幡宮門前で,ねり上げる神輿,勇壮であるが,連続55基のお祓いも
大変だと思う。
 

 「ワッショイ,ワッショイー」,真夏の深川,江戸三大祭りが最高潮となり,55基の神輿は,永代通りを埋め尽くした。3年に一度の「本祭り」は深川っ子の待ちに待った祭りだ。
 江戸時代から伝統を引き継ぎ,何代も続くこの大祭の行事。ギャラリーで見る祭りと,祭りの中に飛び込んで神輿を担ぐ担ぎ手になるのとでは,まるっきり違う何かがあった。祭りの神髄が心身に弾き渡った。「ワッショイ」のかけ声は,何か麻薬のようなものが潜んでいる様だ。担手の気持は担ぐ人にしか分からない何かがある。
 「ワッショイ」「ワッショイ」と足並を揃え,手を45°位に曲げて担棒の片側20人位が揃いの半纏に鉢巻,白いパンツ姿に白足袋,一斉に揃って早くも無く,遅くも無く「ワッショイ」の掛け声と共に動き,水をめいっぱい受けながらの雰囲気は,受ける側,担ぐ側になって見なければ分からない何かを感じた。
 この担ぎ手達の掛け声「ワッショイ」は「和を背負う」から転じたと言われているが,確かに担いで見て,和の心が無ければ,とても担げる物では無いと実感した今回の「ワッショイ」だった。

 神輿のリーダーとも言うべきか,会社で言えば,部長,課長,係長,平社員が居る様に,無言のランクがちゃんとあって,ベテランが夫々指揮を取っている所が凄いな〜と思う。55基の神輿が最初と最後では1時間30分もスタートが違うし,1基の担ぐ距離が100メートルとすると15.5キロメートルになる。この間隔を調整しながら1基の神輿を動かすのが,その1基ごとの神輿リーダーの役目となるが,そのリーダーの指示を受けながら,8人〜12人の調整役が居て,早過ぎる時は,前から担棒を押さえ調整し,遅い時は後から押したり,「ワッショイ」の掛声を早めたり,このタイミングは,長年の経験によるものと思う。そして神輿の大きさにより,担手の人数は違うが,大人の神輿で50人〜80人もいる。担手の1人1人の様子をちゃんと見ながら,疲れている人を実に速やかに変えていく様は見事と言う外はない。
 もう少々,神輿の経験のない人に記して見たいと思うが,大人用の神輿には担棒が4本ある。当たり前の話だが,左側の2本は頭が左に出るから右の肩で担ぎ,右側の2本は頭が右に出るから肩は左側で担ぐ訳である。それを間違えると見た目も悪いし,バランスも取り難い。慣れないと間違え易い。分かっていながら,中棒を担ぐ時,右と左を間違えて,頭をどやされた大変な経験をしてしまった。今年の「本祭り」の日は真夏なのに21℃,びしょ濡れになると寒くて,下の出が早い,どこのトイレも満員で,終わると元に戻るのに3〜4基遅れて大変な苦労だった。又,殆ど前も後もぴったりで前後の人の温もりまで伝わって来る。ある区間,担手が女性だけの場合も設けたが,大部分は男女協働であった。それに今年は担手が多く,少ない方で1基400人,多い方で1,000人と言われ,担手だけで約3万人の人が参加した事になる。そしてテレビでは,観客10万人と発表していた。

 平成20年8月17日,「本祭り」のクライマックスで神輿連合渡御駒番順に盛り上った。祭り毎に順番は違うようだが,四番と四二番が抜けて今回は特別平泉神輿が加わって実質55基の神輿である。

 富岡八幡宮の由来については色々な説はあるが,菅原道真に血縁の長盛法印と言う人が霊夢を受けて,この深川,永代島周辺の砂浜,広大な湿地一帯を埋立て,社地と氏子の居住地帯を開き,富岡八幡宮,この深川の基礎が出来たとなっている。その後人口も増え発展した。
 1657年(明暦3年)この深川の一帯までも焼いた明暦の大火は,江戸城を始め,江戸の町の大半を焼き尽したといわれる。然しこの後,深川一帯は,一気に開発が進み我々の業界の木材の集積場と変り有力な町へと成長して行くのである。そして経済力も増して八幡宮の本祭りも三大祭りと言われる程成長して行った。
  当初は船祭りだったと言うが,1643年(寛永20年)「8月深川富岡八幡の祭礼が始まる」と「江戸東京年表」に出ているが,徳川将軍,若君の健康を祝する神事と祈祷をこの八幡宮で挙行した事が縁となっている。そして神輿が出たのは,2回目の祭りからだと言う事である。
 ここで木場の移転について「江戸東京年表」により,ちょっと記して見ると,「江戸の建設の為,当初,日本橋材木町に置かれていた材木置場は,江戸の拡大と共に移動した。1641年(寛永18年)に深川元木場(深川佐賀町)へ,二転三転したのち,1701(寛文11年)に幕府より9万坪の払い下げを受け,深川木場に移転し,明治に至るが,昭和40年代,新木場へ移転した。」と記されている。
 まだ漁師も多かったので,漁師の若衆,倉庫業も盛んに倉の若衆,木場の若い衆,力自慢の担ぎ手は幾らでも居たのである。当初,八幡祭りのシンボルとなった,三基の総金張りの巨大神輿は,近くに隠居していた豪商紀伊国屋文左衛門の奉納であったと言うが,上野の根本中堂を請け負った紀伊国屋文左衛門はその余りの木材で,永代橋を建てたと言われ,その永代橋が架かって,霊岸島まで神輿が渡御する様になると,祭礼の人出も急増し,とうとう1807年(文化4年)の本祭りで永代橋が人の重みで崩れ落ちる事態となった。他の理由も有る様だが,以後,幕府は富岡八幡宮の神輿渡御を禁止したのである。
 この様に八幡宮のお祭りが江戸情緒を盛り上げ人気が盛況になった理由は,神輿行列に鳶職人の木遣りが加わり,辰巳の花町から辰巳芸者の手古舞が繰り出す等の,事情が加味されたのである。今でもこの木遣の行列と芸者の手古舞は,神輿渡御の花であるが,今ほど遊びが少なかったであろう江戸時代,正しく,風流情緒をかき立てた誕生だと思う。そして神輿と担手に水を掛けるので「水掛け祭り」とか,担ぎ手が上半身裸になるので「裸祭り」との呼び方も生れたのである。
 そして明治維新直後,長年禁止されていた大神輿は晴れて担げる様になった。1871年(明治4年)本祭りには,「ワッショイ,ワッショイ」の掛け声が新しく生れたと言う。
 神輿が禁止されていた期間は,山車によって神輿体渡御を行っていたと言うが,明治後期からは,町々に電柱や電線が設置され始めた為に背の高い山車は自然に通れなくなり,そこで各町内も山車から神輿に変更し町内毎に競って,豪華で重い神輿が次々に誕生する事になった。こうして蘇った深川の夏祭りの大イベントも,1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し,紀伊国屋文左衛門の奉納した大神輿を始め多くの神輿は全部焼失してしまったのである。そして太平洋戦争等の悲しい戦争が続き暫く「ワッショイ」の威勢のいい声は聞けなかった。そして戦後,待ちに待った神輿渡御の再開が1948年(昭和23年)8月15日に実現した。その年の5月28日には隅田川の川開きも復活し,美しい花火が夜空を飾っている。
 この時,82ケ町の神輿が勢揃いしたと言う。こうして再度深川の神輿は復活したのだが,震災で焼失した紀文の大神輿は見る事は出来ない。

  そして何年か経った,1991年(平成3年),当時佐川急便会長であった佐川清氏が「一の宮神輿」を紀文神輿より勝る巨大な神輿を奉納された。重さ4.5トンもある,日本一の大神輿は紀文の因縁のある永代橋から陸揚げされ,総勢4千人の行列を従えて富岡八幡宮に運ばれたのである。何万人かの見物人も交え,八幡宮大鳥居前で行なわれた初担ぎには3千人が参加し,巨大神輿を見事担ぎ上げた。然し余りにも大きく重すぎる為に,渡御どころでは無くなり,これ以降は境内の展示館に展示されるだけになっている。そして,新に宮神輿として1997年(平成9年)に製作した重量2トン「二の宮神輿」として,平成9年の例大祭で渡御したのである。この見事な2神輿はいつでも富岡八幡宮の参道の左側の展示館にて拝観することが出来る。
 2005年(平成17年)の本祭りの主役も54ヶ町が出す町内神輿の行列であった。毎回くじ引きによって並び順「渡御駒番」が決まり,番付も発行される。
 今年,2008年(平成20年)8月17日「本祭り」の順番は下掲図の通りである。
 
  8月17日早朝より各町の神輿55基が永代通りに集結「ドン!ドン!」出発の花火が鳴り響くと,いよいよ連合渡御の始まりである。
 木場から大門通りを北へ,各町内の御神酒所前では一次止めて,より一層盛り上げる,神様によろしくと挨拶をしているのであろうか。
 江戸資料館通りでは30分の休憩に入った。おにぎりや飲物を用意した各町内の給与班が大活躍だが下方の苦労は大変なものだ。準備からゴミの処理まで,下方の方いつも御苦労様です。
 清澄通りから清洲橋通りへ,清澄交差点では差し上げ,舞い上げといった技を披露したが,清洲橋で差して渡る神輿もあると言う,差すとは担ぐのではなく手で上げたままの事を言うが,担ぐ本人達は大変である。
 清澄を渡って左に曲がり,箱崎を通って行くが,ビルばかりで,民家がなく,人も少なく,味けなく,あっけない風景で張り合いが無かった。
 新川で昼食,約1時間位休憩であった。この日は寒い日で21℃位,滅多にない寒さだった。休憩所にスイカ等大量に用意してあったが,寒い為にかなり残り残念でもったいないと思った。これからいよいよ午後最初の見どころである。木遣り,手古舞がつき神輿渡御の先導である。これが江戸時代からの伝統の見せ場なのだ。手古舞は祭の華,男髷に白い小袖を片肌脱ぎにたっつけ袴という独特な男衆のいでたちで木遣りを歌いながら華やかに神輿を先導する。かつては辰巳芸者によって継承されていたが,現在は手古舞保存会が結成され,氏子の娘さんたちに引き継がれている。
  この永代橋を渡って富岡八幡宮までの沿道はそれこそ神輿一色で,祭りはいよいよ最高潮,永代橋を過ぎ最初の見せ場は佐賀町名物のトラックからの豪快な水掛け,永代出張所前では消防団による滝の様な放水,今年は特に消防団の放水が多かったと思われる。寒いのに水浸し,風を引いた人が何百人居るかと思う程だった。八幡宮の前に到着すると,鳥居前ではお祓いされた御神水が用意された神職による水掛けの儀が連合渡御を締めくくってくれる。
 今年に限り平泉からの神輿が参加,前から2基目に加わり先陣が,中尊寺のお坊さんの先導であったが,初めてではないか。何だか妙な気もしたが…。昔は神佛同居であったと思えば納得である。
 深川のお祭りは「ワッショイ,ワッショイ」の伝統的な掛け声と「水掛け祭り」の別名通り,沿道の観衆から担手に清めの水が浴せられ,担ぎ手と観衆が一体となって盛り上がるのが特徴で,江戸の昔の粋を今に伝えるお祭りとして,祖父から親へ,親から子へ,子から孫へと,多くの人々によって大切に受け継がれている事が確認出来た素晴らしい「祭り」だった。そして,深川っ子の心意気でこれからも代々と継承し,伝統の日を消す事無く続けて欲しいと念願する1人であります。「ワッショイ」

参考資料
江戸東京年表 (株)小学館,日本史年表 岩波書店
富岡 富岡八幡宮社報,富岡2丁目町会誌

平成20年10月12日記

 

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