東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一振り 日本刀 スカーッと爽やか 日本刀♪」

其の54(太平(変)記・アラカルト)

愛三木材・名倉 敬世

 鎌倉から南北朝期(1333〜1392)の60年は戦に次ぐ戦の為,実践的で質実剛健な名刀が数多く活躍を致しましたが,本来,戦記物の描写の中には「前九年後三年」・「平治物語」・「平家物語」等でも衣装や乗馬や戦闘の情景の描写は多いのですが,太刀・薙刀の得物の作者の個名は余り出て参りません。然しその中でも「太平(変)記」には持主と共にその名が記されている場合がございますのでこの辺も戦闘状況と一緒にご披露を致して見ましょう。
 又,約150年も続いた鎌倉幕府が意外にモロく崩壊したのでは?,と思われていますが,当時は命よりも名を惜しんだ時代ですし,名にし負う東国の武士団同士の激突ですので,その気概を以っての力戦奮闘は流石でありやす。勝敗の帰趨が判明した後の立ち振る舞の潔ぎ良さは特筆もので,大概の武士が介錯は無用と自分で腹掻っ捌いて散って往きました。

 「太平記・巻の十」,場面は鎌倉に通じる七つの「切り通し」も各所で破られ幕府崩壊も間近にてヤマトンチュー(日本人)なら誰でもご存じの「稲村ガ崎」陥落のハイライトでご猿。
新田義貞
(鴨下晁湖筆・東京都養正館蔵)
  〜義貞,竜神に向い祈誓し,「仰ぎ願わくば,潮を万里の外に退け給へ」と言上して,自ら佩びたる金作りの太刀を解きて海中に投げ入れ給ふ。さすれば潮の干ることの無き稲村ガ崎が俄かに二十余町も干し上り,平〃たる平沙となりぬ。不思議と云うも類なし。義貞これを見給いて,「…進めや者共!」と下知すれば,大館・江田・里見・烏山・田中・山名・桃井の越後,上野,武蔵,相模の軍勢,六万余騎が一手となりて稲村ガ崎の遠干潟を真一文字に駆け抜けて鎌倉中へ乱れ入る〜。
 
 北条家の内管領として実権を握っていた,長崎円喜高綱・高資父子の一族,長崎三郎左衛門入道思元と勘解由左衛門為基父子は極楽寺切通しで防いでいたが,稲村ガ崎が破られ新田軍が怒涛の如く押し寄せて小町口に迫った時,手勢六〇〇騎を引き連れ小町口に廻り義貞勢と戦っていた。その時,扇ケ谷,天狗堂,方面にも敵軍が現れたので,父の思元はそれに当ろうと其方に向かう,別れを惜しむ為元に父は「幾日も離れて居る訳ではない,どうせ今日一日の分れなり,明日は冥土の路を一緒に歩く我らではないか」と叱咤する。倅の為基も悲しみに耐え「されば死出の山路でお待ち下され」と残る二十余騎の兵を率いて義貞軍の中に駆け入り奮戦す。
 「為基が佩びたる太刀は面影と名付け,来太郎国行が百日精進して百貫にて三尺三寸に打ったる太刀なれば,この切先に廻る者,甲の鉢を縦て割りに破られ,胸板を袈裟懸けに切って落とされけるほどに…」近づく者も無く,取り囲んでは遠矢を射るあり様。為基は由比ガ浜の大鳥居の前で馬を降り手負たる振りをして休んでいた。それを見た五十騎程が,首を取ろうと近ずいて来た。為基がガバッと跳ね起きて「戦に疲れ,昼寝をしていたのに邪魔をする奴は誰だ,首が欲しくれば呉れてやろう」と太刀を振うと五十騎の者が蜘蛛の子を散すが如くに逃げ散った。為基,この日は大いに奮戦するもその後の生死は分らず。
太刀 銘 国行
 太刀・銘・国行 長さ76・30cm(2尺5寸2分)反り3・0cm(1寸) 鎌倉時代 国宝。作風は小沸できの丁子刃で小丁子が混る。刃中よく働いた刃文に肌立った地沸の付いた板目肌。来国行は来派の事実上の租で,現存する作の殆んどは太刀であり,その体配には身幅の広い物と,比較的に細身の二様がある。この太刀は細身ながら鎌倉中期の太刀姿の典型にて,同工の代表作。樋中の三鈷付剣の浮彫は同派には他に類を見ない。明石の松平家に伝来したものである。

  尚,上記の太刀は「面影」ではござんせん。面影と同じ作者の良く似た太刀でござる。刀名の由来は,始め国行は同時に二刀を造り,面影と鉋丸と名付け鉋丸は北条高時に献上,面影はこれを抜くと人の顔が刀身にありありと映るのでその名を付けて,秘蔵していたが,たっての願いで為基に譲り,為基が散々に新田軍を切り捲った後,行方をくらましたので行方知れずになっていたが,200年以上も経った室町末期に小弓御所の足利義明の愛刀として登場。天文七年(1538)十月に義明が上総の国府台で討死した時は,この面影の太刀と二尺七寸の赤銅造りの太刀を佩き副え,法城寺の大薙刀を掻込んだ出で立ちだったと云う。
 江戸期になり岡山の池田輝政が入手し三男の鳥取城主の忠雄に贈るが,鳥取城で被災し,焼身となり名人の角野寿見が砥ぎ直すが,再度の出火でお釈迦となる。

 大仏貞直・金沢貞将・普恩寺信忍ら北条一門の諸将も僅かな手勢を率い懸命の防戦するが衆寡敵せず全員討死を覚悟す。最後の一戦を遂げた長崎高重は,執権・北条高時の籠もる東勝寺に戻り走り回って,一同に「早くご自害ください,高重がお先に自害して,手本をお見せ申しましょう」と云うや否や鎧を投げ捨て,高時の前にあった盃を取って弟に酌をさせ,三度飲み干してから摂津刑部大夫道準の前に置き,「一献差し上げましょう,これを肴になさって下さい」と,左の脇腹に刀を突き立てて,右の脇腹まで,長く掻き切って,腸を手繰り出して,道準の前に倒れ伏した。道準は盃を手に取って「ああ,よい肴だ。どんな下戸でも,これを飲まぬ者はおるまいぞ」と戯言を言って,その盃を半分ほど飲み残して諏訪左衛門入道の前に置き,同じく割腹をして果てる。諏訪入道直性はその盃で心静かに三度傾け,執権・相模入道高時の前に置いて,「若者たちがたいそう趣向を凝らしてもてなしてくれたのに,年寄だからと言って何もしないで良いはずはありません。今から後は皆さん,これを送り肴になさるがよい」と言って,十文字に腹を掻き切り,その刀も相模入道の前に置いたのである。
東勝寺へ戻った長崎高重を始めとして,側近たちが次々と自刃,ついに北条高時も自害し,館には火がかけられる。 元弘3年,鎌倉幕府は滅亡した。

高重御自害の手本いたさんとて,御さかつき三度かたむけ,摂津刑部大夫入道道隼にさして,腹わたくり出し,臥にけり。道隼盃を相模入道にさして,はらをきる。長崎入道円喜とかくためらひしを…
北条時貞の最後  
 長崎入道円喜は,相模入道高時の事を常に気に掛けていたので,今だ腹を切らずに居た。しかし,今年十五になる長崎新左衛門が祖父の前に威儀を正して,「父祖の名を後世に顕す事を以って子孫の孝行とすると云う事なので,神仏三宝もきっとお許し下さるでしょう」と言って円喜の肘の付根を刺し,自分の腹を掻切り祖父を引き伏せその上に重なって倒れた。
 この若武者に武士の道を示されて,相模入道も切腹なされたので,続いて城入道有時が腹を切った。この様子を見て館の中に居並んで居た,北条一門も他家の人々も思い思いに,腹を切る人や自ら首を掻き落とす人も有り,最後の様子は誠に立派に見えたのであった。

  その他の人々の名は,金沢太夫入道崇顕,左介近江前司宗直,甘名宇駿河守宗顕,子息・駿河左近大夫将監時顕,小町中務大輔朝実,常葉駿河守範貞,城介高量,城加賀前司師顕,名超土佐前司時元,伊具越前前司宗有,秋田城介師時,南部右馬頭茂時,相模右馬助高基,陸奥右馬助家時,武蔵左近太夫将監時名,陸奥左近将監時英,桜田冶部大輔貞国,阿蘇弾正少弼冶時,江間遠江守公篤,苅田式部大夫篤時,備前左近大夫将監政雄,城美濃守高茂,遠江兵庫助顕勝,坂上遠江守貞朝,陸奥式部大夫高朝,城式部大夫顕高,墨田二郎左衛門,摂津宮内大夫高親,秋田城介入道延明,明石長門介入道忍阿,摂津左近大夫将監親貞,等,これ等を始めとして北条一門の人々三百八十余人,我れ先にと腹を切り館〃に火を放った。猛火が盛んに立ちのぼり,黒煙は空を覆った。
 庭や門前に居並んでいた兵達もこの様子を見て,或いは腹を掻き切って炎の中に飛び込む者も有り,また父子兄弟で刺し違え,重なり合って死ぬ者も有り,血は流れて大地に溢れ大河の如く,屍は道〃に横たわり累々として葬送の原野の様である。骸は焼けて判らねど後で名を尋ねれば,この一所で死んだ者は八百七十余人であった。他に一門の者や恩顧を蒙った僧俗男女,死語の世界で恩に報ずべきとの人々は遠国は知らねど鎌倉中を数えると,総計六千余人の多きであった。
 尚,時を同じうして京都の六波羅に有った幕府の南北の探題も尊氏に攻められ壊滅する。探題北方の北条仲時(南方・北条時益)は光厳天皇を奉じて,鎌倉で再起を期すべく東へと向ったが,近江の番場で援軍が来ない事を知り,(この時,後を追った援軍の佐々木時信は六波羅軍は番場で全滅したとのデマを信じて,致しかた無しと京都に引き返してしまった。)仲時はついに進退窮まり,最後の演説をして蓮花寺の本堂前で一族郎党と共に自刀をする。その数,四百三十二人に及び,帝や上皇はこの有様を見られ気を失われんばかりであった。この蓮花寺にはその時に自刀し姓名の判りたる者,百八十九名の過去帳が今も残っていて,「紙本墨書陸波羅南北過去帳」として,国の重要文化財となっておりやす。
※因みに,この事件は今より675年も前の事になりますが,この様に近江・番場の蓮華寺や鎌倉の東勝寺で武士らしく最後を全うした方々の有縁の方が居られましたら,お名前等お教え頂ければ後の参考になります。
 一応,これにて「建武の新政」がスタートする訳ですが,すかさず京の二条河原に
大変に中身の濃い名文の「落書」が出現しました。この落書は当時の情況を実に的確に伝えておりますので,下記に掲げて見ますので,ご参考迄に目通しの程を願い上げます。

 以下に,原文の冒頭と末尾の部分を記載しておきます。

  成立は後醍醐帝の親政が開始された直後(1333)であり,作者は不詳なれど,博識にて能筆な公家か僧侶と云われて居りますが,室町期以降の武家の教科書とされ,百科事典とされた「庭訓往来」を著わした「玄恵」ではないかと言われております。

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