東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一振り 日本刀 スカーッと爽やか 日本刀♪」

其の53(南北朝・パートII・大平(変)記)

愛三木材・名倉 敬世

 この時代の日本刀の最大の特徴は"重厚長大"という事であり,俗に怒物造の太刀と云う。三尺(90cm)?五尺(150cm)位あり,とても普通には抜けないので小者が担いで従った。
 山金造黒漆蛭巻大太刀(号・柏太刀)日光二荒山 蔵 重要文化財。
「刀身」136.6cm(4尺五寸五分)反り 4.6cm 拵え 194cm 柄長 51.1cm 南北朝時代。
縞造,庵棟,大峰の姿,地鉄は大板目流れて肌立つ,刃文は直刃調の小乱れに小互目,小丁子,足,葉,混じり,総体に匂いがちで所々にむら沸が付き,砂流し掛り,ハバキ元で焼き落す,帽子は表が焼詰で掃掛け,裏は小丸で先は火炎ごころとなる。彫物は表裏に丸留の棒樋を掻く。
 「拵」 柄鞘ともに薄革張りに黒漆塗りで山金の蛭巻きを施す。鞘は足金物を付け,鞘口から二の足先へ掛けて鍬形状の雨覆を施す。蛭巻きの幅は柄の方を狭く鞘の方を広くし,更に柄と鞘とを逆向に巻き変化を付け柄頭に猿手を付ける。鍔は銀銅製の木爪形で四方に猿目を透かす。
※ 日光二荒山神社は,この柏太刀と禰々切丸・瀬戸の太刀の三口を御神刀として,弥生祭(四月十七)に牡鹿の生皮に載せて神前に捧献する。鹿はその年にご神体の男体山で捕獲したものとされ,頭部を残した姿で供えられる。この習慣は刀剣奉納の形態では無く,二荒山信仰の基盤である「マタギ」信仰による。
 天皇家と武家の主導権争いも,元弘四年(1334)の鎌倉幕府滅亡を以って天皇方の勝利で目出度し〃〃と思われたが,ところがギッチョン。その直後から後醍醐天皇を中心とした,「建武の新政権」のなされ様に,武家の不満が沸点に達し爆発!。そして内部崩壊を起し前にも増しての激烈なバトル,殺し合いがこの後も延々と約60年も続くのである。
 この原因は,「お互いの思惑ハズレ」という事である。天皇や公家は天皇が一言申せば,その威光に日本国中は感涙し等しくひれ伏すと思い込んでいた様だが,これは甘かった。
激動の時代になると貴族と庶民の意識に変化が生じ,貴族はその点の認識が不足していた。
 武家は家名を起こす為の一所懸命の働きでようやく勝組となったので,とにかく功績に対する恩賞が一番であったが,この願望が聞き届けられず無視され,ネジレの因となった。
 貴族(朝廷)の武家に対する見方は,平安期とは違って来ていたが未だ粗野なる者の範疇で,昇殿を許された堂上公家(五位上)から見れば,「右むけ右」,の番犬の類でしか無かった。又,武家(当時の大半の者は悪党と呼ばれていた)も皇族・貴族に対する認識は極めて薄く,太平記に足利尊氏の執事として一時は大変な権力を握った高師直と弟の師泰の言として,「都には王と云う者が居て,多くの所領を占有し,内裏・御所と云う所も多い,為に馬から降りるのも煩わしい。王は居ても幕府が全てを計らっているではないか,王は居無くても不便はあるまい。若し居なくては不便だと云うのなら,木で造るか金物で鋳て安置するか,二つの内から選べば良い。本当の国王や院は何処ぇでも流して捨てるのが,天下の為には良い事で,えこ贔屓が無いだろう」と述べている。当時の師泰は尊氏の左腕クラスの武将(右腕は兄の師直)なのだから,これはビックリ語録でご猿。師泰はこの四年後に敗死す。
後醍醐天皇画像
 一番に後醍醐天皇がなされた事は,広大な旧幕府領は自身の直轄地とし,上皇・貴族・大社寺の領地は元の如く安堵され,次に大内裏の造営であって,命がけで働いた武家への褒賞は無いに等しかったので,ブーイングの嵐となった。そこで楠木正成が雑訴決断所の長官となり不満の解消に努めた。然し,厳正に処理をしても直ぐに近臣侍女達の内奏にて覆り,「サシタル事モ無キ,郢曲歌道ノ家,蹴鞠能書ノ輩」が武士よりも重い恩賞を受け,寧ろ不満は増大の一途となり,新政権に納まり武者所長官になった新田義貞や楠木正成は武士や農民からは浮き上がり,「持ちもならわぬ笏」を持った官僚と化してしまった。その為,不満が武士の間に充満し,それが何時しか足利尊氏の元に結集する因となった。この時点での尊氏は今流に言えばMKYなのである,正にメッチャ空気が読めたのでご猿。

  太平記(大変記とした方が正解?)の後半は,天皇家の南朝・北朝の争いであるが,実際は新田義貞VS足利尊氏の同門同士のバトルであった。それにしても義貞と尊氏は仲が悪い。
足利尊氏の木像
新田義貞と伝えられる木像
 共に八幡太郎義家の次男の義国より分れ,義国の長男が新田義重でその七代目が義貞,次男が足利義康で同じ七代目が尊氏。由緒正しき源氏の血脈で鎌倉幕府の御家人で有力な武将で,領国も下野(群馬県)の太田市と渡良瀬川を挟んだ栃木県の足利で目と鼻の先である。その上,両人共に途中で強烈な裏切りとヘンシンをして後醍醐天皇方となり,鎌倉幕府の崩壊の因となった。よって「天皇親政」と云う公家主導の建武政権が立ち上ったのでご猿。
〜ここ迄は同一歩調ながら,ここで尊氏は再度のヘンシンをして,アンチ後醍醐となる〜。
 この五年後(1339)に後醍醐天皇は吉野で崩御するが,この時の尊氏に対する恨みは凄い。
 「…ただ死後,永遠の妄執にもなるであろうことは,朝敵尊氏の一門を滅ぼして,天下を泰平にしようと思う,この一つの願いだけである。〜我が亡骸は仮に吉野山の苔に埋もれたとしても,霊魂は常に北方の皇居の空を望んでいようと思う〜」,これが遺言でござるぞ。併し,遺言とは裏腹に南朝は憑いてナイ,後醍醐帝の逝去に前後して,これまで南朝方の有力な武将であった,楠木正成,名和長年,北畠顕家,新田義貞,脇屋義助(義貞弟),等が相次いで討死をして,段々と勢いは傾いて行くのである。それでも四回は京都を奪還する。
四条縄手の合戦。急に合戦となり,高師直の鎧を着て出陣しようとする上山六郎左衛門(右端)。
激しい合戦に敗れ,楠木正行兄弟は,互いに刺し違えて自害する(左下)。

義貞最後の奮戦
新田義貞(1301〜1338)画像 尊氏使用の腰刀
貞和三年(1348) 一月 高師直,吉野・行宮・蔵王堂を焼く。後村上天皇,賀名生に避難。
  三月 高野山衆徒,南北双方に加勢しない事を誓う。
  十月 光明天皇(北朝)が譲位,崇光天皇即位。
貞和四年(1349) 六月 直義,高師直と不和,京都市中が騒然。尊氏,師直の執事職を解任。
  八月 師直,直義を追って尊氏邸を囲む。尊氏,直義の政務を停止する。
  九月 尊氏,嫡男・義詮に替えて三男・基氏を鎌倉公方とする。
  十月 義詮入京,直義に代り政務を執る。直義,出家する。
観応元年(1350) 四月 徒然草の吉田兼好(68)没。(徒然なるままに,日暮し硯に向かいて)。
  八月 義詮,高師直,が美濃の土岐周済を討ち帰京。
  十月 直義,京都を脱出し大和へ逃れる。(観応の擾乱)
  〃〃 尊氏,直冬追討のため高師直らを率いて出陣。
  十一月 直義,師直・師泰討伐のための兵を諸国に募る。
  〃〃 光厳上皇,幕府の求めに応じて直義追討の院宣を発する。
  十二月 直義,南朝に帰服。
  〃〃 尊氏,京都の急を聞き,備前福岡から急遽リターン。
観応二年(1351) 一月 尊氏,桃井直常と合戦し利あらず播磨に退却。直義軍入京。
  二月 光明寺合戦。打出浜の戦い,尊氏,直義軍に破れ敗走。
  〃〃 尊氏・義詮,直義と和睦。上洛の途中にて高師直,師泰を殺害。
  五月 南北両朝講和,但し北畠親房の反対により決裂。
  七月 直義と義詮不和,尊氏,直義追討を図り,直義北国に逃れる。
  十月 尊氏,南朝に下り直義の追討を命じられ,出陣。
  十一月 直義,鎌倉に入る。尊氏,駿河の薩錘山にて直義を破る。
文和元年(1352) 一月 尊氏,直義と和睦,鎌倉に入る。
  二月 直義(47)急死,(尊氏による毒殺)。新田義宗,義興,挙兵し鎌倉入り。
  〃〃 北畠顕能,楠木正儀,入京し義詮,近江に逃れる。
  三月 尊氏,武蔵野合戦で新田軍を破り鎌倉奪回。義詮は京都を奪回
  八月 山名師氏,佐々木道誉と対立する。
文和二年(1353) 一月 尊氏,北条時行(前鎌倉執権高時の遺児)らを処刑。
  六月 楠木正義入京(南朝第二回京都奪回)。義詮,近江〜美濃に逃れる。
  七月 義詮,京都回復。尊氏,後光厳天皇を奉じて入京。
文和三年(1354) 二月 「神皇正統記」の北畠親房(62)逝去。
  十月 後村上天皇,河内・金剛寺に還幸。
  十二月 足利直冬,京都に迫り,尊氏,近江に逃げる。(第三回京都回復)
文和四年(1355) 一月 足利直冬,桃井直常,山名時氏ら南朝勢力入京。
  二月 両朝勢力,京都で合戦。北朝が勝ち後光厳天皇,義詮等入京。
延文元年(1356) 一月 斯波高経,尊氏に下る。
延文二年(1357) 二月 光厳上皇ら帰京。

四月三十日 足利尊氏(54)没。
十月 足利義詮(嫡男),征夷大将軍に任命される。

 この後も相変らず戦いの日々が続きますが,応安元年(1368)の大晦日の一日前の三十日に,第三代の征夷大将軍に足利義満が就任した頃より,世情が大分落ち着いて参りましたが,それでも明徳三年(1392)に南北両朝が合体し,北朝の後小松天皇に神器が譲られる迄には,24年もの月日が必要でした。そして,これからが「室町・花の御所」の始まりでござんす。
そして刀剣も世の中が落着くと長大な怒物造は姿を消し,鎌倉・平安期の姿に戻りました。これが「応永物(備前)」として,とみに最近は識者に評価され珍重される所以であります。
太刀 銘 備州長船盛光 応永二十三年十二月(1416)        重要文化財。
長さ82.8cm 反り2.3cm 先幅2.1cm 元幅3.2cm
鎬造り,庵棟,中切先で,踏張りがあるが,先反り気味で時代色を表している。
鍛えは板目やや流れて肌立ち,直ぐに映りが立ち,刃文は丁子と互の目が混じり,匂口は締まり,足よく入り葉が混じり,砂流し掛る。帽子は乱込み,表は焼詰,裏は深く返る。表裏に棒樋を掻流し,ハバキ元で丸留,中心は生で,栗尻が張り,鑢目は勝手下がり。目釘穴1ツ,表棟よりに長銘,裏に年季がある。
※この太刀は秋田の佐竹公爵家伝来の一振りで,古くより同作中の白眉と云われています。
 物事は需給のバランスにて左右されますが,刀剣の場合そのファクターは戦であります。古来より,大戦があると当然ながら武器は大進歩を遂げます。前九年後三年,蒙古襲来,源平合戦,南北朝,応仁の乱,迄が名を惜しんだ武士の生甲斐のある時代で有りました。

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